第1話:「10センチの隙間」1
初めまして、読者の皆様。作者の林優一です。
まずはこの小説を開いていただいたことに、心からの感謝を。
――と、私が事務所の年季が入ったソファでノートパソコンに向かっていると、デスクの向こうから呆れたような声が飛んできた。
「ちょっと、林。僕の事務所を作業場にするのは構わないけどさ。そうやって僕を差し置いて読者の方と盛り上がるのはやめてくれない?」
「おや、小林くん。君も読者の皆様に挨拶したいのかい?」
「当たり前だろ。僕がこの物語の主役なんだから」
彼はブラウンのトラウザーに同系色のベスト、着用した太い黒フチのメガネをくいっと指で上げながら、自分のデスクの上でティーバッグの入ったマグカップにゆっくりとお湯を注ぎ、少し照れくさそうにあなたへ一礼した。湯気と共に、アールグレイの華やかな香りが微かに漂ってくる。
「失礼しました。初めまして。ここで小さな探偵事務所の所長をやっています、小林優希と申します。以後、お見知りおきを」
そう、彼こそが、この物語の主役である。
私と彼は同い年、今年で32歳になる。ちなみに私は、黒のサマーニットにスラックス、小林とは対照的な細いメタルフチのメガネをかけた、至ってシンプルな服装でこのソファに陣取っている。
都心から快速電車に揺られて三十分弱。かつて文豪たちが愛したという古い用水路が流れ、深い緑とお洒落なカルチャーが程よくブレンドされた、とある武蔵野の面影を残す架空の街。その中心駅から歩いて五分。一階にひっそりと佇む、セピア色の照明が灯った古い古書店――その脇にある狭い階段を上った二階――ここが彼の城だ。
といっても、この二階は一階の古書店の倉庫も兼ねている。部屋の八割は、天井まで届く本棚と、うず高く積まれた古書の山で埋め尽くされており、探偵事務所としてのスペースは、その隙間に小林のデスクと私の陣取るソファをどうにか押し込んだ程度。実質、本の方が部屋の面積を占めている。
助手もいない、事務員もいない。舞い込む仕事といえば、猫探しや近所の人間関係のお悩み相談ばかり。
そんな本に囲まれた小さな探偵事務所で、彼が解き明かす「少し奇妙な日常の謎」を、同い年のよしみで私(作家・林)が隣で記録し、皆様にお届けしようと思う。
*
「――よし、これで前書きの執筆はバッチリだ」
私がノートパソコンのエンターキーを少し強めに叩いた、その時だった。
開け放った窓から吹き込む、五月の少し汗ばむような風。春にさよならを伝えながらも、夏をどこか健気に追いかけているような、そんな青く澄み渡った五月の午後。一階の古書店から漂ってくる古い紙の馨しい匂いと共に、事務所の建付けの悪いドアが、遠慮がちにトントンと叩かれた。
「はい、どうぞー」
小林が透き通った琥珀色のマグカップに口をつけながら応じると、入ってきたのは、この薄暗い雑居ビルにはおよそ似つかわしくない人物だった。
衣替えを少し先取りしたような、白い半袖のカッターシャツにチェックのスカート。片手にスマートフォンを握りしめた、17歳くらいの女子高生だ。彼女は不安そうに室内を見回し、デスクの奥の小林と、ソファの上の私を交互に見てから、小さく頭を下げた。
「あの……ここって、猫とかも探して、もらえるんでしょうか……?」
「ええ、もちろん。迷子のご家族の捜索は、うちの稼ぎ頭ですから」
小林はそう言ってパイプ椅子を彼女に勧め、それから私の前のマグカップをチラリと見た。インスタントコーヒーに、冷蔵庫から出した牛乳をなみなみと注いだ、私のいつもの定番だ。
「林、そのカフェオレ、まだ一口もつけていないよね? お客さんに譲ってあげて」
「自分の紅茶を出せよと言いたいところだが……まぁいいだろう。どうぞ、結衣さん。少し甘いけど」
冷たいマグカップを受け取った彼女の名前は、結衣さん。この近くの高校に通う2年生で、三日前から飼い猫の『マイ』という名前の三毛猫が家に帰ってこないのだという。
「ただの家出なら、警察より僕のところに来て正解。……だけど、何か引っかかることでもあるの? そんなに不安そうな顔をして」
「『ただの猫の家出でしょ』って、警察にも大人にも相手にしてもらえなくて……。だから私、マイがいなくなった三日前、いつも歩く用水路の遊歩道から外れて、一本裏の古い住宅街の通りまで行って、近所の人たちに『三毛猫を見かけませんでしたか』って聞き込みをしたんです」
結衣さんは悔しそうに口を尖らせた。
「そしたら、通りの人たちが『ああ、あの三毛猫なら、ここ数ヶ月、毎日夕方の四時になると、遊歩道側の生垣の隙間からこの古い家の庭に忍び込んで、二階の窓を見上げて鳴いていたよ』って教えてくれて。教えてもらった場所へ初めて行ってみたんです。……これなんです」
結衣さんは意を決したように、片手に握りしめていたスマホの画面を小林に差し出した。画面には、深い緑の生垣に囲まれた、古い洋館の写真が映し出されている。
「あそこ、私がいつも歩く遊歩道のすぐ裏手にある家だったんですけど、高い木に隠れてて、表の通りに回るまで全然気づかなくて。近所の人には『何年も雨戸が閉まったままの空き家だよ』って言われたんです。なのに、私がその家の前に行って見上げたら、二階の窓が、少しだけ開いてて……」
結衣ちゃんは、ぎゅっと自分のスマホを握りしめた。
「それを見た瞬間、すごく怖くなっちゃって。うちのマイ、いつも家のドアや窓を、自分で器用に『十センチくらい』だけこじ開けて通り抜ける癖があるんです。その洋館の窓の隙間が、自宅でいつも見ている、まさにマイが通り抜けるための『十センチの隙間』ぴったりに見えて……。何年も閉まりっぱなしだった空き家なのに、マイがいなくなった時期に、どうしてマイ専用の幅だけ窓が開いているんだろうって。中から誰かがマイを閉じ込めてるんじゃ、って怖くなって……」
「なるほどね」
小林は太いフチのメガネの位置を指先で直しながら、結衣からスマホを受け取り、画面の画像をじっと睨みつけた。普段あくびばかりしている男だが、こういう「一見無意味に見える奇妙な違和感」を見つけると、探偵としての鋭い顔が覗く。
「分かった。その依頼、僕が引き受けよう。マイちゃんはきっと無事さ。すぐに見つけてあげるから、君は安心して学校に行きなさい」
「本当ですか……っ? ありがとうございます!」
結衣さんはパッと表情を明るくし、カフェオレを二口ほど美味しそうに飲んでから、何度も頭を下げて事務所を後にした。
彼女が立ち上がった拍子に、小脇に抱えていた通学カバンのファスナーの隙間から、半分に折り畳まれたプリントが覗いた。小林の鋭い目は、そこに印刷された『数学Ⅱ・中間考査解答用紙』という文字と、その上に赤ペンで殴り書きされた『2年3組』というクラス名を、一瞬で見抜いた。
「――というわけだ、林先生」
小林はベストのポケットにペンをしまいながら、冷めかけた紅茶を飲み干した。
「大物殺人犯も怪盗も来ないけどさ、小説の第一話としては、そこそこ面白そうな謎でしょ? マイの飼い主の直感が捉えた、開かずの窓の十センチの隙間。そして、その窓を見つめ続けていた三毛猫マイの失踪」
「確かに、17歳の女子高生からのSOSとなれば、読者のウケも良さそうだ」
「下心丸出しな言い方はやめてよ。ほら、ちょっと現場を見てくる。林も来るだろ? 僕には助手もいないし、荷物持ちが必要なんだ」
「嫌だね。私は作者だし、何より今日はこの後、別の原稿の締め切りがある。君は探偵なんだから、1人で格好よくフィールドワーク(調査)をこなしてきなさい」
「ええー、冷たいなぁ。……じゃあ、行ってくるよ。ちゃんと僕の活躍をカッコよく描写してよね」
こうして、32歳の探偵による、少し奇妙な『猫探し』の調査が始まった。




