負けるのって、こんなに難しかったか?
第6話 負けるのって、こんなに難しかったか?
どこかのブロックで「最初はグー」の声が上がり、別のブロックで歓声が弾け、その裏で誰かが本気で悔しがっている。百人ぶんの人生が、たった一手ずつで削られていく音がした。
一回戦
吉兆の相手はスーツを着たサラリーマンだった。細身のスーツ、磨かれた靴、固めた髪。営業職の見本のような男である。
サラリーマンは吉兆と対峙するや否や距離をつめ、口元を手で隠し、耳のすぐ横まで顔を寄せてきた。
「君、私はこれから大事な取引があるんだ。私はグーを出すからわざと勝ってくれないか?」
サラリーマンは用件だけを伝えると、サッと踵を返した。相手の話は聞かない。営業職として優秀なのだろう。
「いや……俺も……」
負けたいんですけど……と言おうとした吉兆だったが、サラリーマンは下手な演技で吉兆の言葉をさえぎる。
「よし! 負けないぞ! 審判さっさと始めてくれ! 負ける気がしない! 大事な事だから二回言った!」
その言葉と共に審判が始めの合図を出す。
「最初はグー、ジャンケン……」
(えぇ……えぇ~)
サラリーマンの下手な演技に飲まれ、吉兆は慌ててパーを出した。勝ってしまった。
「……」
吉兆は自分の出したパーを見つめ、呆然とした。
サラリーマンは先ほどと同じように距離を詰め、口元を隠して小声で言った。
「有難う。青年よ。もし君が私の会社を志望することがあったら、人事に良く言っておこうじゃないか」
サラリーマンは今までグレーゾーンギリギリの契約を数多くこなしてきたのだろう。言葉と態度に全てが滲み出ている。
「あぁ! 負けてしまった。百三十億がぁ」
頭をかかえ、天井を仰ぎオーバーなリアクションをとっていたが、下半身はそそくさと出口に向かって消えていった。
二回戦
相手は五歳だった。
正確には、五歳と本人が言った。指を五本立てて言ったので、たぶん合っている。背丈は吉兆の腰より下にあり、ゼッケンは膝まで垂れている。
吉兆はチョキを出した。この年頃はまず握ってくる。グーに負ける手を置いておけば済む話だ。理屈ではない、人生経験である。
子供の手が出た。
小さすぎて、形が分からない。指は全部曲がっているようにも、全部伸びているようにも見えた。
にぎり飯である。
「……えー、パーですね。真田さんの勝ちー」
「え」
子供は無邪気に笑いながら、母親のところへ走っていった。
「よかったねぇ」
母親が笑顔で受け止める。吉兆には一体何が良かったのかは理解出来ない。
子供は走りながら、後ろ手に、にぎり飯を振っている。
「バイバーイ」
吉兆はしばらく、自分の右手を見ていた。
(負けるのって、こんなに難しかったか?)
三回戦
相手は金髪だった。正確には、金に近い茶色である。爪が長い。あの長さでグーを握ったら手のひらに穴が開くのではないか、と吉兆は思った。この日はじめて、勝敗ではなく相手の指の心配をした。
「うちさぁ、友達に付き合わされて来ただけなんだけど」
「奇遇ですね。俺もです」
話が通じた。それだけで、少しありがたかった。
あとは早かった。
あいこ。あいこ。三度目で、吉兆のグーが女のチョキを砕いた。負けたほうが「あー」と言い、勝ったほうも「あー」と言った。それで終わりだった。
「あんたさぁ、手ぇ振んないんだね」
「振ると疲れるじゃないですか」
真実である。吉兆はこの大会に、勝ちにも負けにも来ていない。ただ帰りたくて来ている。帰りたい人間は、腕を三回も振らない。
「ふーん。……ってかさ、鈴宮ヒカリって知ってる?」
吉兆の足が止まった。
「……なんでその名前が出てくるんですか」
「朝から会場中その話じゃん。五年ぶりに出てきたとかなんとか」
「五年ぶり?」
「知らないんだ」
女は長い爪で髪をすくい上げると、それきり何も言わずに、友達らしき集団のほうへ帰っていった。
(俺以外の全員が知ってる、みたいな顔しやがって)
右手の中で、指が勝手にグーとパーを作っている。
(五年ぶり、ってなんだよ)
早く負けて帰りたい。それはまだ変わっていない。
ただ、負けて帰ると、この件は一生分からないままになる。
四回戦
吉兆の相手は、机を持ち込んでいた。
正確には机ではない。アウトドア用の折り畳みテーブルである。その上にノートパソコンが一台、堂々と開かれていた。会場に電源などないので、当然バッテリー駆動だ。男は大学生か、その少し上に見えた。前髪が目にかかっており、その隙間からモニターを睨んでいる。
「あの、それ、なんすか」
男はモニターから目を離さなかった。
「データです」
「データ」
「日本人が最初に出す手の分布です。公開されている大会記録と、僕が街頭で採取した実測値を合算しました。母数は八万七千四百二十一件」
男は早口だった。息継ぎの位置が独特で、句読点のない場所で急に吸う。
「結論を言います。グーが三十五・二パーセント。パーが三十三・一パーセント。チョキが三十一・七パーセント。人間は緊張すると手を握る。だから初手はグーに偏る。これは統計です」
男はそこで初めて顔を上げた。
「つまりジャンケンは、運ではない」
吉兆は無言だった。
(面倒臭いな……この人)
この日、吉兆がこの感想を抱くのは、これが最後ではない。
「あの、俺、負けたいんですけど」
「負けたい?」
「はい」
「……なるほど。攪乱ですね」
「いや」
「大丈夫です、想定内です。第二層まで読んでいます」
男は聞いていなかった。この会場には、どうも人の話を聞かない者が多い。吉兆はそう結論づけることにした。
「いいですか。相手がグーに偏ると知っている人間は、パーを出します。それが第一層。ならば僕はチョキを出す。それが第二層です」
言い終えると、男はモニターを吉兆のほうへくるりと回して見せた。
棒グラフだった。色は青と赤と黄色で、右下に何かの数式が小さく載っている。吉兆はそれを三秒ほど眺めた。
そして、目を離した。
「グーが三十五・二、パーが三十三・一、チョキが三十一・七。二十代男性だけで見ると三十六・八、三十二・〇、三十一・二。関東地方の休日の午後だけを抜くと三十四・一、三十四・〇、三十一・九。……で、この一番下の細かい数字は何すか」
「…………は?」
男の前髪が、静電気を帯びたようにわずかに持ち上がった。
「いや、だから一番下の」
「今、僕のグラフを、見ましたか」
「見ましたけど」
「三秒ですよ」
「はい」
「……全部、読めたんですか」
「読むっていうか、覚えただけです」
吉兆にとって、これは自慢ではない。事実の報告である。彼は昔からそうだった。数字と、一度見たものと、それから自分が負けた回数を、勝手に覚えてしまう。学部を間違えたのではないかとヒカリが言うのは、だいたいこういう時だ。
男はしばらく黙っていた。それから、両手でノートパソコンをそっと閉じた。
閉じる音は、思ったよりも大きかった。
「訂正します」
「はい?」
「あなたは、第二層を読める人間だ」
「読んでないです」
「ならば僕は、第三層に行かねばならない」
「行かなくていいですって」
男は聞いていなかった。
審判が折り畳みテーブルの横に立ち、少し困った顔をしながら合図を出す。
「両者前へ。最初はグー」
(面倒だから、負ける手を出そう)
この男はチョキを出すと自分で言った。ならばグーを出せば勝ってしまう。パーを出せば負ける。ならばパーだ。
迷いはなかった。この大会に来てから、彼が最も速く決断した瞬間である。
「ジャンケン」
男の指が動いた。吉兆には見えなかったが、その指はいったんチョキの形を作りかけ、途中で止まり、そして握られた。
第三層である。
「ぽん」
吉兆 パー
男 グー
「なっ……」
男は自分の拳を、まるで他人の手のように見つめていた。
「なぜ、パーなんですか」
「あなたがチョキって言ったからです」
「言いましたが」
「じゃあグーで勝っちゃうじゃないですか。俺、負けたいんで、パーです」
「……第五層」
男は膝から折れた。折り畳みテーブルが巻き添えで畳まれ、落ちかけたノートパソコンを吉兆が慌てて受け止める。
「三年です」
「はい」
「三年かけて、八万七千四百二十一件を集めました。あなたは、何も集めていない」
「集めてないですね」
「なのに、なぜ僕の数字を覚えているんですか」
「覚えちゃったからです。覚えようとしたわけじゃなくて」
男は黙って折り畳みテーブルを畳み、ノートパソコンを小脇に抱えて出口へ歩いていった。三年ぶんのデータを持ったまま、四回戦で負けた男の背中である。
吉兆はその背中を三秒だけ見送り、それから次のブロックへ向かった。
この先も、似たような人間ばかり出てくる。
あと二回、勝ってしまうまでは。




