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バブル戦争経験者

第5話 バブル戦争経験者


全国民ジャンケン大会

~神奈川地方予選当日~


朝から三十四度あった。


駅前のアスファルトは照り返しで白く、蝉の声が層になって降ってくる。日陰を選んで歩く人の列が、どういうわけか、みんな同じ方向へ流れていた。


その流れの中を、吉兆は何やらブツブツ言いながら一人で歩いている。察するに、一人ジャンケンに耽っているようだ。


「ここがあぁで……こうしたらこぉで……」


出口のないトンネルをひたすら、ただ闇雲に手探りで突き進んでいく感じだ。吉兆は決して堪え性があるほうではない。この一人ジャンケンも数分経つと飽きが回って、すぐに臨界点を突破する。


「ってわかんねぇ!」


唐突に天を仰ぎ、口を開け、舌と両手を前へ伸ばしランダムに振りまくる。その一連を、通りがかりの親子が見ていた。母親が子供の手を引き、歩く速度を上げる。


吉兆は茹でタコになった。誤魔化すように、顎をさすりはじめる。


(いくら一人ジャンケンしても……ヒカリに勝てるビジョンが見えてこねぇ……)

(それに、あの『でら変態』は最後まで何も喋らなかったしな……)

(まさか……『予知』とか『心が読める』とかそんなベタで漫画みたいな事じゃないよな……それに心が読まれてたら、とっくの昔に捨てられてるだろうし……)

(もう何だかヒカリに一生勝てる気がしないな……何でだろう? はぁ……もう諦めるか……)


この男は典型的な『熱しやすく、冷めやすい』である。『冷め=諦め』の境地に至りそうだった吉兆だったが、不意に彼を呼ぶ声が聞こえた。


「きっちょー! 遅いぃ!」


それはヒカリだった。


(よし……次負けたら諦めるか……)


遠くでヒカリが手を振っている。吉兆の歩幅は、それでも変わらなかった。


「おぅ、待たせたな」


ヒカリは怒らない。この二年で、そこは諦めている。


ついでにこの男は、だいたい予想の斜め上を行く。そして今回の『それ』は不意打ちだった。


「最初はグー! ジャンケン……」


吉兆は出会い頭で、いきなりジャンケンをしてきた。RPGゲームであれば必ずモンスターから先にダメージを受ける状況だろう。しかしヒカリは一瞬「えっ?」と驚くも、拳法の達人のように優雅かつ、素早い動きでグーの姿勢をとる。


「ぽん!」


吉兆 パー

ヒカリ チョキ


(三百三十四連敗……ふぅ、もう諦めだな。帰ってヒカリと、どっか行くか)


吉兆は自分の出したパーを、開いたまま三秒ほど放置した。


「人を待たせて……いきなりジャンケン……」


ヒカリはため息をついた。顔は怒っていない。


「嫌がる私を、ほとんど脅迫でジャンケン大会に連れ出して……」


ヒカリの脳裏に、吉兆の笑顔が浮かんだ。意地の悪いほうの笑顔である。


あの笑顔で、この男はこう言ったのだ。


今まで負けて払わせた金を、交際費として折半で返せ、と。


金額にして、およそ五万円。一部のネット民が総出で袋叩きにしそうな提案だった。


払えない額ではない。


ただ、払ってしまえば、これまで勝ってきた全部を、自分の手で値切ることになる。それが嫌だった。


嫌なら大会に付き合え。それが二つ目の選択肢である。


ヒカリが黙っていると、吉兆はついでのように付け足した。


「ほら、百三十億あれば式も豪華になるじゃん」


ヒカリは三秒黙った。


右手が、口のほうへ半分だけ上がって、止まった。


吉兆は、その三秒の意味を知らない。知っていたら、あんな軽い声では言わなかったはずである。


だからヒカリは、渋々ここにいる。


渋々ということに、しておいている。


「大会当日、待ち合わせ場所であり、会場でもある区民体育館に一時間の遅刻……」


ヒカリは頬を大げさに膨らませ、腕を組んで拗ねたふりをした。


(やべ……こりゃ帰ってイチャイチャしようなんて言えねぇ……)


吉兆は引き笑いをする。


「こりゃ……スイーツ食べ放題でもおごってもらおうかねぇ」


拗ねた顔が、一転してニコニコ顔になった。


「おっおう……そうだな」


吉兆の視線は、ヒカリの肩の少し上を通り過ぎていった。


「やった!」


ヒカリは胸の前で手を握り、軽く飛び跳ねた。


(にしても……こいつ本当に怒らないな……)


目の前で女が飛び跳ねている。健康な青年なら、ここは惚れ直す場面である。


あいにく吉兆は健康ではない。踵の擦り切れたスニーカーと同じで、性格もだいぶ擦り切れている。


「そんな事より、あれだよ。もう遅刻だから早く入らないと」


ヒカリが思い出したように、区民体育館を指差した。


「そーだな」


やる気のない吉兆は、空返事で会場へ歩き出した。


「そういやこの予選地区の参加人数は?」


歩きながら吉兆がヒカリに聞く。


「百二十八人……って張り紙に書いてあったよ」

「ほぉ……なるほどねぇ。ということは……七回勝てばこの地区の予選通過か……」


吉兆がぼそっという。


「計算速いね。やっぱり学部間違えたんじゃない?」


ヒカリはニコニコしている。スイーツが確定した女は機嫌がいい。


「……確か準々決勝までは一回勝負で、準決勝が三本勝負の二勝先取。んで、決勝だけが五回戦三勝先取だよな?」

「そうそう。よくご存知で♪」

(時間的にどれぐらいになるんだろう? ……うーん……だりぃ……)


やる気ゼロの男が、終了時刻から逆算を始めた。


体育館の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。


汗と、床のワックスと、蒸れたゴムの匂い。天井の高いところで扇風機が回っているが、風は下まで降りてこない。百人ぶんの声が壁と天井に当たって戻ってきて、何を言っているのか分からない一つの塊になっていた。


小学校の運動会と、健康診断の待ち時間を混ぜたような場所である。


受付は、その入り口にあった。


半分以上錆びたパイプ椅子と、折り畳みの長机。『簡易的』という言葉がこれ以上似合う光景もない。長机の四隅は剥がれ、合成の板が反り返っている。椅子とは同期入社なのだろう。


そこに鎮座しているのが、机と椅子の大先輩と思われる老人だった。この簡易的空間の主人公である。


白髪だが、毛量は年齢に負けていない。眼鏡はかなり厚い。腕には、事務職が使う年季の入った腕抜き。定年前もこれを着けて机に向かっていたのだろう。恐ろしく板についている。


そして何より目を引くのが、『大会ボランティア』と書かれた黄色のビブスだった。地区の老人会あたりから駆り出されたに違いない。


「まずは……参加費一人百円ね……」


老人はお菓子の缶を差し出した。それから震える手で眼鏡を直し、ゆっくりと聞いた。


「お名前は?」

「真田吉兆であります。二十と一歳になりました」


吉兆は何を勘違いしたのか、この老人にビシッと軍人さながらの敬礼をした。どう見ても戦争は経験していない。


受付員は、その動きにまるで関心を示さなかった。


震える手でA4の参加リストを掴む。左手で眼鏡の位置を直す。


刹那、目つきが大型ネコ科のそれに変わった。


両手の震えが、ビタッと止まる。


瞳孔が紙面を斜めに走り、『真田吉兆』の四文字を探す。一枚目になし。二枚目、三枚目。常人の速度ではない。


五枚目で、それはやってきた。


捕捉するや、耳にかけた赤青鉛筆を指揮者のタクトのように振り、必要なチェックと記入を済ませる。


所要、約四秒。


完璧な仕事を終えた優越感からだろうか。彼はニヒルな笑顔で言い放った。


「なめるなよ、小僧。流石に鉄砲を使った大戦は経験してないがな。こちとらバブル時代に、札束で殴り合う経済戦争なら経験済みだ」


そう言って一〇八番のゼッケンを吉兆に差し出す。


「かっ、かっけぇ」


吉兆はゼッケンを受け取りながら、いまの一連の動作と台詞に酔っていた。


当の事務員は、すでにバブル戦争モードを解除している。いたるところが、またプルプルと震えはじめた。


「なぁ! なぁ! ヒカリ、さっきの見た?」


吉兆はおもちゃ売り場で『気になる新商品』を発見した子供のように目を輝かせ、ヒカリに振り返る。


「う……うん。凄いね(バブルで札束って……なんかリアルだな)」


ヒカリの片足が、半歩だけ後ろへ下がった。


「じぃさん! もう一回! さっきの。もう一回みせてよ!」


受付員は吉兆を見なかった。赤青鉛筆を耳に戻し、ヒカリのほうへ顎を上げる。


「して、そちらのお嬢さんのお名前は?」

「おぉ! よっしゃー!」


吉兆は内またで腰を落とし、ガッツポーズを作った。それからヒカリの袖を二回引いた。


「ヒっ、ヒカリ! やってもらえよ! なっ? なっ?」


ヒカリは消えそうな声で「なんなのよ……」とブツブツ言っている。


受付員は、この場の主人公が自分であることを自覚した。


男はいくつになっても厨二を捨てない。捨てないだけで、たいていは出番がない。


この日、この時、この場所で、出番が来た。


「……鈴宮ヒカ……」


受付員は食い気味に「了解(ラジャー)」と言い、ヒカリを指さしてウィンクした。


「うぉぉぉ!」


吉兆は、自分にはなかった追加オプションに狂喜乱舞している。


ヒカリは二人のやり取りを無視して、会場へ入っていった。その背中から、


「なめるなよ、嬢ちゃん。流石に鉄砲を使った大戦は経験してないがな、こちとらバブル時代に、札束で殴り合う経済戦争なら経験済みだ」


と既に使いまわしになった台詞や「もう一回! もう一回!」「他に誰かいないのか!?」などのやり取りが聞こえてきた。


ヒカリが会場内に入るころには前置きとなる説明は全て終わっているようだった。


「ですので、壁に書かれたブロックの場所へそれぞれ行って下さい。それでは予選を開始します」


メガホンを持った男が言うと、参加者はゼッケンの番号のブロックへ散っていった。


「ありゃ……」


ヒカリは自分がゼッケンを貰っていないことに気づいた。それから、体育館の正面にトーナメント表を見つける。右手で廂をつくり、両目を細めて、自分と吉兆の名前を探した。


その時、後ろから、聞き覚えのある声がした。


「ヒカリさん、ゼッケンを忘れてますぜ」


吉兆だ。ヒカリはトーナメント表から目を離さず、左手だけを後ろへ伸ばした。


「あぁ、ありがとう。えぇと吉兆は一〇八番と……私は七番みたいね」


ヒカリはトーナメント表に向き合い続ける。


「当然のごとく決勝までは合わない番号ね。よかった」


ヒカリがポンと手を叩く。


吉兆はトーナメント表を振り返り、それからヒカリの顔へ視線を戻した。


「ヒカリさん……あれ見えるの?」

「えっ、何が?」


ヒカリが吉兆の顔とトーナメント表を交互に見比べる。


「いや……トーナメント表、ここから二十、三十メートル以上離れた場所にない? 文字も小さいし」


実際、そこから体育館の正面までは三十メートルはある。吉兆も同じように目を細めてみたが、焦点は合わなかった。右手で目を擦る。


「あっ……」


ヒカリは口に手を当てる。


「まさか、ここからは見えないよ。さっき近くで見てきたんだよ」


糸目でも分かる。瞼の奥で、目がバシャバシャと泳いでいる。溺れていると言ってもいい。


吉兆は目を細めたまま、ヒカリを覗き込んだ。


「そんな時間あった?」


明らかに怪しんでいる。


「あぁ! 私、七番だし、そろそろ行かないと」


ヒカリは逃げるように、その場を後にした。吉兆は目を細めたまま、その後ろ姿を見送る。


(この前といい、なんか怪しいな……まぁいいか……)

(とりあえず適当に負けて、さっさと帰ろうっと。負けて帰ったのであればヒカリも文句は言うまい)


怪しい。だが、掘り下げるほどの気持ちはない。


そして吉兆のジャンケン大会が始まった。


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