六十年前のプリン
第4話 六十年前のプリン
全国民ジャンケン大会
~開幕戦~
東北地方予選会場
記念すべき全国民ジャンケン大会開幕戦が行われる予選会場として『その箱』は、だいぶ寂れていた。それもそのはず、会場となった体育館のある小学校は何年も前に廃校になっている。潮風と時間の攻撃を受け、あちらこちらに錆が出ている。
海はここから見えない。それなのに、風はきちんと塩の味を運んでくる。
錆びた鉄と、日に乾いた木と、ほんの少しのカビ。
その配合を、田中総理は六十年ぶりに嗅いだ。
彼は会場の入り口にいた。鉄製の柱を手で数十センチほど撫でる。撫でた先には『聡一』と書かれた傷があった。
「懐かしいな」
総理の人差し指が、二文字の彫り跡をゆっくり往復した。
指先に、六十年分の錆が付いた。
六十数年前、この体育館は、まだ現役の小学校だった。
昼のこの建物には、脱脂粉乳と、日に灼けた木の机と、床のワックスの匂いが充満していた。窓を開ければ、いまと同じ潮風が入ってきた。
聡一が小学三年になったころ、クラスの一人が病欠したため、給食のプリンが一つ余ることになった。食べ盛りのクラスメイト数名は余ったプリンのおかわりが欲しく、軽く小競り合いになったのだ。そこへ、担任の佐藤先生が机の間を縫って歩いてきた。
「欲しい人みんなでジャンケン大会をしたらどうかしら? 昼休みの時間をつかって大会を開いてもいいわよ」
プリンにいちばん近い位置にいた聡一が、伸ばしかけていた手を下ろした。
「給食の時間までに食べないといけないプリンを、わざわざ昼休みまで延長していいのか?」
佐藤先生は聡一の前でしゃがみ、目の高さを合わせた。
「ジャンケンはみな平等よ。力の強い、弱いも関係ない。勉強の得意、不得意も関係ない」
「クラス替えをしたばかりで、皆はまだ仲良くなれていない。もし、この昼休みの時間をつかって皆が一つの事で盛り上がることが出来たら、学校のルールをちょっとくらいズルしてもいいんじゃないかしら?」
「それに本当はプリンが欲しい子は君達以外にもいるわ。ちょっと遠慮してしまってるクラスメイト。彼らも参加させてくれる?」
聡一はその時、気付いた。
ガキ大将の自分が、権力を逆手にプリンを取ろうとしていたこと。
本当は欲しいのに、手を挙げられない子がいること。
貧乏な自分がプリンを欲しがるのと、金持ちの子が欲しがるのとに、何の差もないこと。
身分も、腕力も、成績も、この教室では何の役にも立たない。全員を同じ一本の線に立たせられるものが、たった一つだけある。
ジャンケンである。
聡一はこの時のことを、六十年たった今でも鮮明に覚えている。
聡一は先生の言う通り、沈黙の希望者を一人ずつ誘って回った。結果、クラスのほとんどが参加することになった。
昼休み、黒板にトーナメント表を書いた。全員一斉のジャンケンでは、一分で終わってしまう。わざと勝ち上がり式にしたのは、そのほうが長く騒げると踏んだからだ。
読みは当たった。悔しがる者、歓声を上げる者、他人の勝負を応援する者が、勝手に湧いて出た。
聡一は一回戦で負けた。
負けたのに、プリンのことを忘れていた。
最後まで残ったのは、沈黙の希望者の一人、田村だった。普段の聡一なら地団駄を踏んだだろう。だが、一度も口をきいたことのない田村の笑顔を見ているうちに、自分も笑っていることに気がついた。
視線を感じて振り向くと、佐藤先生がいた。
声は出ていない。口の形だけが、ありがとう、と動いた。
聡一は息の吸い方が分からなくなった。ひと呼吸ぶん、教室の音が全部消えた。
この二十分ほどで、聡一は人生の大事なことを三つ学んだ。
平等の考え方。リーダーシップのあり方。そして、初恋である。
それからというもの聡一のクラスでは給食の残りが出ると、昼休みをつかってトーナメント方式によるジャンケン大会が開催された。聡一は持ち前の面倒見のよさとリーダーシップを発揮し、クラス内の秩序は保たれていた。
聡一以外のクラスメイトは給食後の『単なるおまけ』として楽しんでいた。しかし聡一はそうではなかった。人間というものは欲の深い生き物である。聡一は、クラスの中だけで完結する規模に、そろそろ飽きはじめていた。
いつしか、この平等でだれもが楽しめるお祭りを大人数で開催したいと考えていた。むしろ大人数といういい加減なくくりではなく、もっと大きく『日本に住む全員でしたい』という具体的な妄想が聡一を支配した。最初は全学年で、村全体で試みようとしたが皆に笑われ実現することはなかった。
モヤモヤを抱えたまま、時が過ぎた。
小学六年のある日、聡一は弟の総二にボソッとこぼした。
「日本全国民でジャンケン大会をしたいけど、誰もやってくれそうにない」
小学二年の総二は、無邪気な顔で即答した。
「総理大臣になればいいんじゃない?」
聡一はハッとした。
小学生にとって、総理大臣は日本でいちばん偉くて、何でも出来る人である。「総理大臣が言ったもん」と言えば、たいていのことが通る年頃だ。その総理大臣が法律を作れば、全国民ジャンケン大会が出来る。
齢十二歳。聡一が総理大臣を目指した日である。
その男が今、六十年前の傷を指でなぞっている。
「総理、次が押しています」
声をかけてきた女性の顔に、感情はなかった。
歳は三十代に見える。ただ、どこかつかみどころがない。長い髪を七三にきっちり分け、後ろで束ねて上げている。完璧な眉、完璧なまつ毛、きつめの化粧、眼鏡。スーツはボディーラインを拾うデザインで、皺が一本もない。
右手には分厚い資料。『出来る女』の証明書のようなそれは、彼女の容姿と相まって、年代物の魔導書に見えた。
「轟君。私が母校に来るのは数十年ぶりだ。いくら私が鋼面と言われても、少しぐらいは感傷に浸ってもいいんじゃないか?」
一瞬、総理の顔が少年のように歪んだ。
轟と呼ばれた女性は、それを見逃さなかった。
目をわずかに丸くする。それから、一秒だけ瞼を閉じた。
傍から見れば瞬きと区別がつかない。彼女にとっては、この一秒で中身が入れ替わる。
目を開けてコンマ数秒。左手で眼鏡を直し、右手で資料を持ち直す。声は、先ほどとまったく同じ高さで出てきた。
「総理、次が押しています」
田中総理は鉄柱から手を離さないまま、首だけを轟へ向けた。
「鋼面の称号は、君のほうが似合うと思うんだがな? どうかね? 私から引き継ぐか?」
轟は再び目を一秒間瞑ると、総理を無視して体育館の入り口へ向かい、カツカツとヒールを鳴らしながら入っていった。田中総理は短くため息をつき、轟の後についていく。
「そうそう。轟君。国会の演説後の拍手、すごく助かったよ。完璧なタイミングだった。君の仕業だろ?」
総理の視線は、天井の梁のあたりを泳いでいる。
轟の歩幅は、一センチも変わらなかった。
「流石の私も、あの場で気持ちを切り替えるのに数秒かかりました。もし私の拍手の前に、野党の野次が飛んでいたら総理も私も、この場にいなかった可能性がありますよ」
「私の外交も国政も無茶も、君ありきだからねぇ。いつも感謝しているよ」
総理は悪びれた様子もなく言う。歳は親と子ほど離れている。それでも二人の会話には、上下ではなく対等な信頼の匂いがあった。
「おかげ様で総理による無茶のタイミングはある程度予測可能となりました。ですが、今回のような無茶は今後一切しないでください」
先を歩いていた轟が言い終えると同時に立ち止まり、総理に向く。
「さて、ご所望された会場に到着しました。今回だけは楽しんできてください。総理」
轟は高級レストランの支配人が上客を席へ案内するように、軽く会釈したまま総理を促した。田中総理は前を向いたまま、いつもの険しい表情で歩き出す。
「今回のセッティングを含め、私の我儘に付き合ってくれて有難う。総理特権のズルも多少使う事もあったが、楽しませてもらうよ」
田中総理はすれ違い様に右手を軽く上げた。
「そのズルは、確か恩師の教えでしたね。それではいってらっしゃいませ」
轟は目線を上げぬまま、田中総理を見送った。
会場に入った田中総理は中央にセッティングされているジャンケン場に進む。見るからに地元民といった感じの人々が総理を拍手で出迎えている。全国民ジャンケン大会は総理の切望もあって、総理の地元、総理自身が開幕戦を行うことになっていた。すでに対戦相手も決まっている。
ジャンケン場に到着した総理は青サイドに陣を取る。総理とは反対の赤サイドでは老婆がすでに陣を取っていた。総理は老婆を見ると、にこやかな笑顔を向けて手を差し出した。老婆はその手を快く受け入れた。
「佐藤先生、おひさしぶりです。本日は私とジャンケンをして頂きたいと思います」
田中総理は佐藤先生に深々とお辞儀をしながら言った。そのお辞儀は非常にゆっくりと角度の深いものだった。相手への敬意が、どの程度のものなのか容易に想像出来る。
「おや、田中君。ずいぶんと立派になったわね」
顔を上げた総理の、曲がってもいないネクタイを、佐藤先生が指先で直した。
若かりし日と同じ笑顔、同じゆっくりとした口調である。
二人の記憶を六十年ぶんまとめて蘇らせるには、それだけで十分な魔法だった。
「全国民、そして佐藤先生とジャンケンをする為、私は表面上立派になりました。そしてここへ戻ってきました」
田中総理の目には若干涙が滲んでいる。
「田中君らしいね。当時と全く変わっていない。ガキ大将がそのまま総理大臣になった感じ」
「うんうん」
佐藤先生の頷きは、二度だった。あの頃と同じ、二度である。
「はい……先生のおかげです」
「ねぇ、田中君。あなたはあの日、私が言ったことを覚えている?」
「ジャンケンはみな平等だ、と」
「そう」
佐藤先生はそこで、少しだけ黙った。
「あれね、半分しか言わなかったの」
「半分、ですか」
「平等っていうのはね、みんなが同じだけ勝てるという意味じゃないのよ」
老人の声は、震える手とは逆に、まったく揺らがなかった。
「みんなが同じだけ、負けられるという意味なの」
田中聡一は、しばらく答えなかった。
答えられなかった、と言うほうが正しい。
「……先生」
「なぁに」
「私は、それを国民に配ろうとしています」
「知ってるわ。テレビで見た。びっくりしたわよ」
「怒っておられますか」
「まさか」
佐藤先生は笑った。目尻の皺が、六十年前の形にきちんと折り畳まれた。
「あなたが総理大臣になったって聞いた時よりは、驚かなかったわ」
会場が、遠慮がちに笑った。
総理は深く一礼した。今度は、先ほどよりも長かった。
「勝ったら、賞金はどうするの」
総理が顔を上げるのを、佐藤先生は待っていた。
田中聡一は、少しだけ答えを探すような間を置いた。
「決めてあります」
「そう」
佐藤先生はそれ以上聞かなかった。
「先生は」
総理はそこで一度言葉を切り、言い直した。
「先生は、勝ったらどうされますか」
「あら」
佐藤先生は、心底おかしそうに笑った。
「私が勝つ前提で、聞いてくれるのね」
答えは返ってこなかった。
体育館は静かだった。天井の高いところで、割れた窓から入った風が幕をゆっくり揺らしている。誰かの咳が一つ、板張りの床にやけに大きく落ちた。
田中総理は、中央にいた審判へ目で合図する。
「それでは、これより全国民ジャンケン大会開幕戦、佐藤環と田中聡一による一回戦を始める。お互い礼!」
その言葉と共に、二人が礼をする。
礼の終わりを見届けて、審判が号令をかけた。
「はじめ!」
「最初はグー……ジャンケン……」
六十年前の声と重なって、二人の声が体育館にこだました。
佐藤先生の右手は、震えていた。
病でも、緊張でもない。ただ八十を超えた手というのは、そういうものらしい。田中聡一はその震えを見て、一瞬だけ、迷った。
迷ったことを、すぐに恥じた。
この人はかつて、給食のプリン一つのために、昼休みを丸ごと差し出してくれた人である。その人を相手に手加減をするというのは、六十年前の自分を裏切ることに等しい。
「ぽん」
田中聡一 グー
佐藤環 グー
「あいこでしょ」
田中聡一 チョキ
佐藤環 チョキ
二回。三回。四回。
体育館がだんだん静かになっていく。地元の人間ばかりが集まった会場である。誰もが佐藤先生を知っていた。教わった者もいれば、自分の子供が教わった者もいる。その全員が、いま、息を詰めている。
五回目のあいこの後、佐藤先生が小さく笑った。
「田中君。あなた、手を抜いていないわね」
「はい」
「よろしい」
それだけだった。
六回目が始まる。
六十年である。
賢者の仮面をかぶり、感情を殺し、国民を騙し、外交で怒鳴られ、国会で罵られ、そのすべてを、この一戦のために積み上げてきた。総理大臣という役職は、彼にとって手段以外の何物でもなかった。手段が長すぎただけである。
審判の声が、体育館の天井に当たって落ちてくる。
――そこで何が起きたのかを、その日、この箱の外へ持ち出した者はいない。
しばらくして、総理はジャンケン場を降りた。降りた先に、轟が立っていた。
彼女は分厚い資料を右手に抱えたまま、無表情で総理を見た。それから、一秒だけ目を瞑った。瞬きと区別のつかない、一秒である。
「総理。次が押しています」
「轟君」
「はい」
「今日のことは、記録から外しておいてくれ」
「記録に残すような出来事は、本日ございませんでした」
轟はそう言って、先に歩き出した。ヒールの音がカツカツと鳴る。総理はその後をついていく。
「君は、いい部下だな」
「存じております」
総理の目のふちが、わずかに赤い。それが勝った者の顔なのか、負けた者の顔なのか、轟は判断しなかった。判断する必要のない種類の顔だったからである。
体育館の入り口で、総理はもう一度だけ立ち止まった。
鉄製の柱に、六十年前の自分が彫った傷が残っている。『聡一』の二文字を、彼は指先でもう一度だけなぞった。
今日、この国のどこかで、あと数万試合が同時に始まっている。
北の港町の廃校から、南の島の公民館まで。
その全部が、平等である。
「行こうか」
田中総理は、そう言って外へ出た。
六十年前の夏の匂いが、そこにはあった。




