勝ってはいけない
第3話 勝ってはいけない
息が、戻らない。
鈴宮ヒカリはアスファルトに座り込んだまま、両手を膝の上に置いていた。膝は笑っている。肺は焼けている。喉の奥に、うっすらと鉄の味がした。誰かが遠くで笑った気がしたが、顔を上げる余裕はなかった。
昔からそうだった。速く動くことはできる。長く動くことができない。彼女の体は、たぶん、一瞬のためだけに作られている。
吉兆の背中は、とっくに見えなくなっていた。
引き返してから、どれくらい経ったのかも分からない。
あの男は今ごろ、さっきの男を捕まえているはずだ。そして聞くだろう。連盟とは何か。技とは何か。鈴宮ヒカリとは何者か。
(お願いだから)
ヒカリは目を閉じた。
(何も教えないで)
祈ったところで、たいして意味がないことは分かっている。仮に今日あの人が何も喋らなかったとしても、明日は別の誰かが喋る。連盟に登録している人間は、あの一人ではないのだから。
それでも祈るしかなかった。追いかける脚が、もう一歩ぶんも残っていない。
連盟をやめてから、誰にも言わなかった。実家の押し入れに雑誌をしまった日から、一度も口にしなかった。サークルの飲み会でも、二年の付き合いの中でも、一度も。嘘をついた覚えもない。ただ、聞かれなかっただけだ。
嘘をつかずに黙っていられる状態のことを、世間では平穏と呼ぶ。ヒカリはそれを二年間、両手で抱えて運んできた。今日、その底が抜けかけている。
膝の震えが少し収まってきた。
顔を上げると、真上に八月の空があった。ずいぶん明るい。
なぜ言えないのか、答えはとっくに出ていた。
『言えば、終わる』
これは経験である。予測ではない。
五歳の砂場でそれを知って、十七歳でもう一度、思い知らされた。世界は同じことを二回言う。二回言われて分からない人間のために、たぶん三回目も用意されている。
ヒカリは自分の右手を見た。細い指。短く切った爪。マニキュアはしていない。
この手が全部やった。
砂場の子供たちを追い出したのも、連盟の大人たちを泣かせたのも、全部この手である。そして今、この手が唯一守っているものが、三百三十三回負け続けている男との、ごく平凡な二年間だった。
守るという言葉が正しいのかどうかは分からない。
(……いつまで)
考えかけて、やめた。
考えるとろくなことにならない。この二年でヒカリが学んだ、数少ない教訓の一つである。裏を返せば、二年前まで彼女は自分の頭の中だけで生きていた。
立ち上がろうとして、もう一度しゃがみ込む。膝が言うことを聞かない。仕方なく、彼女はそのまま座っていた。
昼休みの構内を、知らない学生が何人も通り過ぎていく。誰も彼女を見ない。誰も彼女を知らない。
それはとても、ありがたいことだった。
地面のアスファルトが熱を持っている。手のひらをつくと、じんわりと温かい。砂場の砂も、あのときこんな温度をしていた。
鈴宮ヒカリが『自分は他人とどこか違うらしい』と気付いたのは、五歳の時である。
幼稚園の砂場に、青いスコップが一本しかなかった。欲しい子は三人いた。先生が言った。ジャンケンで決めましょうね、と。
ヒカリは勝った。
次の日、赤いバケツが一つしかなかった。欲しい子は四人いた。先生が言った。ジャンケンで決めましょうね。
ヒカリは勝った。
その次の日も、そのまた次の日も、ヒカリは勝った。
三週間ほど経った頃、砂場からヒカリ以外の子供がいなくなった。
残されたヒカリの手元には、青いスコップと赤いバケツと黄色いジョウロと緑色の熊手が、まるで戦利品のように綺麗に並んでいた。
彼女はそれを全部使った。スコップで穴を掘り、バケツに砂を入れ、ジョウロで水をかけ、熊手でならした。
十五分で、やることがなくなった。
子供というのは残酷なようでいて、実はかなり正確な生き物である。彼らは『勝てない相手とは遊ばない』という結論に、大人よりずっと早く辿り着く。
日本という国の子供社会は、その多くをジャンケンに預けている。給食のおかわり、席替えの順番、掃除当番、鬼ごっこの鬼、体育のチーム分け、遠足のバスの座席。大人たちはそれを『平等な決め方』だと信じて疑わない。実際その通りだ。誰にとっても平等である。
ただ一人を除いて。
小学校に上がったヒカリは、自分なりの結論を出した。
勝ってはいけない。
それは幼い彼女にとって、生きるための技術だった。
ヒカリは、勝つときと同じやり方で、負けることにした。
自分の体が勝手にやっていることを、そのまま逆向きに使う。それだけだった。仕組みを言葉にできたわけではない。ただ、そうすれば必ず負けられると分かった。
彼女はそれを、小学一年生の夏休みに独学で完成させた。
以来、彼女は負け続けた。
給食のプリンを取り逃し、掃除当番を引き受け、鬼ごっこでは必ず鬼になり、遠足のバスでは一番後ろのタイヤの上に座った。乗り物酔いで先生に背中をさすられながら、それでもヒカリは、その席を誰にも譲らなかった。
「ヒカリちゃんって、ジャンケン弱いよね」
そう言われるたび、ヒカリは声を上げて笑った。テストで百点を取ったときより、大きく笑った。その笑い方があまりに大きく、あまりに誰にでも向けられるものだから、いつしか彼女の目は笑ったまま元に戻らなくなった。
糸目の完成である。
分け隔てなく笑う優しい子。周囲はそう評したし、それは半分だけ正しかった。残りの半分はこうだ。彼女は分け隔てられるのが、この世でいちばん怖かった。
小学三年の冬、担任が学級会でこう言ったことがある。
「ジャンケンはね、みんな平等なの。力の強い子も弱い子も、勉強が得意な子も苦手な子も、関係ないでしょう?」
クラスの全員が頷いた。ヒカリも頷いた。頷きながら、机の下で右手をきつく握っていた。
その言葉を、彼女はその後の人生で何百回と聞くことになる。そのたびに、自分だけが平等の外側に立たされていることを確認させられた。
みんなが平等になるための道具で、自分だけが平等になれない。
それは呪いという言葉が、いちばん近かった。
中学に上がると、ヒカリは疲れてきた。
負け続けるという行為には、勝ち続けるのとまったく同じ量の集中力が要る。しかも成果は一切残らない。彼女は毎日、誰にも知られない試合をして、誰にも知られないまま負けていた。
しかし、人生で一度だけ、ミスをしたことがある。
中学二年の体育祭で、リレーのアンカーを誰がやるかを、ジャンケンで決めることになった時だ。クラスの女子が全員参加した。ヒカリは、いつも通り負けようとした。
その日に限って、彼女の右手はほんの少し遅れた。
勝ってしまったのだ。
アンカーを走ったヒカリは二人抜いてゴールし、クラスは優勝した。
胴上げは三回で、三回とも誰かの手が背中から離れかけて、三回とも落ちなかった。担任は眼鏡を外して、しばらくかけ直さなかった。
その夜、ヒカリは布団をかぶった。
うれしい、と口の形だけで一度だけ言ってみた。
朝、枕の片側だけが、冷たくなっていた。
勝ちたい。
そう思ってしまえば、あの砂場に戻るだけだと知っていた。
勝ちたいと思ってはいけない。
鈴宮ヒカリはそう決めて、笑いながら負け続けてきた。
*
この国には、まるで逆の決心を六十年抱えたまま生きてきた男がいる。
自分が勝ちたいのではない。全員を、同じ一本の線に立たせたかった男である。
その男の祭りが、いよいよ始まろうとしていた。




