三つ目の出し方
第17話 三つ目の出し方
一か月後、本戦の一回戦にあたる県大会は、区民体育館とは比べものにならない広さだった。
照明が明るい。人が多い。空調が効いていて、汗の匂いがしない。
テレビカメラが三台入っている。
ヒカリは応援席の二列目に座っていた。ゼッケンはつけていない。地区予選で負けた人間に、この会場での役目はない。
役目がないというのは、悪くなかった。
こんなに気楽な気持ちでジャンケンの会場にいるのは、生まれて初めてかもしれない。
マットの上で、吉兆が肩を回している。
初戦の相手は、中学生くらいの女の子だった。ポニーテール。学校指定らしいジャージ。膝に絆創膏が貼ってある。
審判が両者を呼び、吉兆が一歩前に出た。
そして、開始前に仕掛けた。
「君。私はこれから大事な取引があるんだ」
「……は?」
「私はグーを出すから、わざと勝ってくれないか」
ヒカリは前のめりになった。
あれはサラリーマンの台詞である。
「Well……俺はRockを出すぜ。Baby」
女の子が半歩下がった。
あれはリーゼントの台詞である。
「日本人の初手はグーが三十五・二パーセント。パーが三十三・一パーセント。つまり第二層を読むならば」
女の子が審判を見た。助けを求める目だった。
あれが誰の台詞なのかは、ヒカリにも分からなかった。
「両者、構えて。はじめ!」
「最初はグー、ジャンケン、ぽん」
女の子 グー
吉兆 チョキ
三秒だった。
ヒカリは口を押さえた。
今度も、驚いたからではない。
女の子は勝ったことに一秒ほど戸惑ってから、ぺこりと頭を下げて走っていった。膝の絆創膏が跳ねていた。
残された吉兆は、マットの上で動かなかった。
自分の右手を見ている。チョキのまま、しばらく見ている。
それから、崩れ落ちた。
「もう一回!」
審判が首を横に振る。
「もう一回だけ! 今の、今のは違うんだって! あの子、俺の話まったく聞いてなかったから!」
「一回戦は一本勝負です」
「聞いてなかったんですよ! 三つも仕掛けたのに!」
「規定ですので」
「三つも仕掛けたんですよ!」
係員が二人がかりでマットから引き剥がしていった。会場のどこかで笑い声が起きて、それがだんだん広がっていく。テレビカメラが一台、こちらを向いた。
みっともない。
みっともないのに、ヒカリの目は動かなかった。
――ジャンケンはね、みんな平等なの。
小学三年の冬に担任が言った言葉を、彼女は呪いとして持ち歩いてきた。自分だけが平等の外側にいたからだ。
いま、目の前で、男が一人、平等に負けている。
悔しがっている。
惨めではない。
負けたくらいで、あんなに大きな声を出していいのか。
ヒカリは十二年かけて、負けるという行為を誰にも気づかれずに済ませる技術を磨いた。音を立てず、表情も変えず、笑ったまま負けた。
あんなふうに負けていい人間が、この世にいるらしい。
考えてみれば、彼女は負けた人間の顔をまともに見たことがなかった。見られなかったのだ。自分が負かした相手の顔を正面から見るのが、ずっと怖かった。砂場でも、教室でも、あのボウリング場でも、彼女はいつも視線を落としていた。
初めて、正面から見ている。
目の奥が熱くなった。理由は自分でもよく分からなかった。
(……もう一回、やりたいな)
その考えが浮かんだとき、ヒカリはしばらく、それがどちらの意味なのか判断できなかった。
勝ちたいのか。
負けたいのか。
たぶん、どちらでもない。
わざと負けるでもなく、絶対に勝つでもない、三つ目の出し方が、この世にはあるらしい。五年前のボウリング場にはなかった。連盟の記録にも載っていない。担任の先生も、月刊ジャンケンマガジンも、それには名前をつけていない。
名前がないものは、探すのが難しい。
それでも、たぶん、ある。
係員に引きずられていった吉兆が、通路の向こうからのそのそと戻ってきた。首の後ろを掻いている。目が合うと、露骨に逸らされた。
「見てた?」
「見てないよ」
「嘘つけ」
「本当だってば。遠かったし」
吉兆の動きが、止まった。
「……お前が言うか、それ」
吉兆はそれ以上何も言わずに歩き出した。耳が赤い。
ヒカリは笑った。
糸目が、いつもより少しだけ、細くなった。
一か月ほどが過ぎた。街並みは随分と秋の色合いになってきた。
いつもの通り、吉兆とヒカリは大学の帰り道を二人で歩いていた。ジャンケン大会はと言うと、あの県大会の一戦以来、吉兆はその話題に一切触れなくなった。結局のところ、優勝したのは東北の港町の誰か、という事だった。齢八十を超えているとかいないとか、噂は色々あったが、本人が一度も表に出てこないので確かめようがない。その百三十億も、港町を含む地域の復興に全額寄付されたそうだ。
あれから、吉兆とヒカリはジャンケンをしていない。正確には、吉兆がしないようにしている。自分が勝ったままでいたいのだろう。相変わらず子供っぽい、とヒカリは思う。
帰り道にある雑貨屋の店頭を覗きながら、ヒカリは意地悪く聞いた。
「あの時、私が勝ったら、今頃挙式の準備で忙しかったと思うんだけどなぁ」
吉兆は「またか」とため息をつきながら話題を変えようと試みた。
「そんなことより聞きたいことがあるんだけど」
ヒカリは「そんなこと」や「プロポーズしたじゃん」とブツブツ言っていたが諦め「聞きたいことって?」と聞き返した。
「決勝の時に言ってたじゃん? 『私にジャンケンで勝とうなんて二十五年早い』って。何で二十五年なん?」
それを聞いてヒカリは「あぁ」と手のひらを合わせ、次にグー、チョキ、パーを出した。
「つまりグー(〇)、チョキ(二)、パー(五)で二十五年」
それを聞いた吉兆は無視するように黙っていた。バツが悪くなったヒカリはグー、チョキ、パー、グー、チョキ、パーと何かを誤魔化すような呪文を小声で呟いていた。
「それに二十五年もたてば老眼とか始まるころでしょ? 流石に視力の衰えがあれば、吉兆もチャンスかなって……ほら、イチローだって最後は目の衰えって言われてたじゃん?」
吉兆の声は、ほとんど息だけだった。
「つか、イチロー以上だろ……君」
ヒカリがすぐに聞き返す。
「ん? 何か言った?」
「なんも……」
駅前の大型ビジョンが、夕方のニュースを流していた。
『続いて世論調査です。田中内閣の支持率は今月も九八パーセント。就任以来の最高水準を保っています』
画面の中で、総理が記者に何か聞かれて笑っていた。あの夏から、この男の写真はよく笑うようになった。
「そんなことより、ほら、先に待ってんぞ」
吉兆が指した先にはリーゼントとサプライザーが駅前のカフェで寛いでいた。
「あぁほんとだ。二人が飲んでるのって新作のキャラメルマキアートメガミックスじゃない?」
五十メートルは離れている。ヒカリの指は、まっすぐそちらを指していた。
「相変わらず。よく見えること……」
吉兆のボヤキは、ヒカリに届いていないようだった。
終わり




