公開処刑
第16話 公開処刑
吉兆が舞台に立った。
最後の一本だった。
「それでは最後の勝負。これに勝ったほうが地区優勝だ」
審判が声を掛けた。
ヒカリはまだニヤニヤしていた。していたが、ふと吉兆の顔を見て、手が止まった。
菩薩像に似た顔だった。慈愛と、無。
目はヒカリに向いていた。ただ、ヒカリを見ていなかった。もっと先を見ている目だった。
数秒、フリーズした。
「はじめ!」
審判の声で我に返る。ヒカリは首を左右に振り、慌てて構えを取った。
「じゃーん」
その間も、吉兆は記憶を掘り続けていた。
場面が、いくつも同時に回りはじめる。
街頭ビジョンに、総理が映った日。
大学の掲示板の前で、でら変態に声をかけられた日。
今朝この体育館で、三十メートル先のトーナメント表が見えるのかと聞いたとき。
場所も状況も違う。それが一斉に止まり、同じ一瞬を映した。
驚いたときの、ヒカリだった。
菩薩のようだった吉兆の目に、光が戻った。口の端が、わずかに上がる。
(二年ぶん、全部覚えてんだよ)
「けーん」
審判が力強くコールする。その時だった。
「ヒカリぃぃぃぃ!!!」
その空間にいた全ての者が振り向く程の声が響き渡った。会場の反響が、二度返ってきた。
ヒカリは振り向かなかった。
目は吉兆の右手から、一ミリも動いていない。叫べば揺れると思ったのなら、見当違いである。この女は、そんなもので視線を外さない。
次の瞬間、体育館の空気を、吉兆の声が縦に裂いた。
「俺とぉぉぉぉ、結婚してくれぇぇぇぇぇ!」
その場の全員が、吉兆に釘付けになった。
ヒカリも例外ではない。
二秒ほど遅れて、呆気にとられた審判から力のない「ぽん」が落ちてきた。
そこで、ようやく皆が舞台を見た。
公開処刑(公開プロポーズ)の混乱の中で、はっきり分かったことが二つある。
吉兆がチョキを出していたこと。
そしてヒカリが、驚いた顔で右手を口に当てていたこと。
それは、いつもの彼女の癖だった。
よく見ると、その指は全部開いている。
パーだった。
ヒカリは視線だけを下げ、自分の右手を確認する。
それから両手を背中に回し、恥ずかしそうに告げた。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
その直後、審判から「勝者! 真田吉兆!」の声が上がった。
リーゼントを含め、何人もが声を上げている。その中を、ヒカリが近づいてきた。いつもの糸目の顔に戻っていた。
「負けちゃったけど……嬉しかったよ」
吉兆は「ふっ」とキザに笑い、ヒカリに背中を向けた。
「どうしたの? 照れてるの?」
「何でもないよ」
背中を向けたまま、吉兆は体育館の天井を見ていた。
顔が熱い。
ここで記憶力が、頼んでもいない仕事をした。
ウェディングの専門店の前。ガラスに額をつけるヒカリ。勝手に半歩下がった、自分の右足。
「子供は二人かな」「誰の話だ」「私たち」「してない」。
海辺の式場と森の中の式場の比較検討に、まる一日を差し出した日。
大会に引っ張り出すために、軽い声で式の話を餌にした自分。
二年間、結婚という言葉が出るたびに、この足は半歩ずつ下がってきた。
さっき舞台へ出した右足は、その二年ぶんの半歩を、一歩で取り返すような出し方だった。
(使ったんじゃねぇ。言ったんだよ)
(……ついでに、勝っただけだ)
言い訳のように付け足してから、吉兆は両手で顔を覆った。
(……やっちまったぁ)
それでも、取り消す気は一ミリもなかった。
*
負けた。
鈴宮ヒカリがその事実を頭で理解するまでに、たっぷり十秒はかかった。
右手はまだパーの形のまま、口元に当たっている。指が全部開いていた。驚いたときにこうなるのは昔からの癖で、直そうと思ったことは一度もない。直さなければならない場面に、出会ったことがなかったからだ。
三百三十五回。
その全部を、この男は覚えているらしい。覚えているから、こうなった。
あの顔も、たぶんそのせいだ。
二年ぶんの吉兆の顔を、ひととおり知っているつもりだった。あの顔は、その中になかった。
自分が何と言ったのかを、口が動いたあとで理解した。
不束者ですが、と言ったらしい。
どこでそんな言い回しを覚えたのか、自分でも分からない。
両手を背中に回している。顔が熱い。耳のうしろで、自分の脈が鳴っているのが聞こえる。周りで誰かが歓声を上げていて、審判が何かを叫んでいて、白いスーツの男が拳を突き上げていて、そのどれもが遠かった。
五年前、彼女は記者に向かって、みんな、対策してください、と言った。
挑発だと受け取られた。
求人だったのに。
一年待って、誰も来なかった。
今日、一人だけ来た。
連盟にも入っておらず、能力もなく、必勝法も持たず、三年かけた技もなく、ただ記憶力だけが無駄にいい、面倒くさがりの二十一歳が。
「八百長で手に入れた『大変お幸せな未来』なんて、クソ興味ねぇんだよ」
あの瞬間、ヒカリは本気で腹を立てた。
腹を立てたことに、あとから驚いた。
五年間、何を言われても腹は立たなかったのだ。棄権されても、廊下で目を逸らされても、雑誌に『化け物』と書かれても、胸の内側にはただ静かに虚無が広がるだけだった。怒るというのは、相手を対等だと思っていなければ起きない反応である。
それから、もう一つ遅れて気づいたことがある。
おとなしく負けてくれないか。
あの言葉は、口から出たときには何の形もしていなかった。頭の中には百三十億と、海辺の式場と、まだ名前のない二人の子供しかなかった。
今になって、形が見える。
四年前の控え室で、床につきそうなほど頭を下げた男がいた。頼む、わざと負けてくれ、と。
家族のためだったのかもしれない。この四年、何度もそう考えてきた。考えるだけで、分かったことは一度もなかった。
今日、分かった。
自分も同じことを言ったのだ。まだどこにもいない家族のために。
あの日の彼女は、黙って畳に上がり、その男を四十七回のあいこで嬲った。
今日の吉兆は、うるせぇと叫んだ。
同じことを言われて、あの日の自分より、ずっとまっすぐに怒った。
勝ちたかったのか、負けたかったのか、彼女には最後まで分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
終わってほしくなかった。
二十九回のあいこの間、ヒカリはずっとそう思っていた。この男が左手を諦めても、俯いても、戦場を見なくなっても、まだ降りていないというだけで、彼女は嬉しかったのだ。そんな理由で人をいたぶるのは最低だと分かっていて、それでも我慢ができなかった。
顔を上げると、吉兆が背中を向けていた。
肩の位置と、耳の赤さでだいたい分かる。あれは照れているのではない。『やっちまったぁ』の顔をしている。
百三十億あれば式も豪華になる、と言ったその口で、百三十億を蹴り、その場で式を申し込んだ男の背中である。
ヒカリは口元を押さえた。
今度は驚いたからではなかった。




