おとなしく負けてくれないか
第15話 おとなしく負けてくれないか
二十七回目の引き分けで、ヒカリの口の端が上がりきった。
「無邪気な吉兆を騙して、高い所から突き落とす感覚。たまらないな」
そして三十回目の勝負で急に決着がついた。
吉兆 パー
ヒカリ チョキ
ヒカリはウィンクと共に「悪いな、吉兆。我慢できなかった」と言った。ようやく負け戦から解放された吉兆は右手のパーをダランと垂らし立ち尽くしていた。
「確か……私の目は単眼だから、周りがボヤけるみたいな事、言ってなかったっけ?」
ヒカリは少し前を思い出すようにキョトンとしたが、すぐに意地悪な微笑みへ戻った。
右手でチョキを作り、人差し指と中指の隙間を覗き込む。そして「カシャカシャ」と言いながら、指を閉じたり開いたりした。
「残念だったな。私の目は超広角だ」
吉兆は俯いたまま唇を噛みしめている。
「だから言ったんだ。あのクィーンは生粋のドSだ。連盟トーナメントの決勝でも、相手をいたぶるだけいたぶってから優勝している」
リーゼントの声は、誰に向けたものでもなかった。
「丁寧な解説だ。感謝する」
ヒカリはニッコリと微笑み、一瞬で冷徹な顔に戻った。
「この際だ、教えてやる」
右手の人差し指が、一本立つ。
「さっき吉兆が使った、右手から左手にすり替えるやつ。あれ『ツバメ返し』って名前がついてる」
吉兆の指が、止まった。
「五年前に、そこの男が持ってきた」
もう一本、指が立つ。
「その四か月後には、右から左、そしてまた右に戻すやつ。『ちゃぶ台返し』。それも、そこの男」
「両方とも、いとも簡単に攻略された……」
「お前には聞いていない。ネゴシエーター」
蛇に睨まれた蛙のように、リーゼントは口を閉じた。拳のほうが、白くなっている。
「そうだ……俺は『二つの技』で彼女にPerfect Loseしている」
「連盟の人間は、みんな自分なりの必勝法を持ってくる」
ヒカリは腕を組み、顎を上げた。
「そこの二人も、よく覚えている」
吉兆は二人を交互に見た。
試合中はどちらも、どこか楽しそうな顔をしていた。
いまは二人とも、吉兆と目を合わせようとしない。
この女に、何度か同じ顔をさせられた人間の顔だった。
それで、全部わかってしまった。
「わかっただろ、吉兆」
言いたいことは分かっている。
「……なにが?」
吉兆の声は、自分の足元にしか届かない大きさだった。
ヒカリの目が一瞬だけ丸くなり、すぐに戻る。
「私にジャンケンで勝とうなんて二十五年早いってことよ」
言い切ったヒカリの舌先が、上唇を一度だけ舐めた。
この場で吉兆に賭ける人間は、一人もいない。
「吉兆。おとなしく負けてくれないか」
声のトーンが、急に落ち着いた。
その落差で、吉兆の顔が上がる。俯いていたのは十数秒だったはずだが、首の後ろが凝っていた。
「……今、なんて」
聞き間違いであってほしかった。だから、もう一度言わせた。
「だから、余計なことは考えずに負けろと言ったんだ」
自分が何を口にしたのか、このときのヒカリは気づいていない。
気づくより先に、別のものが来ていた。
「だって、吉兆が言ったんだよ?」
ヒカリは胸の前で両手を組んだ。糸目の奥で、何かが灯っている。
「百三十億あれば、式も豪華になるって」
吉兆の頭の中で、記憶が勝手に再生された。
意地の悪い笑顔の自分。軽い声。『ほら、百三十億あれば式も豪華になるじゃん』。
一字一句、声の高さまでそのままだった。この記憶力は、こういうときにも手を抜かない。
(……言ったわ、俺)
言った。大会に引っ張り出すための、ただの餌だった。
その餌を、この女が今日までどう育ててきたのかを、吉兆はいま目の前で見ている。
「私ね、ちゃんと考えたの。百三十億あったら、どんな未来が見えるか」
ヒカリの声が、一段ずつ高くなっていく。
「まずは式。海辺の式場と森の中の式場、両方押さえてもお釣りが来るでしょ? 披露宴はプロ野球選手とアナウンサーくらいの規模で、お色直しは四回。そのあとクルーズ船で世界一周して――」
両手が広がった。
ウェディングトリップである。発症中の彼女に、百三十億という燃料が注がれていた。
「仕事はお互い無理をしない程度で、そのぶん家族との時間を大切にするの。子供は二人以上で、私立の幼稚園に通わせて……」
ヒカリはその場でくるりと回った。長い髪が、遅れてついてくる。
妄想の続きは、途中から吉兆の耳に届いていなかった。
代わりに鳴っていたのは、別の日の声だった。
『お金とか……名誉とか、そんなのいらないし……普通が一番だよ』
掲示板の前で、この女は確かにそう言った。これも一字一句覚えている。
その女を、百三十億の式場まで連れていったのは、自分の一言である。
そこまでは認める。
認めたうえで、腹の底で何かが沸いていた。
式の話をしたのは、勝って取ったらの話だ。
負けろとは、言っていない。
三百三十五回かけて、やっと一つだけ手に入れかけたものを、いま捨てろと言われている。
(男のプライド、なめんじゃねぇよ……)
拳が、小刻みに震えていた。
「……」
吉兆は、誰にも聞き取れない声で何かを呟いた。
「ん? どうしたの?」
回りきったヒカリが、首を傾げる。
吉兆が顔を上げた。
「うるせぇって言ってんだよ!」
吉兆の眉間から、皺が消えていた。
ヒカリは、その場から一歩も動かない。
「確かに言ったよ、式が豪華になるって! でもそれは、お前が勝って取ったらの話だろうが!」
「百三十億も私立幼稚園も関係ねぇんだよ! 男はな、たとえ未来が九九パーセント決まってても、逃げちゃいけねぇ時があるんだよ!」
「八百長で手に入れた『大変お幸せな未来』なんて、クソ興味ねぇんだよ! 皮算用の夢物語なんか語ってないで勝負しろやい! この、すっとこどっこい!」
怒りのせいか、中途半端な江戸っ子になっていた。
場の時間が、一瞬止まる。
天井の扇風機だけが、さっきと同じ速度で回っていた。
最初に動いたのはリーゼントだった。「あいつ……」と呟いて、嬉しそうに口の端を上げる。
田中総理が、つられるように言った。
「なんだかドラマチックだねぇ」
轟は、この状況でもどこかに電話をかけている。
ヒカリの顔から、花が一輪ずつ落ちていった。
海辺の式場も、クルーズ船も、私立の幼稚園も、順番に枯れていく。最後に残ったのは、鬼の顔だった。
「私の……幸せ未来予想図を……よくも……」
糸目が、音を立てそうな勢いで開いた。
「この恨み、晴らさでおくべきか……きっちょうぉぉ!」
この状況なら、普通の人間はヒカリの圧に呑まれる。
吉兆は、意外にも冷静だった。最愛のラスボスを倒す算段を、もう始めている。
(とは言え……どうする? 煽ったところで、あの目にボロは出ない)
吉兆は目を閉じた。
「どうした? さっきの威勢はどこに行った? 目を閉じて考え事か?」
ヒカリの声が、笑っている。
(……目を閉じる?)
その一言が、脳裏に引っ掛かった。
(そうか。ヒカリの能力は、見ることが前提だ。目を閉じてくれれば……って、閉じるわけないよな)
吉兆は周りの雑音を遮断するため、自分の呼吸の音だけを聞いた。
すると心の暗闇から、何かが近づいてきた。
サプライザーだった。
(いや……お前じゃないし)
一度出てきた雑念は、なかなか消えない。消えろと念じるほど、輪郭がはっきりしてくる。
(消えろっての!)
心の中の吉兆がブチ切れたのと同時に、心の中のサプライザーが「あっ!」と叫んだ。
その一声で、ヒカリとの二年が一気に流れ出す。
止めた。
巻き戻した。
もう一度、同じ場所で止めた。
吉兆の目が開いた。目の前のサプライザーは、何も言っていない。
(そうか……目を閉じさせる必要はない。世界中で、俺にしか出来ないことをやればいい)
吉兆は唾を飲み込もうとして、飲み込むものがないことに気づいた。
ヒカリの口が、先に開く。
「何だ? そこのサプライザーのように、私を驚かして奇襲をかける気か?」
「さぁな」
吉兆は不敵に笑ってみせた。見つけたばかりの獣道を、相手に見せるわけにはいかない。
「残念ながら、どんな言葉や行動をとっても、私の手を狂わせることは出来ない。それは、そこの本人が一番よく知っている」
ヒカリは目の動きだけでサプライザーを睨んだ。サプライザーの目が、いつもの速度で泳ぎはじめる。
(勝手に油断してろよ。俺にしか出来ない『目潰し』を見せてやる)
ただし、と吉兆は考えを続けた。
目潰しで封じられるのは、あの目だけだ。封じたところで、残るのは普通のジャンケンである。能力のない自分に、必勝はない。
しかも一度きりの奇襲だ。あいこになれば、二度目は通用しない。その時点で負けが決まる。
勝ち、負け、あいこ。自分が勝てるのは、三つに一つ。
(……薄い)
顔は変えていない。ただ、腿に当てた手のひらが、ズボンの生地を掴んでは離していた。
それに、もう一つ。
(……本当に、やるのか)
腿の上の手が、止まった。
ついさっき自分が叫んだ言葉が、耳の奥で鳴っている。
『男はな、たとえ未来が九九パーセント決まってても、逃げちゃいけねぇ時があるんだよ!』
(……ブーメランかよ)
吉兆の足は、まだ動かなかった。
「いつまでそこで日和ってんの? さっさと終わらせて、ブライダルフェアに行くわよ」
ヒカリが人差し指をクイクイと曲げる。
吉兆は唇を噛んだ。最初の一歩が、どうしても出ない。
「ウチの旦那さんは、またインチキな時間稼ぎをするつもりかしら?」
ヒカリの眉が八の字になり、肩がすくむ。その視線が、審判へ流れた。
審判が咳払いを一つした。
「真田選手。そろそろ尺的にも……ここの会場もケツが決まっている……出来れば巻きで」
差し出された手が、舞台を指している。
吉兆は、息を一つ吐いた。
右足を、前に出した。
(……やるんだよ)
二歩目で、そう決めた。
残る問題は、三つに一つの勝算だけだった。
(……勝ちを確定させたい。無い知恵より、確かな記憶力を回せ)
ヒカリとの出会いから今日までが、超高速で脳内を流れていく。
引っ掛かる場面があれば、停止、巻き戻し、再生。要らなければ先へ送る。
脳がほどよく熱を持ち、周りの声が遠のいた。
スポーツ選手なら、ゾーンと呼ぶ状態である。
すべてがスローに動き、8Kテレビのように鮮明に見えた。声も引き延ばされ、耳では追えないのに、意味だけがきちんと届く。
記憶を掘る作業だけが、そこから外れて猛烈に速い。
吉兆のスニーカーは、踵が擦り切れている。
それなのに、一歩ごとに革靴のような音が響いた。
カツン。
カツン。
それが自分の心臓の音だったと気づくのは、数日経ってからである。




