絶対反撃
第14話 絶対反撃
表彰式の後、ヒカリは記者に囲まれた。
『月刊ジャンケンマガジン』の記者が、マイクを両手で握って身を乗り出した。
「鈴宮選手! あの技はいったい何なんですか!?」
普通、ジャンケンファイターは自分の必勝法を語らない。手の内を明かすことは、そのまま敗北を意味するからだ。
だからその場にいた全員が、彼女が笑ってはぐらかすものと思っていた。
ヒカリは、全部話した。
自分の目が異常に見えること。相手が手を出し切る直前まで肉眼で追えること。見てから、それに勝てる手を出しているだけであること。だからこれは後出しではなく、ただの反射であること。
会場が静まり返った。
記者が震える声で聞いた。
「そ、それを……公表して、いいんですか」
「はい」
ヒカリの目が、糸に戻った。
「みんな、対策してください」
その言葉を、その場にいた誰もが『挑発』だと受け取った。翌月号の見出しは『女王、全ジャンケンファイターに宣戦布告』である。
違った。
本当は、たった一つの願いだった。
手の内さえ晒せば、誰かが考えてくれる。誰か一人でいいから、自分を破ってくれる。
そうすれば、自分もようやく、負けることを許される。
彼女は勝ちたくて公表したのではない。
負けたくて、公表したのだった。
一〇〇〇人トーナメントの翌月、『月刊ジャンケンマガジン』は鈴宮ヒカリの特集に十六ページを割いた。
その中で、彼女には二つ名が与えられた。
Eagle Eye(鷹の目)。
ヒカリはその号を三冊買った。一冊は保存用、一冊は読む用、一冊は理由もなく机の引き出しにしまった。生まれて初めて、自分が世界からもらった名前だった。夜、布団の中で何度も声に出して読んだ。二十回を超えたあたりで、数えるのをやめた。
その名前は、三か月しか保たなかった。
連盟の解析班が試合映像を数百本かけて調べた結果、彼女の異常は視力ではないと結論が出たのである。もちろん目も常人離れしていた。だがそれ以上に異常だったのは、見てから体が動くまでの時間だった。刺激を知覚して筋肉が反応するまで、人間は平均して〇・二秒を要する。ヒカリはその数分の一で指の形を作り終えていた。
小学一年生の夏休みに独学で完成させたものに、大人たちがようやく名前をつけた。
新しい二つ名が発表された。
Lightning Counter(絶対反撃)。
発表の記事を読んだ夜、ヒカリは机の引き出しから三冊目の雑誌を取り出して、しばらく眺めていた。
絶対。
いい言葉だ、と誰かが言っていた。強そうだ、とも。
彼女にとってその二文字は、こう読めた。
絶対に負けない。
つまり、絶対に普通にはなれない。
それからの一年を、連盟の記録はこう書いている。
出場十一大会、全戦全勝、無敗。
記録だけを見れば黄金期である。実際には、そんなものではなかった。
最初の三か月は、まだ良かった。挑戦者が来たからだ。
公表された能力に対して、彼らは真剣に対策を練ってきた。手を隠して出す者、掛け声を変える者、暗闇で戦うことを提案した者。中には目隠しをして戦った猛者もいた。もっともその男は、目隠しをしたのが自分だったので普通に自滅している。
四か月目、ネゴシエーターが二度目の挑戦に現れた。今度は『ちゃぶ台返し』である。右手から左手へ、そしてもう一度右手へ戻すという三段構えで、名前の由来は昭和のスポ根アニメらしい。ヒカリは一本目で見切った。
「Whyだ……! 四か月で作り直したんだぞ……!」
「戻す時、右手のほうが少しだけ速いんです。焦ってるのが分かります」
彼はまた十分ほど動かなかった。それでも次の大会にも、その次の大会にも、彼は懲りずに顔を出した。
それでも彼が来てくれる間は、ヒカリは幸せだったのだ。
半年を過ぎた頃から、様子が変わった。
彼女と当たるブロックの棄権が増えた。
八か月目には、彼女が出場を表明した大会のエントリー数が、前年比で四割減った。
十か月目、地方大会の一回戦で、彼女の対戦相手が現れなかった。控え室から出てこなかったのだ。不戦勝の宣言を聞きながら、ヒカリは畳の上で一人、深々と一礼した。誰に対する礼なのか、自分でも分からなかった。
会場で目が合うと、みんな逸らすようになった。
廊下ですれ違うと、会話が止まるようになった。
控え室のドアを開けるたび、それまであった音が、一段階だけ小さくなる。
『化け物』
そう書かれた記事が出たのは、その頃だ。書いた記者に悪意はなかったと思う。事実、そう書くのがいちばん正確だった。
分け隔てなく笑うための糸目は、いつのまにか、誰も近寄れない壁として機能していた。
砂場に戻っただけだった。
青いスコップも赤いバケツも黄色いジョウロも全部持っている。周りには誰もいない。十二年かけて、彼女は元の場所に帰ってきていた。
決定的だったのは、その年の最後の大会である。
決勝の直前、控え室で、対戦相手の男が彼女に近づいてきた。三十代半ばの、疲れた顔をした人だった。
男は、床につきそうなほど深く頭を下げた。
「頼む。わざと負けてくれ」
ヒカリの視界が、白くなった。
男には男の事情があったのだろう。優勝賞品が家族に必要だったのかもしれないし、後がなかったのかもしれない。この四年、ヒカリは何度もその可能性を考えた。
だがその瞬間の彼女には、そんな想像力は残っていなかった。
自分が十二年間、誰にも知られずにやり続けてきたこと。自分の手を殺し続けてきたこと。それをやらなくていい場所を探して、ここまで来たこと。
その全部を、この男は今、たった一言で要求したのだ。
ヒカリは何も言わずに畳へ上がった。
そして、その男を四十七回のあいこで嬲った。
勝った。
表彰台に上がって、優勝トロフィーを受け取って、それから彼女は初めて客席を見た。
がらんとしていた。
最前列に、いつも来てくれる連盟のスタッフが二人。あとは記者が三人と、白いスーツの男が一人、いちばん後ろの壁にもたれて腕を組んでいた。
それだけだった。
ジャンケンというのは、誰が勝つか分からないから面白い。そこにいる全員が同じ確率で勝てるから、みんなで盛り上がれる。給食のプリンも、結婚式二次会の景品も、そういう仕組みで出来ている。
彼女がいると、分かってしまう。
分かってしまうものを、人は見に来ない。
(ああ)
トロフィーは、思ったよりずっと軽かった。
(私、お祭りを殺してるんだ)
勝者の栄誉というものが、そこにはなかった。悔しさもなかった。怒りも、悲しみも、何もなかった。
あったのは、その軽さだけだった。
翌週、連盟に一枚の紙が届いた。
『引退します 鈴宮ヒカリ』
それきりだった。
高校を出て、ヒカリは関東の私立大学に進んだ。
新歓の時期のキャンパスは、ビラの紙とインクの匂いがした。誰も彼女の名前を知らない匂いだった。
連盟のことは誰にも言わなかった。ジャンケンマガジンは実家の押し入れにしまった。サークルの歓迎コンパで、彼女はいつも通りの糸目で、いつも通り誰にでも笑いかけた。
その席に、一人だけ、妙な男がいた。
無精髭を数日放置し、伸びたロングTシャツを着て、踵の擦り切れたスニーカーを履いた、見るからに面倒くさそうな男だった。
彼は彼女が誰なのかを、まったく知らなかった。
女王のことも、絶対反撃のことも、化け物と書かれた記事のことも、何一つ知らなかった。
彼は、何故かヒカリに好意を寄せていた。
そして半年、みっともないほどしつこく食い下がってきた。
最初のジャンケンを、ヒカリは今でも覚えている。学食の日替わりを賭けた、なんでもない一回だった。彼女は勝った。
吉兆は本気で悔しがった。
「もう一回!」
翌日も負けた。
「もう一回!」
その翌日も、その翌週も、その翌月も、彼は負け続けた。それでも、毎回本気で悔しがって、毎回本気で挑んできた。今までと同じようにジャンケンで勝ち続けていれば、そのうち気持ち悪がって自分の前からいなくなるだろうと思っていた。
しかし、彼は違った。
三百回以上、一度も勝てないまま、何も考えずに毎回本気で挑んでくる馬鹿だった。
だからヒカリは、吉兆とのジャンケンが好きだった。
勝つたびに、心の底から嬉しかった。勝っても気を使わない、自然体でいられる相手。
「勝ちは勝ちだもん」
何も知らない彼の前でだけ、彼女は無邪気に飛び跳ねることが出来た。
それは彼女にとって、金でも名誉でもなく、ただ普通の、なんでもない毎日だった。
だから彼女は、あの日こう言ったのだ。
お金とか、名誉とか、そんなのいらないし。
普通が一番だよ、と。




