他心通
第13話 他心通
その日の準決勝の相手は、白いスーツの男だった。
「よぉ、Lady。まさか本当に来るとはな」
「あなたが誘ったんじゃないですか」
「Exactly」
ネゴシエーターは櫛で髪を整えながら、にやりと笑った。当時の彼のリーゼントはまだ天然物である。若く、艶があり、そして今より一割ほど背が高く見えた。
「ここまで来たなら教えてやる。俺の必勝法は二つある」
「言っちゃっていいんですか?」
「ネゴシエーターだからな。一つ目は、これから始まる」
彼は距離を詰め、口元を隠して囁いた。
「俺はグーを出す。君はパーを出せば勝てる」
ヒカリは黙って彼を見た。
「Whyそんな目で見る?」
「いえ……それ、必勝法ですか?」
「精神的優位に立つのがPointなんだ」
「はぁ」
「最初はグー、ジャンケン、ぽん」
ネゴシエーター グー
ヒカリ パー
「勝者、鈴宮!」
「なっ……!?」
「言われた通り出しただけですけど」
「Whyだ! なぜ素直に出す! 裏を読め! 俺の裏を!」
「読んだら負けるじゃないですか」
交渉というものが根本的に成立していない。
だが二本目、白いスーツの男は本気になった。
「見せてやる。俺が三年かけて編み出した技だ」
彼は右手を高々と掲げ、音頭を取った。
「First Rock! Ja Ken Po!」
その掛け声の最後、『ポ』の音が消える寸前に、彼の右手はふっと視界から消えた。
代わりに、左手が出てきた。
右手で構え、直前で左手にすり替える。相手が右手を見ている限り、絶対に読めない。
命名『ツバメ返し』。佐々木小次郎から取ったという。本人は真剣にかっこいいと思っている。
理屈としては、完璧だった。
完璧だったのだが。
ネゴシエーター 左手・チョキ
ヒカリ 右手・グー
「勝者、鈴宮! 二本先取!」
「……は?」
白いスーツの男は、自分の左手を見つめたまま動かなくなった。
「あの、ごめんなさい」
ヒカリは自分の右手を、そっと後ろへ回した。
「右手を引いた時に、左手が先に形を作っちゃってました。だから、そっちを見てました」
「そっちを……見て……」
「三年かけたって、聞いちゃったので。ちゃんと見なきゃと思って」
それは彼女なりの、精一杯の敬意だった。
だがこの世に、三年かけた技を初見で正面から粉砕された上に「ちゃんと見ました」と言われるほど惨い慰めもない。
ネゴシエーターは畳に膝をつき、そのまま十分ほど動かなかった。
去り際、彼は一度だけ振り返ってこう言った。
「……君を連れてきたのは、俺だ」
「はい」
「それを、Regretする日が来ないことを祈るぜ」
祈りは、その日のうちに届かなかったことが判明する。
決勝の相手のことは、朝から何度も聞かされていた。
大道寺武臣。連盟三連覇。五十八歳。どこかの寺の住職で、大会にも作務衣と草履で来る。頭は青々と剃り上げてあるらしい。
二つ名は『他心通』。仏教でいう、他人の心を読む神通力のことだそうだ。
癖を読む人だよ、と教えてくれたのは、受付にいた連盟のスタッフだった。
「人間はね、手を出す前に必ず何かしてるんだ。息を吸うとか、顎を引くとか、肩が半分だけ上がるとか。自分じゃ絶対に気づかない」
だからここは癖の見本市なのだと、その人は笑った。叫ぶ前に大きく息を吸う男。統計を並べたあと必ず一拍置く男。出す手を先に公言して、わざわざ裏をかこうとする男。必勝法を持っているということは、癖を持っているということ。
「三十年、あの人はその中で暮らしてるからね」
念仏のことも、その時に聞いた。畳に上がると目を閉じて低く唱えはじめる。あれは技ではなく、雑念を落として相手の体だけを見るための作法なのだという。
「まあ、やられるほうは坊さんに経をあげられながらジャンケンすることになるんだけど」
ヒカリは曖昧に笑った。
その大道寺が、畳に上がった。
一礼は、しなかった。
目も、閉じなかった。
「小娘の癖など、三手で足りる」
時間が止まった。
「……今、なんて」
「高校生が夜遅くまで残るもんじゃない。適当に済ませてやる」
ミラーボールの光が、ヒカリの糸目の上を流れていった。
その目が、開いた。
審判が、一歩下がった。
彼女が生まれて十七年、一度も他人に向けたことのない感情が、そこにあった。
手を抜く。
それは鈴宮ヒカリが、この世でいちばん憎んでいる行為だった。
なぜなら彼女は、十二年間それをやり続けてきたからだ。誰にも知られず、誰にも褒められず、毎日毎日、自分の手を殺し続けてきた。彼女がこの薄暗いボウリング場まで来たのは、たった一つ、それをしなくていい場所だと聞いたからだ。
そこにいた王者が、彼女に向かって、手を抜くと言った。
「──上等だ」
ヒカリは静かに構えた。
「早く終わらせよう」
審判が、もう半歩下がった。
その口調を、この日、誰も聞いたことがなかった。
「最初はグー、ジャンケン、ぽん」
相手の手が開ききるより先に、ヒカリの指は同じ形になっていた。
大道寺 パー
ヒカリ パー
「あいこでしょ」
大道寺 グー
ヒカリ グー
「あいこでしょ」
大道寺 チョキ
ヒカリ チョキ
三回目で、太い眉が動いた。
四回目から、念仏が始まった。
十回目。
念仏の速さが上がった。
二十回目。
唱えながら、彼の目がヒカリの肩と顎と喉を順に舐めていく。息を吸う瞬間を探しているのだと分かった。ヒカリは息を吸っていた。ただ、手とはまったく関係のない場所で吸っていた。
「……癖が」
念仏の合間に、それが漏れた。
三十回目。
「癖が、何故無いのだ」
畳の目が、二人の足の下で毛羽立ちはじめている。灰色の作務衣は汗で色が変わり、草履の鼻緒が切れかけていた。
四十回目。
念仏が、止まった。
「小娘。何故癖がないのだ!」
初めて、声が震えていた。
「あいこにしてるだけ」
ヒカリはあっさりとそう言った。
「あなたの手を見てから、同じ手を出してるだけ」
嘘ではなかった。
癖など、探しても出てこない。出す前に何も決めていないのだから、漏れるものがない。彼女の手はいつも、相手の手より後から動きはじめて、先に間に合っていた。
「癖のない人間なんかいないはずだ……」
掠れた声だった。
「そうなの?」
「……っ。癖がないと。私は、私は……」
審判が合図を出した。
「あいこでしょ」
ヒカリの手は、いつも通りだった。相手の手を見て、同じ形を作る。
しかし、そこには見る手が、なかった。
大道寺武臣は手を出せずに、ただ小さく震えていた。そして息を漏らす。
「出していい手が見つからない……」
見る手がないとき、自分の指がどうなるのか。ヒカリはこの時はじめて知った。
勝手に、チョキになっていた。
「……時間です」
審判の声は、申し訳なさそうだった。
「合図で手を示さなかった場合は、反則負けとなります。……勝者、鈴宮ヒカリ。優勝」
大道寺武臣は畳に両手をついた。
それから、止めていた続きを唱えた。
「……南無阿弥陀仏」
ヒカリは、その場から動けなかった。
自分に経をあげている人を、初めて見た。
ミラーボールが回っていた。誰も拍手をしなかった。




