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わざと負けなくていい場所

第12話 わざと負けなくていい場所


ヒカリは笑いそうになるのを堪えた。この男は、負けている自覚がありながら、まだ勝ち筋を探している。


堪えたはずの笑いが、喉から漏れた。


「ふふ……あはっ。あははははははははは! この状況、確かにありえないよな! 吉兆!」


静まり返った一角に、その声だけが高く伸びていく。先ほどまでの無表情が、いつのまにか笑みに変わっていた。目だけが、笑っていない。


急に声を掛けられた吉兆の目は明らかに泳ぎ、その顔が絶望の表情に変わっていく。ちょうど二十回目の引き分けを迎えた後、吉兆は左手のスライドを諦め、右手だけで力なく普通のジャンケンをしだした。


「それで、何が『これで終わり』だ?」


ヒカリは笑っていた。その目が、一ミリも動いていない。


「……」


吉兆はもう左手を出していない。俯いて、戦場すら見ていない。引き分けは二十四回を超え、今も続いている。


(つまんないな)


ヒカリはそう思って、思ってしまった自分に、少しだけ嫌な気持ちになった。


この感覚には覚えがある。忘れたくて忘れたはずの感覚だ。


誰かが必死になっていて、自分だけが退屈している。


その景色を、彼女は五年前に一度、見ている。


高校二年の春だった。


駅前のロータリーには、どこかの木から飛んできた花びらが吹き溜まっていて、通るたびに靴の裏で潰れる音がした。


その帰り道で、ヒカリは奇妙な男に声をかけられた。


真っ白なスーツに真っ赤なシャツ、胸元は大きく開き、そこから覗く胸毛が春の陽射しを浴びて艶々と輝いていた。頭の上には、重力に喧嘩を売っているとしか思えない黒い塊が乗っている。


「そこのStudent。少しだけTimeをもらえないか」


ヒカリは無言で通り過ぎようとした。当然である。


「君、ジャンケン強いだろ」


足が止まった。


生まれて初めて言われた言葉だった。


男は内ポケットから櫛を取り出し、頭の上の黒い塊を丁寧に整えはじめた。


「三日前、そこのコンビニの前で、君が友達とアイスをかけてジャンケンしているのをSeeした。君は負けた。だが俺には見えたぜ。君は勝てる手を出しかけて、途中で変えた」


ヒカリは何も答えなかった。答えられなかった。


「勘違いするな。責めてるんじゃない。俺はな、Recruitに来たんだ」


男は白いスーツの内ポケットから、今度は一冊の薄い雑誌を取り出した。表紙には『月刊ジャンケンマガジン』と、やたら力強い明朝体で印刷されている。ページの隅では水着の女性が謎の決めポーズを取っていた。


「日本ジャンケン連盟。あまりメジャーじゃないがな」


ヒカリはその雑誌を受け取った。受け取ってしまった。


「そこには、本気で勝ちに来る人間しかいない」


男はそう言って、また櫛で髪を整えた。


「わざと負ける人間なんて、一人もいない」


その一言が、ヒカリの十七年をまとめて撃ち抜いた。


本気で勝ちに行っていい場所。


わざと負けなくていい場所。


そんなものが、この世に存在していいのか。


「二つ名は自分で決めるのがルールだが、まぁ、そのうち周りが勝手に付けるさ」


男は踵を返し、去り際に振り向いてこう名乗った。


「俺の二つ名は交渉人(ネゴシエーター)だ。覚えなくていいぜ、Lady」


覚えなくていい、と言われた名前を、ヒカリは忘れなかった。


その年の夏だった。日本ジャンケン連盟主催『第四十七回 全日本三すくみ選手権』。


通称、一〇〇〇人トーナメント。


会場は都内の廃業したボウリング場だった。レーンの上に畳を敷き、その上に赤と青のテープで四角を引いただけの簡易ジャンケン場が、ずらりと二十面。天井にはミラーボールが吊るされたままで、誰かが気を利かせて回してしまったせいで、選手たちの真剣な顔にキラキラと光の粒が流れていた。


空調は止まっていた。靴用の消毒スプレーと、カビと、埃の匂いが、閉めきった建物の中に何年ぶんか溜まっている。ボール返却機の穴だけが、いくつも黒く口を開けていた。


参加者はきっかり一〇二四人。


その全員が、ジャンケンで人生の何かを賭けている顔をしていた。


セーラー服の上にジャージを羽織った十七歳の鈴宮ヒカリは、受付でゼッケンを受け取った。安全ピンを留める指が、二度も滑った。


(この人たち、正気なのかな)


だが同時に、彼女の心臓は生まれて初めてと言っていいほど、うるさく鳴っていた。


ここには、わざと負ける人間が一人もいない。


それだけで、この薄暗いボウリング場は、彼女にとって世界一美しい場所だった。


一回戦から三回戦までは、記録するほどの事も起きていない。


一回戦の相手は開始三秒でグーを出し、三秒で敗れた。


二回戦の相手は「俺の手は右手じゃない、心だ」と言って胸に手を当てたまま反則負けになった。


三回戦の相手は対戦前に十分間の瞑想を要求し、審判に断られ、抗議し、退場した。


(本気で勝ちに来る人しかいないって、あの人言ってたよね)


考えを改めることになるのは、四回戦である。


四回戦の相手は、身長百五十センチほどの、ずんぐりとした若い男だった。


髪はストレートの坊ちゃん刈り。顔面の総面積に対してやけに大きな目が、対戦前から落ち着きなく泳いでいる。まつ毛は無駄に立派だった。


「よ、よろしくお願いします」


男は深々と頭を下げた。腰の低さだけは大会随一である。


「よろしくお願いします」


ヒカリも頭を下げた。


審判が合図を出す。


「最初はグー」


その瞬間だった。


「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」


男が絶叫した。


ボウリング場の天井が震え、ミラーボールが微かに揺れ、隣のレーンの試合が二つほど中断した。


これが彼の必勝法である。理屈は単純明快で、人間は驚いた瞬間、手を最も安定した形──つまりグーで固めたまま出してしまう。相手にグーを出させると分かっていれば、あとはパーを出せばいい。原理としては正しい。恐ろしく品はないが、正しい。


実際この技で、彼はここまで三人を沈めてきた。


「ジャンケン、ぽん」


ヒカリ パー

男 パー


「……あ、あれ?」


男が自分の手を見つめて固まっている。


ヒカリは、確かに驚いていた。心臓は跳ねたし、肩もびくりと動いた。


驚愕という反応は、耳が音を拾い、脳がそれを危険と判断し、体に伝えるという順序を踏む。ヒカリの反射は、その順序よりも速い。


「あ、あいこでしょ!」


男はもう一度叫んだ。しかし二回目は通用しない。


彼はパーを出し、ヒカリはチョキを出した。


「勝者、鈴宮ヒカリ!」


畳の上で膝をついた男は、泣いていた。


「ぼ、僕の、僕の技が……僕にはこれしかないのに……」


ヒカリはしばらく突っ立っていた。口を開けて、閉じて、もう一度開けた。


「あの……すごく、びっくりしました」

「えっ」

「本当です。心臓、まだ痛いです」


男は顔を上げた。目は相変わらず泳いでいたが、その泳ぎ方が少しだけ穏やかになった。


その日から連盟の人間は、彼のことを『突然男(サプライザー)』と呼ぶようになる。二つ名を付けたのは、他でもない実況席の記者だったが、その記事の見出しに『鈴宮ヒカリを唯一びびらせた男』と書かれていたことを、彼は生涯の勲章にしているらしい。


一方のヒカリは、控え室のパイプ椅子に座って、さっきの数秒を何度も反芻していた。


(驚いたのに、手が動かなかった)


それは彼女にとって、初めての発見だった。


驚愕は反射に勝てない。音や声や、突然の動きでは、この体は崩れない。


(じゃあ、何なら崩れるんだろう)


少し考えて、答えが出た。


反射より先に、意味を理解してしまう言葉。


体が構えるより早く、心のほうが先に動いてしまうような、そういう一言。


(……そんな言葉、この会場のどこにも落ちてないけどね)


ヒカリは笑って、その考えを畳んだ。


畳んだまま、五年間しまい込んでいた。


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