スピンオフ⑥ 「壊れた日」—副校長が妻子を失ったとき
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第1節:遅れ
その日は、やけに静かだった。
風も弱い。空も高い。何も起きない日だと、どこかで思っていた。
「今日、早く帰れる?」
朝、玄関で妻が言った。
「ああ、たぶんな」
適当に答える。
「“たぶん”って、なによ」
少しだけ呆れた顔。
「じゃあ、帰る」
「ほんとに?」
「……できるだけな」
小さく笑う。
その横で、息子が靴を履いている。
「父ちゃん、今日さ」
「ん?」
「ボール買いに行こうぜ」
「いいぞ」
軽く頭を撫でる。
「約束だからな」
「うん!」
その声が、やけに耳に残った。
「今日は、早く帰るって言ったのに」
メッセージが残っている。
《もうすぐ着く》
送信時刻は――1時間前。
「……チッ」
走る。
理由はない。
ただ、嫌な予感だけが背中を押す。
(急げ)
頭の中で、何かが言う。
(間に合わなくなる)
「うるせぇ」
息が上がる。
足がもつれる。
それでも――
「……っ」
角を曲がる。
見えるはずの家。
「……は?」
そこにあったのは――
“跡”だった。
焼けた匂い。
崩れた壁。
黒く焦げた空気。
「……」
音が、消える。
足が、止まる。
(間に合わなかったな)
声がする。
「……黙れ」
「……おい」
誰かが呼ぶ。
だが、聞こえない。
視界の中心に――
小さな手。
「……」
近づく。
触れる。
冷たい。
「……」
その瞬間。
何かが、完全に切れた。
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第2節:音
「……おい、キミオ」
肩を掴まれる。
「やめろ」
「落ち着け」
――ドンッ
無意識に、振り払う。
吹き飛ぶ身体。
「……っ!」
見ていない。
何も。
ただ――
音だけがある。
心臓の音。
ドクン
ドクン
ドクン
(殺せ)
「……」
(全部、壊せ)
「……」
(そうすれば、終わる)
「……ああ」
肯定した。
その瞬間。
“黒”が、溢れた。
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第3節:鬼
視界が、赤い。
いや、違う。
全部が、どうでもいい。
「どこだ」
声が、自分のものじゃない。
「どこにいる」
何かを探している。
いや――
分かっている。
“敵”を。
「出てこい」
空間が、歪む。
気配。
それを、掴む。
「……見つけた」
踏み込む。
世界が、削れる。
叫び。
音。
肉が裂ける感覚。
全部、どうでもいい。
ただ――
「足りねぇ」
いくら壊しても、
何も戻らない。
「なんでだよ」
初めて、言葉になる。
「なんで戻らねぇんだよ!!」
その叫びは、
誰にも届かない。
「……ああ」
そこで、理解する。
戻らない。
最初から。
その瞬間。
“鬼”が、完成した。
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第4節:外へ
「キミオ!!」
声。
現実。
「……」
振り返る。
主任。
校長。
誰か。
「……邪魔すんな」
一歩、踏み出す。
全員が、構える。
「止めろ」
誰かが言う。
「無理だ」
自分で、分かっている。
止まらない。
(行け)
声が、笑う。
(全部、壊せ)
「……ああ」
その時。
――ドンッ
衝撃。
視界が、揺れる。
「……止まれ」
低い声。
ギンジだった。
「……テメェ」
笑う。
「邪魔すんなよ」
「……するに決まってんだろ」
睨み合う。
「……」
その一瞬。
“戻る”
ほんの、わずかだけ。
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第5節:残ったもの
気づけば。
座っていた。
何もない場所。
「……」
手を見る。
震えている。
血。
全部、自分のじゃない。
「……」
思い出す。
全部。
「……ああ」
喉が、詰まる。
「……あああ」
声にならない。
泣く。
初めて。
「……っ」
その涙は、
止まらなかった。
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エピローグ
夜。
誰もいない。
ただ、立っている。
「……殺す」
小さく、呟く。
誰を?
分かっている。
「……俺が」
拳を握る。
“外に敵を作る”
それが――
生きるための、唯一の方法だった。




