スピンオフ⑦ 「最初の選択」—1000年前からの先輩
まだ、“憑鬼”という言葉がなかった頃の話だ。
古東は、今よりずっと小さく、ずっと未熟だった。人は祈り、争い、そして――怯えていた。
「またか」
男が呟く。目の前には、村を焼いた“何か”。人の形をしているが、目が違う。濁っている。だが、それは外から来たものではない。
「……人間だ」
誰かが言う。「違う!」別の誰かが叫ぶ。「あんなもの、人じゃない!」
男は、ただ見ていた。逃げ惑う人々。倒れる者。刃を振るう者。そのすべてが、同じ顔をしていることに気づいていた。
「……同じ、か」
ぽつりと漏れる。
その日、彼は初めて“それ”を見た。人の中にある“もう一つの顔”。怒り。嫉妬。憎悪。後悔。名もなき衝動。それが、形を持って溢れ出る瞬間。
「外じゃない」
静かに言う。
「中にある」
誰も理解しない。だが、彼だけは確信していた。
その後、長い議論が始まる。村の長、戦う者、祈る者、逃げる者。様々な意見がぶつかる。
「排除すべきだ」「閉じ込めるべきだ」「祓うべきだ」「受け入れるべきだ」
結論は、出なかった。いや――出てしまった。
「分けよう」
誰かが言った。
「善と悪を」
「悪を、外に出す」
「そうすれば、人は“人”でいられる」
拍手が起きた。安堵が広がる。救いを見つけた顔。
彼だけが、笑わなかった。
「……無理だろ」
小さく呟く。だが、声はかき消される。
計画は進む。儀式が組まれる。術が編まれる。人は、自らの中の“悪”を切り離そうとする。
最初は、成功したように見えた。
「ほら見ろ」「やはり正しかった」「これで平和だ」
歓声。安堵。涙。
その裏で。
彼は、ひとりの男を見ていた。
儀式を終えたばかりの男。穏やかな顔。だが――その手は震えている。
「……お前」
声をかける。
「なんだ?」
「何を捨てた」
「……さあな」
男は笑う。「軽くなったよ」
だが、その目は空っぽだった。
その夜、男はまた人を殺した。
理由はない。ただ、“そうしたくなった”から。
「……ほらな」
彼は呟く。
分けたはずの“悪”は、消えていない。ただ、形を変えて戻ってきている。
それでも、人は止まらなかった。分離は制度になり、術は洗練され、やがて“憑鬼”と呼ばれるようになる。
「便利な言葉だな」
彼は笑う。
「外に押し付けられる」
「自分じゃないと言える」
それが、どれだけ楽なことか、彼は知っていた。
「……だから、繰り返す」
止まらない。止められない。
彼は、考える。
壊すか。止めるか。それとも――
「……管理するか」
その選択は、最も冷たく、最も現実的だった。
「人は変わらない」
「なら、均衡を取るしかない」
そうして彼は、“仕組み”を作り始める。
見えない枠。見えない線。行き過ぎれば戻す。崩れれば支える。完全な善にも、完全な悪にもさせない。
誰にも知られずに。
誰にも感謝されずに。
ただ、ずっと。
千年。
その間に、彼は何度も見た。
救われる人間。壊れる人間。繰り返す人間。
「……つまらないな」
ある日、ふと漏らす。
「全部、同じだ」
その時。
ひとりの“例外”が現れた。
怒りを捨てない。憎しみも抱えたまま。だが、壊れない。選び続ける人間。
「……ほう」
初めて、興味が湧いた。
「そんなことが、できるのか」
彼は、その人間を観測する。関わらず、干渉せず、ただ見続ける。
やがて、その人間は一人ではなくなった。少しずつ、同じように“抱えたまま生きる”者が現れ始める。
「……変わるのか?」
小さく呟く。
「人間が」
否定してきた前提が、揺らぐ。
その時、初めて彼は迷う。
「壊すか」
「続けるか」
「それとも――」
選択肢が、増える。
そして、彼は決めた。
「試すか」
世界を。
人間を。
そして――
「自分を」
千年の“仕組み”に、わずかな揺らぎを入れる。
ほんの少しだけ、均衡を崩す。
その結果がどうなるか、見てみるために。
「……楽しみだな」
小さく笑う。
その笑顔は、優しくもあり、どこまでも残酷だった。
そして、その揺らぎの先に――
キミオがいる。
「さて」
千年分の時間を背負ったまま、彼は静かに目を細める。
「どこまで行けるかな」
その問いに答える者は、まだいない。
だが、物語は――
もう、とっくに始まっていた。




