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スピンオフ④ 「ふるさと」—若き日の副校長


山に囲まれた、小さな町だった。駅は無人。改札は一つ。夕方になると、電車の音だけが遠くで鳴る。「……変わってねぇな」キミオは小さく呟く。変わらない景色は、時に救いで、時に刃だ。


校舎は古い。木の匂い。軋む廊下。窓の向こうに、畑と空。「ここで育ったんだな」後輩が言ったことがある。「ああ」それだけ返した。多くは語らない場所だ。


教室の一番後ろ。そこが定位置だった。目立たないようで、全部見える席。「また喧嘩したの?」担任がため息をつく。「してねぇよ」「相手は鼻血出してるけど」「転んだんだろ」嘘をつく顔は、もう慣れている。


帰り道。川沿いの細い道。石を蹴りながら歩く。「おい」声がかかる。年上の連中だ。「調子乗ってんじゃねぇぞ」囲まれる。いつもの流れ。拳が来る前に、身体が動く。ドン、ガッ、短い衝突。終わりは早い。勝っても、何も残らない。


「またか」背後から声。振り返ると、白衣の女が立っていた。若い養護教諭だ。「……別に」「手、出しなさい」無言で差し出す。消毒液がしみる。「痛い顔、してる」「してねぇよ」「してる」短い会話。だが、その距離は不思議と近い。


「なんで、やり返すの」問われる。「やられるからだろ」「それだけ?」「……それで十分だ」女は少し考える。「じゃあ、“守るために”殴ることはある?」「……は?」意味が分からない顔。「自分じゃなくて、誰かのために」言葉が、少しだけ引っかかる。


翌日。事件は突然だった。放課後、裏山の小屋から煙が上がる。「火事だ!」誰かが叫ぶ。子どもたちが騒ぐ。教師は消火に走る。だが――「中に、まだいる!」児童の一人が泣きながら言う。足が止まる大人たち。火はもう強い。


キミオは、考える前に走っていた。「おい!」誰かの声を振り切る。扉を蹴る。熱気が顔を殴る。煙で視界が白い。「……っ」低く息を吸う。床を這う。奥に、小さな影。「こっちだ!」腕を掴む。軽い。怖がっているのが伝わる。


帰り道が分からない。煙が濃い。天井がきしむ。「……クソ」壁を手で探る。出口の方向。熱で皮膚が焼ける。「離すな」児童の手を強く握る。「う、うん……」震える声。足を一歩。二歩。ドン、と何かが崩れる。視界が途切れる。


その瞬間――「こっち!」声が割り込む。あの養護教諭だ。濡れた布を口元に押し当てられる。「低く、息は短く」指示が飛ぶ。肩を貸される。「外、すぐ」迷いがない。二人で一人を挟む。三つの呼吸が重なる。


外気。光。空。地面に膝が落ちる。「ゲホッ……」咳き込む。「大丈夫?」女が顔を覗く。「……ああ」短く答える。児童は泣きながら無事。周囲がざわめく。大人たちの声。遅れて来る現実。


夜。保健室。静かだ。「無茶するね」女が包帯を巻く。「別に」「別に、でやることじゃない」手際は丁寧。「……なんで、来たんだよ」「子どもがいるって聞いたから」「それだけかよ」「それだけ」迷いはない。


少しの沈黙。「さっきの質問、覚えてる?」顔を上げる。「……ああ」「守るために殴ること、ある?」「……あるかもな」「それ、悪いことだと思う?」「……わからねぇ」正直に言う。女は小さく笑う。「いいね、それ」


窓の外、山の稜線が黒い。「人はね、きれいに分けられないよ」ぽつりと言う。「優しいと乱暴、両方ある」「だから選ぶの」包帯を結びながら。「どっちを使うか、いつ使うか」指が止まる。「それが、その人になる」


「……めんどくせぇな」「うん、めんどくさい」即答で返ってくる。「でも、それでいいんだと思う」キミオは少しだけ笑う。「そうかよ」「そうだよ」


数日後。町はいつも通りに戻る。電車は一日に数本。畑は風に揺れる。校舎はまた軋む。「……ここ、嫌いじゃねぇな」ぽつりと出る本音。誰も聞いていない。


卒業の日。校門の前。「あんた、外に出るでしょ」女が言う。「ああ」「戻ってきなよ」軽く言う。「壊れたら、ここに来ればいい」「……壊れねぇよ」「壊れるよ、人は」優しく断言する。「その時、覚えてて」


振り返らずに歩き出す。「……ああ」小さく返す。それで十分だった。


――後に、彼は多くを壊し、そして抱えることを覚える。その根っこには、あの山と、あの言葉が残り続けていた。「分けるな、選べ」誰にも聞こえない声で、何度も何度も。

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