スピンオフ③ 「並び立つ者」—主任教諭と副校長
「その背中を、見た日」
職員室の空気は最初から冷えていた。「またか」「あいつ関わると面倒なんだよ」小声が飛ぶ。椅子にふんぞり返る男が一人。ネクタイは緩み、書類は山積み。後の主任教諭、当時はただの教諭。「聞こえてんだよ。好きに言え」睨むだけで、誰も何も言わない。面倒だからだ。
「失礼、少しよろしいですか」静かな声が落ちる。振り向くと主幹教諭のキミオ。若いが姿勢は崩れない。「午後の件です」一言で場の温度が変わる。例の案件。行方不明になりかけた児童、家庭崩壊、再発の恐れ。「俺じゃなくていいだろ」「関わらない選択もあります。ただ、放置すれば壊れます」「……誰が」「子どもが」視線が刺さる。「チッ……分かったよ。行きゃいいんだろ」
現場は校外だった。古い集合住宅。薄暗い階段。ドアの前で空気が重い。「……中、荒れてるな」「ええ」短く返る。扉を開けると、部屋は半壊。食器は割れ、壁は傷だらけ。中央に、児童とその父親。父親は酒と疲労で理性が切れている。児童は完全に固まっていた。
「来んな!」怒号。瓶が飛ぶ。壁に当たって砕ける。「……クソ」教諭(後の主任)が一歩出る。(抑え込むか)身体が先に動きかける。その瞬間、「下がってください」低い声。キミオだ。「今、この人に必要なのは“勝つこと”じゃない」
「は?」思わず返す。だがキミオは前に出る。距離を詰めすぎない。逃げ場を残す位置。「……しんどいですよね」第一声がそれだった。責めない。説得もしない。「全部、背負ってきたんでしょう」「黙れ!!」殴りかかる。ドン、と鈍い音。キミオは受ける。避けない。止めない。「まだあるでしょう」二発、三発。「それでいい。出せるだけ出してください」声は変わらない。
父親の腕が止まる。「なんで……なんでだよ……」息が荒い。「誰も……助けてくれなかった……」崩れかける声。「ええ」キミオは頷く。「だから、ここで止めましょう」たったそれだけ。包丁でも理屈でもなく、“終わらせる言葉”。次の瞬間、父親の手から瓶が落ちる。カラン、と乾いた音。膝が折れる。泣く。児童も泣く。部屋の空気が一段、軽くなる。
静寂。教諭(後の主任)は動けなかった。(なんだよ、あれ)力で制圧して終わらせるのが“仕事”だと思っていた。だが今、目の前で別の終わり方が起きた。「……終わりました」キミオが振り返る。顔色は悪い。拳の跡が残っている。「……ああ」それしか出ない。
帰り道、外は冷たい風。「……さっきの」やっと言葉が出る。「なんだよ、あれ」「特別なことはしてません」「ふざけんな。できるか、普通」「できなくていい」即答。「ただ、誰かがやればいい。今は自分がやってるだけです」「……なんで、お前が」「必要だったからです」迷いがない。
足が止まる。「……お前さ」視線は合わせない。「あれ、いつもやってんのか」「いいえ。毎回違います」少しだけ笑う。「同じ壊れ方は、ひとつもないので」「……」言葉が出ない。胸の奥に、認めたくない何かが落ちる。
翌日。態度は変わらない。口も悪いし、評判も悪いまま。ただ一つだけ変わる。「……おい」キミオが顔を上げる。「あの家、今日も行くんだろ」「はい」「俺も行く」ぶっきらぼうに言う。「……助かります」「別に。暇だからだ」嘘だと分かっているが、誰も指摘しない。
それが始まりだった。尊敬なんて言葉は使わない。ただ一つだけ増えた。「こいつの背中は、信用できる」それで十分だった。




