スピンオフ① 「黒を背負った男」—ギンジ外伝
スピンオフ①(深掘り・前編)
「笑ってる理由」—ギンジ
雨だった。
夜の港は、音が少ない。
波の音と、遠くのトラックのエンジン音だけ。
「……遅ぇな」
ギンジはコンテナにもたれて煙草をくわえる。火はつけない。
習慣みたいなものだ。
その時、足音。
「……来たか」
振り向くと、少年が立っていた。
細い。濡れている。目だけがやけに強い。
「……遅ぇよ」
「……ごめん」
「謝んな。別に待ってねぇし」
嘘だ。
ずっと待っていた。
「で?」
ギンジは顎で示す。
「どうしたい」
少年は、少しだけ視線を落とす。
「……帰りたくない」
「だろうな」
即答だった。
「親は?」
「……」
沈黙。
それで十分だった。
「……そっか」
ギンジは少しだけ空を見る。
雨は弱くなっている。
「じゃあよ」
軽く笑う。
「逃げるか?」
少年が顔を上げる。
「……え?」
「逃げる。シンプルだろ?」
肩をすくめる。
「この街、クソみてぇに広い。ひとりくらい紛れる」
「……でも」
「でも、じゃねぇ」
少しだけ声が低くなる。
「選べ」
まっすぐ見る。
「残って壊れるか」
「逃げて、まだ分かんねぇ未来に行くか」
少年の喉が動く。
「……俺は」
「うん」
「……逃げたい」
「だろうな」
ギンジはポケットから小さな紙を出す。
メモだ。適当な住所と、名前。
「ここ行け」
「……これ」
「知り合い。面倒見は悪くねぇ」
嘘だ。
“悪くない”どころじゃない。
「……いいの?」
「よくねぇよ」
笑う。
「でも、お前が壊れるよりマシだろ」
少年は紙を握りしめる。
震えている。
「……ありがとう」
「言うな」
すぐに返す。
「気持ち悪ぃ」
その時だった。
「……ああ、やっぱりここか」
空気が変わる。
ギンジの背筋が、わずかに伸びる。
振り向く。
そこにいたのは――
スーツの男。
数人。
そして、先頭に立つ一人。
静かすぎる男。
「……本庁かよ」
舌打ち。
「対象確認」
淡々とした声。
「未登録の憑鬼適合者」
視線が、少年に向く。
「保護対象とする」
少年が震える。
「……保護ねぇ」
ギンジが一歩前に出る。
「その後どうなるか、説明してやれよ」
沈黙。
それが答えだった。
「……チッ」
ギンジは、少しだけ笑う。
「分かりやすくて助かる」
ポケットから煙草を取り出す。
今度は火をつける。
「悪ぃな」
少年に背を向ける。
「ちょっとだけ、時間稼ぐ」
「……え」
「走れ」
それだけ言う。
「で?」
煙を吐く。
「何人だ?」
「貴様一人に対しては過剰だな」
冷たい返答。
「だろうな」
ギンジは、笑う。
「俺、逃がすの得意なんだよ」
その瞬間――
空気が、歪む。
(……ああ)
内側が、ざわつく。
“あれ”が来る。
「……いいぜ」
口の端が上がる。
「ちょっとだけ、本気出すか」
少年の足音が、遠ざかっていく。
それを確認してから――
ギンジは、一歩踏み出した。
――この時、すでに選んでいた。
“自分がどうなるか”なんて、どうでもいい。
“誰かを逃がす側”でいることを。
その選択が、
後のすべてを決める。
煙が、雨に溶ける。
「……で?保護ってのは、どっちの意味だ?」
ギンジが吐く。軽い声。だが足の置き方は、もう戦闘のそれだ。
「管理下に置く」
静かな男が答える。
「適合値が高い。放置はできない」
「……はっ」
鼻で笑う。
「都合いいな。壊れる前に囲って、壊れても使う」
返答はない。
その沈黙が、肯定だ。
「じゃあ、なおさらだ」
一歩、前に出る。
「今日は通さねぇ」
空気が張る。雨音が一瞬、遠のく。
「排除は最小限で」
誰かが言う。
「“最小限”ねぇ」
ギンジは肩を回す。内側がざわつく。
“黒”が、顔を出す。
(……来いよ)
逃げない。押し込まない。
ただ、手綱を握る。
「――始めるか」
最初の一歩で、距離が消える。
拳がぶつかり、肘が入る。鈍い音。息が詰まる。だが止まらない。
相手は訓練されている。連携も速い。
普通なら、押し切られる。
それでも――
「……ッ、まだだ」
一人、もう一人と崩す。
だが数は減らない。むしろ増える気配。
(時間は稼げてる)
それでいい。
それだけで、十分だ。
「……退け」
低い声。静かな男が一歩出る。
空気が、変わる。
「お前、面倒なタイプだな」
「褒め言葉だ」
「違うな。処理が面倒って意味だ」
次の瞬間、視界が歪む。
“理”に触れる圧。逃げ場が削られる。
(……来たか)
ギンジは笑う。口の端だけで。
「悪ぃな」
自分に言うみたいに。
「ちょっとだけ、借りる」
内側の“黒”に、手をかける。
引き出す。混ぜる。――まだ浅く。
ドン、と世界が一段沈む。
「……」
静かな男の目が、わずかに細まる。
「それを、扱うか」
「扱ってねぇよ」
肩で息をする。
「ただ、一緒にいるだけだ」
踏み込む。
ぶつかる。
今度は、相手の軸が揺れる。
一瞬の隙。
その隙に、後ろへ抜ける。
「――逃げろ」
小さく、空へ吐く。誰にでもなく。
(届いてる)
もう、足音は聞こえない。
それでいい。
「……終わりだな」
静かな男が言う。
周囲の包囲が狭まる。
「そうか?」
ギンジは煙草を落とす。火が雨で消える。
「“終わり方”くらいは、選ばせろよ」
次の瞬間、圧が落ちる。
膝が沈む。視界が白む。
(……持たねぇな)
分かっている。
ここから先は、削り合いじゃない。消耗戦でもない。
ただの――消費だ。
それでも。
(いい)
これでいい。
ふっと、別の夜が重なる。
屋上。コンビニ袋。どうでもいい会話。
『お前、なんでそんな軽いんだよ』
『重いと沈むだろ』
笑って、誤魔化したあの時の自分。
(……ああ)
理由は、単純だ。
重いものを、持ちすぎたくなかった。
だから、軽くした。
言葉を。態度を。距離を。
でも――
(捨ててねぇ)
守りたいものだけは、捨ててない。
「……おい」
誰かが近づく気配。
ギンジは顔を上げる。
「……悪ぃ」
誰に向けたかも分からない言葉。
「一人は、通した」
それだけで、十分だ。
「……処理する」
淡々とした声。
(ああ、そうか)
ここで終わる。
じゃあ、最後に。
(“軽さ”は、ここまでだ)
一瞬だけ、深く潜る。
“黒”を、もう一段だけ引き出す。
身体が軋む。
代償は、分かっている。
それでも。
「――来いよ」
踏み出す。
衝突。
白く、弾ける。
――どれくらい経ったか。
音が、戻る。
雨の音。遠くのサイレン。
「……は」
笑いが漏れる。うまく声にならない。
視界の端に、誰かがいる。
「……お前か」
キミオだ。まだ主幹の顔。
「……何やってんだよ」
掠れた声。
「時間、稼いだだけだろ」
いつもの調子で言おうとして、咳き込む。
キミオが膝をつく。何も言わない。
ただ、見ている。
「……なあ」
ギンジは少しだけ顔を上げる。
「任せていいか」
「……何を」
「続き」
短い言葉。
キミオの目が、わずかに揺れる。
「……分かった」
それだけ。
ギンジは笑う。
「それでいい」
深く息を吸う。うまく入らない。
「……お前さ」
最後に、少しだけ軽口を戻す。
「ちゃんと、抱えろよ」
「……ああ」
「捨てんなよ」
「……ああ」
満足したみたいに、目を閉じる。
「……じゃあな」
誰にでもなく。
「――相棒」
呼び方が、昔に戻る。
そのまま、静かに。
――後に人は言う。
ギンジは、軽い男だったと。
間違ってはいない。
ただ、正しくもない。
彼はずっと、知っていた。
人は、全部は抱えられない。
だからこそ――
せめて、隣の一人分くらいは。
笑って、軽くして。
代わりに持ってやる。
それが、彼のやり方だった。
そして。
そのやり方が、最後に残したものは――
たった一つ。
「任せていいか」
それに対する、たった一つの返事。
「分かった」
それで、十分だった。




