第五章 4
風が生温い。
亜熱帯性の気候は夜になっても気温が低下しない。
人間の営みの匂いがこの時間になっても夜気の中に混ざっている。
ゲルトが軽く顎を上げ、嫌そうに鼻を鳴らした。
犬の嗅覚を持つなら、こちらには感じられない不快な匂いも嗅いでしまうだろう。
「創世神来教だがな――」
鼻の頭に皺を寄せながら、ゲルトが言う。
「教祖が危篤状態に陥った」
ドウマは両眼を細くした。教団のトップが死ぬとしたら――
「研究施設の犯人捜しどころではない、というのが実情だ」
ゲルトが当然の結論を口にした。
「それよりも、後継者の後見人争いで揉めている」
「後見人?」
「教祖の孫がまだ十歳かそこらだそうだ。後見人は実質の教団支配者になる」
「ナンバー2はサカキだと聞いたが」
「表向きはレイエンという巫女がナンバー2だ。サカキの総務省は財務を握っているからな。金を握っている方が強いと言えば強い」
「ふん。まあ、どちらが支配者になろうとおれには関係無い話だ」
「そうでもない」
ゲルトの言葉に、ドウマは貌を上げた。
「順列から言えば、レイエンが後見人になるべきところに、サカキが横槍を入れた形になった。挙句に敗れた」
「敗れた? あの男が?」
意外だな――と呟く。
あの男は事前にあらゆる手配をするタイプだと見た。あの手のタイプは、失敗するような立場に自らを追い込まない。勝ち目が無ければ、最初から勝負に出ない。出たというなら、それなりの勝算があったはずだが。
「御子――教祖の孫だが、それがレイエン側についた。閉鎖社会で権力闘争に敗れれば、どうなると思う?」
「組織内の立場は弱くなるだろうな」
組織内のパワーバランスが崩れるだろうことは容易に想像がつく。
「その通りだ。ならそいつがどうするかも想像がつくだろうな」
「……」
攻撃、防御、逃走――三つのパターンが思い浮かぶが、どれを選ぶかは『そいつ』の性格次第だろう。
「昨夜、おれはあるマンションの一室に連れて行かれた」
ゲルトが言う。
「生活臭はほとんど無く、残された衣類も多くが新品だったが、一着だけ匂いが残っていた。その少女の匂いだった」
シアのマンションのことだ。匂いが残っていたのは、シャワーを浴びる前にシアが着ていた服だろう。
「少女を捜せ、と言われた」
赤い眼がシアを見る。シアはドウマの膝の上で眠っている。ゲルトの眼がドウマに戻った。眼の奥で、熾火のような炎が燃えている。
「だが本当の目的は少女の下僕だ。つまり、おまえだ。少女はおまえのコントローラとして必要だというわけだ」
「……」
「おまえ、人間を支配する力があるそうだな」
「誰から聞いた」
飼い主が番犬に与える情報ではない。
ゲルトの答えを聞く前に視線を感じた。
シアの身体を抱き寄せる。じゃらり、と鎖が鳴った。ゲルトの鎖が空気を切り裂き、腕の中のシアを襲った。
「くっ――」
陽動を承知でシアを身体の下に庇う。視線に対して背中を晒すしかなかった。
ずぶり、と肉を貫く音。
後頭部から入った軍用ナイフの切っ先が額に抜けた。
別のナイフは中脳と左の眼球を貫き、延髄を破壊したナイフは口から切っ先を出した。心臓が。肺が。腎臓が。肝臓が。背中側から貫かれた。
腹側に抜けた切っ先から血がこぼれ、シアの身体に滴り落ちる。シアの寝息は変わらない。白い横顔は穏やかに、瞼を閉じたままだ。
じゃっ、と鎖が鳴り、シアの身体がドウマの身体の下から抜き取られた。
ゲルトの腕がシアの身体を抱き上げ、ドウマから離れていく。
反射的に貌を上げた。
冷たい風が通り抜ける。
左手で喉を押さえた。手の中に血が溢れてくる。
右眼の視界に、ダイバースーツの男が立っていた。
眼だけを出したフェイスマスクのせいで、人相はよくわからない。ゲルトのような巨体。だが、筋肉以外の肉を削ぎ落としたようなゲルトと違って、格闘士のような身体だった。衝撃を吸収するため、格闘士は脂肪の層を身体に残す。もっとも、シルエットのラインが格闘士のようだ、というだけで、ダイバースーツの下がどうなっているかはわからない。機械と人造筋肉で強化した身体は、人体とは異なる機能を有していてもおかしくはない。
クジ――か。
声が出なかった。息もろくにできない。
ナイフを抜かない限り再生は始まらない。
ゲルトがシアを抱いたまま、屋上を囲むフェンスの向こう側に消えた。
ふらり、と立ち上がる。
軍用ナイフを両手に、クジが動線を塞いだ。
邪魔だ――
ゆらり、と毛が逆立つのを感じた。
《魔力を使うか。まだあの少女が近くにいるかもしれないぞ》
クジの声が暴走しかけた感情に冷水を浴びせる。
《空気までも消失させる力。ピンポイントでおれだけを狙えるか》
かち、かち、かち。口の中でブレードと歯が当たって音をたてた。
口から大量の血と涎が溢れ、喉から胸に垂れていく。胸も腹も血に濡れている。
《心臓と脳を破壊されても死なないか。貴様は何者だ》
右手を持ち上げ、延髄から口に刺さっているナイフの柄を握った。
ずるり、と抜いていく。
クジが動いた。
水平に弧を描くブレードの切っ先。抜いたナイフで受けた。髄液と血を散らしながら、衝撃でナイフが弾け飛ぶ。ふらつきながらクジから離れた。クジは追って来ない。
クジの眼がドウマを見つめている。
硬質な光は、人工眼球だった。
《さすがにまともには動けないようだな。どうせならまともな状態の貴様と闘いたかったが。隙を見せたのが貴様の敗因だ》
その言葉の半分も理解できない。大脳を貫いたブレードのせいだ。
左手を喉から離した。癒着を感じる。ナイフが無い場所は再生する。
背中に手を回し、心臓を貫いているナイフの柄を握った。
右手は肺に刺さったナイフを掴む。
大脳は後回しだ。脳の再生は時間がかかる。優先順位は低い。運動機能を司る延髄が回復すればそれだけでいい。そんな論理的思考ができたわけではない。本能が戦闘の気配を感じて最善の方法を選択する。
《少女を奪われれば、貴様はその者の下僕にされる》
シアのことを言っているのだということはわかった。ぴくり、と指先が動く。意識よりも身体の方が反応する。
《安心しろ。その前に貴様はこの場で死なせてやる》
死なない――
ドウマは心臓と肺からナイフを抜いた。
噴き上がる血煙の中、クジに向かって獣のように吠えた。




