第五章 3
眼を開くと、濁った夜の空に幾つかの星がちらついていた。
星の位置から深夜二時頃と判断する。
胸の上でシアが小さな寝息をたてている。シアを身体の上に乗せ、ドウマは仰向けになっていた。夜気に溶ける甘い匂い。シアの髪が蜜の匂いを放っている。
気配を感じて眼を向けた。
屋上のフェンスに男の手がかかった。じゃらり、と重い鎖の音。フェンスを跳び越え、巨大な影が屋上に現れた。
「よう――」
半身を起こしながらドウマは口を開いた。シアの身体は膝の上に移す。
二メートル近い影がゆっくりと近づいてくる。肩と腕の筋肉は発達しているが、腹部は異様に細い。ぎりぎりまで減量したボクサーのような身体だった。上半身は裸で、それだけに、肋骨よりも薄い腹を見ることできる。
両肩に犬の首。中央の貌は人の貌だ。ギリシャ彫刻のような眼鼻立ち。短く刈り上げた髪は銀色だった。眼は赤い。犬の眼も同じだ。三対の眼が、熾火のような光を放っている。
「名前を聞いていなかったな」
「ゲルトだ」
唸るような声で男――ゲルトが応じた。
「よろしく。おれは堂間大真だ」
「ドウマがファミリィネームか」
「ああ。名前で呼んでくれても構わない」
「やめておこう。親しげに名前を呼び合うような関係じゃない」
「生真面目な男だな」
ドウマは苦笑を浮かべた。それならゲルトはファミリィネームということになるが、ドウマもそれ以上は訊かなかった。
ゲルトの眼がシアに動いた。
「そうやっていつも一緒にいるのか」
「トイレ以外はな」
「風呂は一緒なのか」
「ひとりだとちゃんと髪を洗わないからな」
「……」
光景を想像したのか、ギリシャ彫刻のような貌から一瞬表情が抜ける。
ドウマは小さく笑った。
「そんなことを訊きに来たのか」
「いや――」
ゲルトの肩が動き、じゃらり、と鎖が音をたてた。
重い鎖が、ゲルトの手首と手首を繋いでいる。
その気になれば、引きちぎれるはずだ。そのままにしているということは、恭順の意を示しているのだろう。
――脳に爆薬が仕掛けられている。
そう言っていた。
これをやられると、逆らうことができない。脳をやられて生きていられる魔物は吸血鬼くらいなものだろう。
「本題は?」
ドウマは訊いた。
「創世神来教がおまえを捜している」
赤い眼に暗い炎を宿しながら、ゲルトは言った。
「ああ」
「驚かないな。ここ一週間で十一カ所の研究施設が破壊された。知っていたか」
「十三カ所だ」
「やはり、おまえか」
「なんだ。ひっかけだったのか」
「そうでもない。匂いが残っていたからな」
「匂い?」
「人間にはわからないだろうが、施設の幾つかに花のような残り香があった。その少女の髪の匂いだということはすぐにわかったよ。おれも犬達もな」
「なるほど」
甘い匂いが糸のように空気に混ざっている。犬の鼻には明確な指標に違いない。
「なら、遠からずおまえの犬達もここにやってくるというわけだ」
「あいつらは来ない。適当に街の中を走り回れと言ってある」
ドウマは右の眉だけを動かした。
「創世神来教におまえのことを言うつもりは無い。監視カメラの画像も破壊され、やつらには、犯人が人間なのか魔物なのか、個人なのか組織なのかもわかっていない。だから、犬の鼻に頼った。おれが黙ったままでいれば、やつらは何もできない」
「さっき『おれ』を捜していると言わなかったか」
「『研究施設を破壊した犯人』を捜している」
同義だろうが――とゲルトが言う。
「なぜ報告しない」
「そんなもの、糞喰らえ、だ」
吐き捨てるようにゲルトは声を荒げた。
三対の赤い眼が炎のような光を放っていた。
地獄で燃える熾火のように。
「子供達だが――」
唸るように言葉を吐き出した。
「廃棄されたと聞いた」
「殺されたと言ってやれ」
「……苦しんだと思うか」
「脳が破壊されていた。即死だっただろう」
「そうか」
ゲルトは瞑目した。両肩に生えた犬の首が低い唸り声を洩らす。
「まったく。――糞喰らえ、だな」
眼を開けたゲルトは、同じ言葉を噛みちぎるように繰り返した。




