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第二章 厨房(ギャレー)戦記 その五

十八

「ほら! オッサン! もっと腰入れて――」

 香織の掛け声に、

「お、お、オッサンじゃない!」

 抗議する飯塚。

「南部さんも! 下から大きくかき混ぜる!」

「おう!」

 石井の注意に、汗だくの南部が応じる。

「弘美! それでも防大で短艇(カッター)漕いだんかい?」

 夏井の声に、


 私だって! 私だって!!

 ジャガイモ洗うだけじゃ、終われないのよ!


 鈴野が無言で、身体ごとパドルを回す。

「そう、その調子だよ! 弘美!」

 夏井がそんな鈴野を応援する。


「ほら! 先任! もっと底までパドル入れて!」

「南部一曹! 俯角が足りませんよ! 俯角が!」

「鈴野副隊長、いいよ、それ! その意気ですよ!」

 厨房の外の科員食堂の人だかりからも、応援の声が飛ぶ。


 が――

 その脇で、海斗はずっと考えている。

 何かが足らない――何か――


『これがな――隠し味なんや』


 その時――

 ふと、海斗の脳裏に、死んだ司厨長・岩田悟朗の声が……


『ええか、イチ――『五輪丸』カレーには、こいつを最後に入れるんや』


 思い出の岩田の手には、八丁味噌のパックが――


「そうだ!」


 叫んだ海斗は、堂本に、

「八丁味噌! 八丁味噌は、ありますか?」

 訊いた。

 堂本は、一瞬、意味が判らず、

「は? 味噌、ですか?」

「八丁味噌! 八丁味噌です!」

「あ、八丁味噌はないですけど……赤味噌なら……」

「それだ! 取りに行きましょう!」

 海斗と堂本は、味噌が保管されている乾物倉庫に向かっていた――


十九

 椚田が、戻って来た海斗たちを見咎めた。

「え? 赤味噌? どうすんの、これ――」

 言ってから、椚田は、はっ――と顔を輝かせ、

「おー! こいつをカレーに入れるのか! そりゃ、コクが出そうだ! ナイスアイデアだなあ!」

 大きな顔に満面の笑みを浮かべて言った。

 が――

 海斗は、赤味噌のパックを握って見詰めたまま、動かない……

「どうしたの、一ノ瀬?」

 香織がそんな一ノ瀬に声をかける。

「一ノ瀬君? どうしたの?」

 石井も心配そうに訊いた。

「分量が……分量が、解らないんです」

 海斗がぽつりと呟いた。

 岩田が『五輪丸』カレーに入れていた八丁味噌の量――

 それは、約三十人という『五輪丸』に特化した分量だった。

 じゃあ、この百八十人という大所帯の『ぎんが』に入れる味噌の量は?

 六倍、でいいのだろうか?

 いや、そもそも――実は、『五輪丸』カレーに入っていた八丁味噌の確かな量さえ、海斗はきちんと教えられていないのだ――

 何となく、の分量でしかない。

 駄目だ――

 海斗は、絶望的な思いに駆られる。

 岩田が死に、自分は岩田さんのような司厨士になるんだと、海斗は決めていた。

 なのに――

 岩田の絶品料理の『五輪丸』カレーの作り方さえ、知らない――

 こんなことでは、自分は岩田を継げない……

「一ノ瀬――」

 赤味噌を持ったまま、俯く海斗に、香織が声をかける。

 が、海斗は、顔を上げることができない……

 その時――

 突然、再び、脳裏に岩田の声が蘇った。


『あほたれ! 味は分量で調整するんやない! おのれの“舌”で調整するんや!』


 はっ――と、海斗の目が見開かれた。

 何を迷っていたんだ、僕は……

 決然と、海斗は飯塚たちがパドルを漕ぐ回転窯に歩み寄る。

 そして――

 赤味噌のパックから、手づから味噌を取り出すと、ひとつかみを、そのまま、回転窯の中に投入した。

 それを三度――

 みっつの回転窯に、赤味噌が加えられた……


二十

「ほらぁ! もっと、もっと下までパドルを突っ込んで! おっさん!」

「おっさん!! 何やってんのぉ! それじゃあ、全然掻き混ざってないっての!」

「おっさん! 隣の鈴野を見習って! それじゃダメだって!」

 石井、香織、夏井の連呼に、

「う、う、う、うるさいぞ、お前ら! お、俺はオッサンじゃない! 先任伍長だぁぁぁぁぁっ!」

 飯塚が、思わず手を止め、叫び返して――


「オ(・)ジ(・)サ(・)ン(・)!」


 突然――隣の回転窯からの叫び声が、飯塚に突き刺さった。

 見ると……

 自分の身長の二倍はあろうかというパドルを全身で抱えるようにして、小さな鈴野が汗だくでぐりぐりと回転窯全体をかき混ぜていて――


「オジサン! そんなかき混ぜ方じゃあ、底にカレーがこびりついちゃう!」


「お、お、お、オジサン?」

 飯塚の素っ頓狂な声が厨房を揺らした。

 ぎりっ……と、飯塚は歯を食いしばる――

「す、す、す、鈴野まで、お、俺を“オジサン”呼ばわり……く、くっそー!」

 飯塚の胸の奥で、どす黒い獣が牙を剥く――

 そこへ、太田がおずおずと歩み寄り、

「い、い、飯塚先任、疲れたでしょう? か、代わりますよ?」

 精一杯の気遣いで交代を申し出るや――

「先(・)任(・)伍(・)長(・)の(・)誇(・)り(・)の(・)“オ(・)ー(・)ル(・)漕(・)ぎ(・)”、甘く見るんじゃねえええええ!」

 怒号と共に、飯塚が、パドルを回転窯底深くぶっ刺して――


「おっりゃあああああっ!」


 ガバッ――


 大きく回転窯からパドルの先端が跳ね上がり、勢い――


 ベチャっ――


 カレーの一部が、厨房の床にたたきつけられた。


「うわあああああああっ!」


 水泳インターハイベスト8の香織が、爆発的な足の瞬発力で飯塚に飛びついた。

「うを?!」

 そのまま、飯塚は腰に香織のタックルを受けてパドルから弾き飛ばされた。

 すかさず、太田がパドルを握る。

「香織ちゃん! 後は任せて!」

 太田が香織に片目をつぶって見せた。

 見事なパドル捌きでルーをかき混ぜ始める。

 厨房の隅に尻もちをついた飯塚が、呆然と、そんな光景を眺めていて――

 厨房の外では、見物に来た隊員たちがやんやの喝さいを送っている。

 飯塚の腹から顔を上げた香織は、その人ごみの向こうに、背の高い茶褐色の肌の、薄灰色の瞳を見た気がした――


 海斗は――おそるおそる、出来上がったカレーのひとすくいを口にし……

 しばらくしてから、輝く視線を香織に送る。

 香織も、同じくカレーを一口、口に入れ……しばらく、口の中で回してから、


「一ノ瀬! やったね! これ、『岩田さんのカレー』の味だよ!」


 海斗の目に、きらりと一筋の、光るものがこぼれ落ちた……


二十一

「うおおおお? こりゃ――美味ぇぇぇぇぇっ!」

「あ? い、いつものカレーとは、ちょっと違う気がするけど……」

「いや、何だこの、コクっていうか――」

「ほら、あれだよ! 蕎麦屋のカレー、みたいな?」

「あー、判る判る! “和”っぽい味、感じるよなあ!」


 昼食の時間――

 科員食堂に、絶賛の嵐が吹き荒れていた。

「やったね、一ノ瀬――」

 厨房の中で、大柄な香織が、海斗を見下ろした。

「はい!」

 清々しい気持ちで、科員食堂で舌鼓を打つ隊員を見詰める海斗――


「何とか間に合ったね」

「ねー」

 頷き合う石井と夏井、

「弘美も頑張ったわね!」

 夏井に言われ、鈴野が、

「はい!」

 にこっ――と、微笑んだ。

「それにしても――原木さん、凄かった……」

 石井の言葉に、夏井も、

「そうそう、超絶包丁捌きだったわね……びっくりしちゃった」

「椚田さんも――玉ねぎの皮むき、なんて、ちょっと失礼だったかな?」

「椚田さん、料理上手なんだね――」

「知ってたら、最初っからもっといい仕事、指示したんだけどなあ」

 

「あのー……香織ちゃん」

 科員食堂を見詰める香織の背中に、太田が声をかけた。

「あの、メアド、交換してくんないかなあ?」

 振り返った香織は、頬を真っ赤に染めている太田を認めて、

「はいぃぃ? 何ですって?」

 にっ――と笑って聞き返している。

 

 厨房の隅では、飯塚が、膝を抱えて座り込んでいた。


「おっさん……おっさん……おれは、厨房じゃ、ただのおっさん……」


 ブツブツと、小さく呟き続けている。

 そんな飯塚に、南部が声をかけた。

「先任――ニンジンの皮剥きは、上手かったですよ!」

「そうそう、お陰で乱切りが捗りましたよ。なあ、堂本!」

 椚田のフォローに、堂本も、

「そ、そ、そうですよ! 本当に、ありがとうございました、先任!」

 顔を上げた飯塚は、覗き込む三人の顔を見渡して――

「お前ら――ぜんっぜん、慰めになってねえんだよぉォォォっ!」

 と――

 賑やかな科員食堂を背に、村澤と背の高い桧垣が、静かに厨房に入って来た……


二十二

 厨房の空気が、さっ――と、凍り付く……

 堂本が、調理台や調理器具の間の隘路を駆け寄って敬礼し、

「ぎゃっ! ギャレー! いじょお、ありまっしぇん!」

 裏返った声で報告した。

 答礼した村澤は、さっと右手を降ろすと、制帽の下から視線を厨房に走らせた。

 その瞳が、隅でのっそりと立ち上がる飯塚を捉える。

 飯塚が、

「厨房、異常なし!」

 銅鑼声で、村澤に報告した。

 再び答礼すると、村澤がそんな飯塚に歩み寄った。

 村澤に、背の高い桧垣が追従する。

 近寄ってきた二人に飯塚は相好を崩し、

「いやあ――給養員、“熱中症”で壊滅! で、どうなることかと思いましたが、こいつらの協力のおかげで、金曜日カレー、何とかなりましたわ」

 村澤の目が、スッと夏井たち女性陣に移り、

「なぜ、彼女たちが、ここに?」

「いやっははは! やっぱり、料理は女の方たちがいてくれると、ホント心強いですわ」

「『五輪丸』の生存者の方もいらっしゃるようですが」

 村澤の後で、桧垣一尉が海斗たちを見咎めた。

「あ、いや、彼らは『五輪丸』の料理人だそうで、その、あ、アドバイスなどいただきつつ、コクがですねえ――」

 しどろもどろになる飯塚を、沈黙する村澤の細い目がじっ……と見据えていて――

 異変を感じた飯塚の表情が凍った。

 しばし、飯塚を見詰めていた村澤が、

「飯塚さん――な(・)ん(・)で(・)私(・)に(・)話(・)し(・)て(・)下(・)さ(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)ん(・)で(・)す(・)か(・)」

「あ……いや、その――」

 口ごもる飯塚に、村澤が、

「飯塚准尉……後で私の部屋に、出頭願いたい」

 

 うっわ……これ、やべぇんじゃ……


 南部、太田、椚田、堂本の胸に、静かに絶望が拡がっていった――


 士官食堂――

 風間以下、幹部たちが、食卓を囲んで昼食のカレーを食している。

「お? 何か、いつもと味が違うようですが」

「なんか、コクがありますねえ……」

「これはこれで、イケますな」

 幹部たちが味の講評をする中、士官食堂の扉が開いた。

 憮然とした表情の村澤と桧垣が入室し、湯気を立てるカレーの置かれた自席に腰を下ろす。

「遅くなりました」

 村澤が、一言詫びてから、目の前のカレーをスプーンですくい、口に入れた。

 瞬間――

 村澤の細い目が、はっ――と見開かれ……

 隣の桧垣も、驚いたような顔をしている――

 が、その後、村澤は何事もなかったかのようにもぐもぐと口を動かした。

 カレーを飲み込んだ後、

「艦長――実は、給養員が倒れた件に関し、後で報告書を上げさせてもらいます」

 村澤が、風間に告げた。

 風間は、カレーを咀嚼し、

「美味いな」

 ぽつりと呟いてから、

「承知した」

 短く答えた。

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