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第二章 厨房(ギャレー)戦記 その四

十三

「なあ、聞いたか? 給養班壊滅の真相――」

「あ? 熱中症だろ?」

「違うって! ほんとは、密造酒を呑んで、急性胃腸炎になったらしいぞ」

「は? 密造酒?」

「そう、猪瀬給養班長が、大量のパンやらフルーツやら野菜やらを、ボイラーの配管室に数か月放置して熟成……ってか、腐敗させた密造酒を、みんなで呑んでぶっ倒れたってのが真相だってよ」

「はあ? なんだその、旧海軍の都市伝説みたいな話は――それこそ、怪しい噂――」

「いや、それがよ……衛生員の谷川から直接、聞いた話だから、まず間違いないって! あ、谷川、俺と一緒の部屋なんだよ……何か、飯塚さんと権藤医師が隠ぺいを図って、“熱中症”ってことにしたらしいぜ! 同じ部屋のやつらと、マジか! って、びっくりしちまったよ」

「え? ……それ、ヤバいんじゃ――」

「ヤバいって! なあ――俺ら、『五輪丸』事件で色々物議を醸しそうだってのに……この隠ぺい工作が明るみに出たら――」

「いや、だからこそ、隠ぺいしたんだろ? だって、『五輪丸』事件でもなんかヤバそうな雰囲気なのに、これ、バレたらもう、『ぎんが』は……」

「廃艦――かもな」

 操舵員の真中(まなか)と吉村(よしむら)は、狭い艦内の廊下で、声高に会話をしていたが――思わず歩を停めた。

 目の前の曲がり角から、TAO(タオ)の桧垣一尉が姿を現したからだ。

 真中と吉村は、直立不動の姿勢を取ると、

「い、異常、ありません!」

「お疲れ様です! 桧垣一尉!」

 敬礼した。

 すらっとした長身の桧垣が、隙のない答礼を二人に返した後――

 制帽のひさしから細い目で二人を一瞥し、

「今の話――もう少し、詳しく聞かせてくれないか?」

 真中と吉村は、顔を見合わせ――ゴクリ……と、唾を飲みこんだ。


十四

 椚田が、手際よく炊飯釜に火を入れた。

「よし! これで飯は何とかなった……」

 呟くと、ニンジン乱切りに悪戦苦闘している堂本に歩み寄り、

「おう! 後は任せろ!」

 そう言って、堂本から包丁を受け取るや――

 凄まじい速さで、ニンジン乱切りを始めた。

 そのリズミカルな音に、堂本だけでなく、石井や夏井、香織、咲奈、海斗までもが驚きの目を向ける――


 え? く、椚田さんって、でかくて柔道の猛者のタチケン班員ってだけじゃ、ないんだ――


 鈴野の心に、椚田に対するそこはかとない尊敬の念が湧きあがる……

「おい、堂本。ボーっとしてないで、司厨士の方と、お前はルーの準備をしろ!」

「は、はい!」

 椚田の指示に返事をした堂本が、海斗に歩み寄る。

 それを見送りながら、椚田が、

「あ、先任、そのニンジンはもう大丈夫です、こっちに下さい。次のニンジンの皮剥き、お願いします」

 飯塚が、ニンジンを渡しながら、不満げな表情で、

「なあ――椚田、俺もニンジンを包丁で切るくらい――」

「先任! ニンジンの皮剥き、最高に上手いっすよ!」

 マスクの上の目に満面の笑みを浮かべる椚田に、飯塚はため息をひとつ吐くと、黙々とニンジンにピーラーを走らせ始めた。

 それを見届けた堂本が、海斗に、

「あの――ルーなんですけど」

「香織さん、咲奈さん! ジャガイモの皮剥きは、お任せします!」

 海斗が告げると、

「任せて!」

「行きな、一ノ瀬!」

 包丁を置いた海斗は、堂本に案内されて冷蔵庫に向かった。

 二人は協力して、巨大な食缶を厨房に運搬する。

 そして、これまた巨大な回転窯の前に、食缶をドシン――と、置いた。

 これを六度、二人は繰り返し……

 要するに、巨大な食缶が六つ、回転窯の前に並んだ。

 そのうちの三つには、鳥や豚の骨、野菜などを長時間、煮込んで出汁を取ったスープストックが、残りの三つには、玉ねぎのみじん切りとトマトやニンニクを炒め、市販のルーなども混ぜ合わせ、さらにスパイスを加えた、『ぎんが』カレーの命のルーが入っていた。

 海斗は、その分量に、めまいを覚える――

「これを、それぞれの回転窯に入れ合わせて、火を入れます」

「肉は?」

「そうでした! すでに肉は切って、塩コショウをまぶして付け込んであるので、冷蔵庫から持って来ましょう!」

 再び、海斗と堂本は冷蔵庫に向かい、肉の入った食缶を運搬した。

「じゃあ――行きましょう!」

 堂本の言葉に、海斗は頷くと……

 二人で協力して、回転窯に、ルーとスープストックを入れ込んでいった……


十五

「熱中症って言ったら、熱中症です!」

 権藤医師が、口から煙と一緒に言葉を吐き出した。

『ぎんが』医務室――

 村澤副長が、紫煙の向こうから細い目で権藤を見据えている。

 その後ろで、背の高い桧垣一尉の目が鋭く光る。

「まったく! 何度言ったら判るんです? 便や吐瀉物からも、簡易検査で細菌やウィルスは検出されませんでした! 残る可能性は“熱中症”でしかあり得ません!」

「先生――先ほども言いましたが、衛生員の谷川が、あれは熱中症なんかじゃなかった、急性胃腸炎だったって――」

「彼は、私の“熱中症”という診断しか、聞いてないはずですが?」

 権藤が、村澤の言葉尻を喰いながら立ち上がった。

「村澤副長、なんですか? あんたは、医者である私の診断より、衛生員になり立ての、谷川二士の言葉を信じるっていうんですか?」

 しばし――二人が視線をぶつけ合う。

 が、やがて、

「いいでしょう、先生……ですが、これが悪質な“隠ぺい”だったと判明したら――どうなるか、それはお判りでしょうね?」

「だから、隠ぺいじゃないって言ってるでしょう? あーもう、何度言ったら判ってくれるんですか?」

 権藤は、自分の椅子にどっかと腰を下ろすと、再び煙草を口にくわえて大きく吸い込んだ。

「これ以上、私が言えることは何もありませんよ!」

 吐き捨てた。

 机の端の、口の開いた煙草のカートンを、静かに見詰めた村澤が、

「ところで、件の給養班員たちは、居住区にいるんでしたね?」

「そうですよ。入院の必要を認めなかったものでね」

「解りました」

 村澤は答えると、

「桧垣一尉。行こう」

 静かに言って、医務室を後にした。

 残された権藤は、煙草の煙を大きく吐き出すと、

「くそっ!」

 毒づいて、短くなった煙草を灰皿に荒っぽく突っ込んだ。


十六

 回転窯で、ぐつぐつと、ルーとスープストックを合わせたカレーが煮え立ち始めた。

 そこに、漬け込まれた肉、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモをぶち込んでいく――

 スライサーの故障と言う絶望的な状況下で、奇跡的に――

 “約二百人分の野菜のスライス”が間に合った。

 石井や咲奈たち女性陣、その他の献身的な働きによって……

 煮込まれるカレーの中に顔を出す野菜を見ながら、海斗は、


 また、僕は、“救われた”のではないか?


 ふと、そんな思いが心によぎる……

 と――

 咲奈が、調理帽を脱いだ。

 長い髪が、ばさっ――と、背に落ちる。

 さらに、腰の後の白衣の結び目を解いていく……

「咲奈?」

 香織がそんな咲奈に声をかけた。

「後は、できるでしょ?」

 咲奈が海斗に言った。

「は、はい!」

 海斗の返事に、ふっ――と、口元に笑みを浮かべると、咲奈はそのまま、厨房を出て行った。


 か、かっこいい――


 鈴野は、そんな咲奈の後姿を、憧れの眼差しで見送る……


 後は――

 仕上げの煮込みだけだ……

 咲奈のいなくなった厨房で、海斗は思った。

 思ったが――何か足らない気がしていた。


 それは――

 自(・)分(・)が(・)助(・)け(・)る(・)つ(・)も(・)り(・)で(・)、助(・)け(・)ら(・)れ(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)か(・)ら(・)――か?

 いや、違う……

 もっと、何か大事な事が――

 それは、何だろう――


「さあオッサン! ちょっとは、役に立ってよね!」

 海斗の悩みの向こうで、石井が飯塚に声をかけていた。

「おい、石井――俺は先任伍長だって」

 抗議する飯塚に、石井が自分の身長よりも大きな“ヘラ”を押し付ける。

 パドル――

「回転窯をかき混ぜるのは、力のあるオッサンの仕事よ!」

 くりっとした目を輝かせ、石井が飯塚を見た。

 飯塚は、鋭い目つきでパドルを睨み据えると、石井の手からひったくり、

「おうよ! これはお前らにはできない仕事だからな!」

 言って、巨大な回転窯にパドルを突き入れた。

「じゃあ、後は――南部さん! 太田さん!」

「はいはいっと」

「そう来ると思ったよ」

 南部と太田が、夏井と香織から、それぞれパドルを受け取る。

 三人が、回転窯のカレーをかき混ぜ始めた、その時――


「私に、やらせて下さい!」


 鈴野の凛とした声が厨房に響いた。


十七

 いつの間にか――

 科員食堂に、人だかりができていた。

 衛生員、谷川二士の口の軽さに端を発する“給養員、密造酒飲酒で壊滅”を聞き付けた隊員たちが、様子を見に厨房に詰め掛けていたのだった。

「おい! あの飯塚先任が、パドルでカレーをかき回してるぞ?」

「南部一曹まで――汗だくになってるよ」

「あれ? もう一つの窯をかき混ぜてるの、鈴野二尉じゃないのか?」

 口々に、隊員たちが中の状況を囁き合っている……


 その頃、給養員居住区に向かっていた村澤と桧垣は、風間艦長とすれ違った。

「異常、ありません!」

「お疲れ様」

 村澤の報告を、その茶褐色の肌に目立つ薄灰色の瞳で受けてから答礼し、すっ――と歩み去る風間。

 一瞬、村澤は背の高い背中を目で追い……

 すぐに、きっ――と、正面の給養員居住区を睨み据えた。

 扉をノックし、入室する。

 瞬間――

 室内を満たす強烈な酸っぱい臭いが、二人の鼻を刺した――


「この、大バカ者どもが! 完全な不祥事だ、これは!」

 村澤の怒号が、給養員室を揺らした。

 その後ろで、細身の桧垣が鼻を指でつまんで顔をしかめている。

 猪瀬は、ベッドの上に端然と正座していて――


「うおっ――うえええっぷ!」

 ベッドのひとつで、粕原が悶絶し、ビニール袋に茶色の液体を吐き出していた。

 もう一つのベッドでは、別所もゴミ箱にえずき続けていて……

 もはや、彼らの口からは、胃液しか出なくなっていた。

「あっ! また――」

 副班長の天野が、ベッドの上で飛びあがると、サンダルを履くのももどかしく、村澤と桧垣の方に駆け付けて来て、

「あ、あの、す、すみません!」

 頭を下げると、二人の脇をすり抜けて外に走り出て行った。

「まったく……密造酒、だと? 貴様らには自衛官としての自覚はないのか?」

 苦々し気な声が、村澤の口から落ちる。

「本当に、申し訳ありま――」

 猪瀬が頭を下げるとともに、


 ぐぎゅるるるるるっ!


 お腹で盛大な音が鳴り、

「あ――い、いっててて、いてえ!」

 そのまま、猪瀬は腹を抑えてベッドをのたうち回った。

「貴様ら――覚悟しておけよ」

 そんな給養員の惨劇を見詰めながら、唇を震わせ、村澤が吐き捨てていた――

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