第二章 厨房(ギャレー)戦記 その三
八
「じゃあ、私も手伝わせてもらおうかな!」
大柄な香織も、急いで給養員の白衣を身に着けた。
まさか、助けてもらった『ぎんが』の厨房に立つことになるとはなあ……
海斗は、不思議な感慨に囚われていた。
そして、思った――
何か判らないけど、今、この『ぎんが』は、かつてない危機に見舞われているんだ!
ここで僕が一肌脱ぐことは、助けてくれた館野一尉に対する恩返しにもなるはずだ――
決然と――海斗は、Tシャツとジーンズの上に、長い白衣をまとっていく――
と――
「ええっ? い、飯塚先任! な、何やってんですか?」
ジャガイモを洗う堂本の声が裏返った。
「あ? 何やってるかって、ジャガイモの皮を剥いているだけだが――」
飯塚のまな板の上に、皮と一緒に土がパラパラとこそげ落とされていて――
「何でジャガイモ、洗ってないんですか?」
「あ? ジャガイモは、洗わずに皮、剥くもんだろ普通」
玉ねぎを切る手を止めた石井の視線が、鋭く飯塚を刺す。
「何言ってんですか、先任! ちゃんと土、落としてください!」
「いや、確か、ジャガイモは土に栄養が――」
「いいから、洗って!」
有無を言わさぬ石井の声に、
「お、お、おう――」
飯塚が小さく答え、包丁を置き――ジャガイモを見詰めた。
と、さらに――
「ちょ、ちょ、ちょっと! 弘美、何やってんの?」
夏井の素っ頓狂な声が上がる。
海斗が見ると、ショートカットの小柄な女性――鈴野が、包丁を右手に持ち――
……って、何だあの持ち方は?
“逆手”に持った包丁で、ジャガイモの皮を剥い――いや――刺し殺……
「あ、あー、あ、弘美! あんたはいいや、包丁は! い、飯塚さんと、ジャガイモ洗ってて? ね?」
夏井の言葉に、鈴野は、きょとんとした顔で、包丁を置き、
「あ……はい」
小さく答えると、大きなザルをシンクに持って行って、中に置いた。
「よっ――と!」
抱え上げた大袋から、ザルの中に大量のジャガイモを移し替える。
そこに、準備を終えた海斗が、厨房に足を踏み入れると――
ガチャン! ガチャッ……カチャン!
突然、発生した騒々しい音……
見れば、飯塚が、食器洗い乾燥機から食器を外に取り出しているところだった。
鈴野に代わってジャガイモを剥こうとしていた香織が、
「ちょっと! 飯塚さん! な、何やってんですか?」
「せっかく洗浄機があるんだ。これでジャガイモを洗った方が早いだろうが」
厨房の全員の手が止まった。
妙な静寂が厨房を支配し――
ドン!
石井の拳が、調理台をしたたかにぶっ叩いた。
「もういい、オッサン! あんたは米でも研いでろ!」
厨房が凍り付いた――
九
「お、オッサン?」
厨房に、裏返った飯塚の声が響いた。
「お、お、お、俺は先任伍長だぞ!」
銅鑼声に戻った飯塚が、石井に抗議する。
詰め寄る飯塚に、石井は、さっ――と、包丁を向けた。
「ここは厨房よ! 階級は関係ない!」
石井の“気迫”に圧されて、飯塚は後退り――
「いいから! オッサンは、米を研いでてください!」
くっ――と、歯ぎしりした飯塚が、
「堂本! 洗米機は?」
「手で!」
すかさず――堂本が言った。
「あん? 手?」
飯塚の鋭い目つきに一瞬、たじろぎながらも――
「金曜のカレーの日は、我が『ぎんが』給養員は、手で米を研ぎます!」
嘘ではなかった。
事実――それが、猪瀬のこだわりだった。
カレーに合わせるため、米に吸わせる水分を少なくする……
だから、金曜日のカレーの日は、堂本達若手が、自ら手で米を研いでいたのだ。
が――
堂本の思いは、それだけではなかった。
これ以上、“厨房の破壊神”飯塚に、機械を壊されるわけにはいかない――
この思いの方が強かった……
「ふん――! いいだろう! 堂本! ステンレスボウルは?」
「これに!」
巨大な銀色のボウルを、堂本がシンクに置いた。
その隣で、鈴野が黙々とジャガイモを洗っては、香織に渡していく。
香織が手際よくジャガイモの皮を剥いて行き――
そこに、海斗も加わった。
「海斗――さすがだね」
「香織さんも、なかなか――」
『五輪丸』生存者の二人が、調理台に並んで立ち、ジャガイモ剥きの腕を競った。
「ってか――そうだ! あの、『ぎんが』の乗員って、何名なんですか?」
ジャガイモの芽をくり抜きながら、海斗が米袋を抱えた堂本に訊いた。
「百七十三名ですね! あ、それに、『五輪丸』生存者を加えて、百八十四名です」
――百八十四?
海斗はめまいを覚えた。
海斗の担当していた『五輪丸』乗員は、三十名だった。
その、約六倍……
この調理――自分の手に負えるのか?
海斗は、そこはかとない不安に襲われていた――
十
鈴野は感嘆していた。
海斗の包丁捌きもさることながら、香織のジャガイモの見事な剥きっぷり――
鈴野は、防衛大卒業の、エリート自衛官である。
実家は医者の家系で、“文武両道”を旨とする家訓により、幼い頃から柔道を学ばされた。
兄と姉と弟を持つ鈴野は、三番目の気楽さからか、医学より柔道を志すようになり――
高校二年でインターハイベスト四に入賞、そのまま大学は柔道の道にと思っていたのだが、左膝を負傷――現役を断念したところ、高校の柔道部の先輩OBから、防衛大入学を勧められたのだった。
勉学も疎かにしてはならない鈴野家で、学年トップクラスの成績は当たり前であり……
鈴野は防衛大学に入学、そのまま自衛官の道に踏み出した。
かように、文武どちらも“完璧”な鈴野ではあったが――
家事は、からきしであった。
なんなら、飯塚の「食器洗浄機でジャガイモを洗う」というトンデモ発想に、「その手があったか!」と感心してしまったくらいなのだ。
だから、石井や夏井、香織や海斗たちの料理の腕に、素直に感心していた。
必死でジャガイモをシンクで洗い続けて、香織と海斗に渡していくが、洗うスピードがなかなか追いついて行かない――
「これ――ジャガイモ、何個剥きゃいいのよ?」
香織の問いに、海斗が、
「ざっと計算したところですけど――七十個? くらい?」
すると、飯塚を補助してボウルに大量の米粒を米袋から移し替えていた堂本が、
「あ、あ、あの、一ノ瀬さん、さ、最低でも、百五十個は剥かないと、その――」
「百五十個?」
香織の声が裏返った。玉ねぎを切る音をリズミカルに響かせていた石井が、
「堂本――それ、“普通の食堂”の量でしょ? ここの男たち、食う量半端じゃないのよ? 二百個くらいは必要なんじゃないの?」
「いや、あ、ま、まあ――」
力なく笑う堂本に、
「に、二百個……」
香織が絶句し、
「ま、間に合うかな?」
「さあ――でも、やるしか――」
唾を飲み込んだ海斗が答えたその時――
「先任! 何やろうとしてるんスか?」
椚田の声が飛んだ。
しゃがんだ巨体が、皮を剥き終えた玉ねぎを石井たちに渡そうとしている姿勢で固まっている――
シンクの前で、巨大なボウルに米を入れた飯塚の右手には、あろうことか食器用洗剤が握り締められていて――
「ちょ――飯塚さん! 何しようってんです? その洗剤で!」
太田が立ち上がって、剥きかけの玉ねぎで飯塚を指した。
「あ? だってよ、洗剤で米粒綺麗に洗ってやらなきゃ、米炊けないだ……」
ドン!
鈴野の身体がビクッ――と、竦んだ。
香織が握りこぶしをまな板に叩きつけて震えている……
そして――
「あーもう! おっさんは、ニンジンの皮剥き! それくらいはできんだろ?」
再び――厨房が凍り付いた……
十一
「お、お、お、俺は、お、お、オッサンじゃ、な――」
「先任、どいてください!」
立ち上がった椚田が、その巨体で飯塚を脇に押しやった。
「米研ぎは俺がやりますから! 先任は、ピーラーでニンジンの皮剥きを! 流石にそれくらい、できるでしょ?」
ボウルに水を入れ、その大きな手でガシガシと米を研ぎ始める椚田――
海斗は、その手つきの良さに感心する。
その脇で、堂本が、ピーラーとニンジンを飯塚にそっと差し出している。
「――ふん!」
苦々し気な表情で、ニンジンとピーラーを受け取ると、黙々とニンジンの側面にピーラーを走らせ始める。
堂本がその横で、ニンジンを洗ってはヘタを切り落として飯塚のサポートに入る。
とりあえず――
厨房は、一定の“落ち着き”を取り戻したかに見えた。
見えた、が――
間に合わない!
これが、海斗の実感であった。
玉ねぎは、石井と夏井のコンビが、ジャガイモは香織と海斗のコンビがそれぞれ切断しているが、間に合うかどうか――
それにニンジン――
飯塚が皮を剥きすぎないよう、堂本が適宜指導を入れ、
「解ってるって! いちいちうるせえんだよ、堂本!」
逆ギレしつつも、何とかニンジンは――少し実を削ぎ過ぎているきらいはあるものの――切断前の状態に仕上がってはいる。
が――
ちょっと、厳しそうな予感が……
「香織さん……間に、合いますかね?」
「間に合わせるんでしょ?」
「そんなんじゃ、間に合わないわよ!」
厨房の入り口から声が届き――
海斗が振り向くと、そこに、原木咲奈が、白衣を靡かせて立っていた……
十二
「さ、咲奈!」
「原木さん!」
香織と鈴野の声が交錯した。
颯爽と――咲奈が、厨房に入って来る。
香織の横に立ち、包丁を握る。
そして――静かに目を閉じた……
『五輪丸』での最後の航海中……
『咲奈、日本に帰って結婚したら、家のことは頼むな』
『本当は結婚しても、一緒にそのままタンカーに乗っていたかったんだけどね、私は』
『まあ、その方が一緒にいられるもんな』
松本の自室で、抱き合って体を寄せあう二人――
『でも、だからこそ――帰った時の、咲奈の料理が愛おしくなるんだよ』
『もう! みっちゃんったら――』
そして、休暇中に、咲奈の部屋を松本が訪れた時の一幕……
『咲奈の料理の腕は、天下一品だな! 咲奈をお嫁さんにできて、俺は鼻が高いよ!』
咲奈のカレーを頬張りながら、たまらない笑顔で笑う満弥――
そんな満弥が、あの夜、目の前でテロリストに頭を撃ち抜かれて……
咲奈が、目を見開いた。
まな板と、包丁の銀色の光が目を射抜く――
「やりますよ? 須藤先輩!」
「咲奈――あんた……」
さっきまで、うつろだった咲奈の瞳に、生気が漲っていて……
そんな咲奈に、鈴野がジャガイモを渡した。
刹那――
凄まじい速さで、ジャガイモが裸になり、芽が切り落とされた。
あっという間に、ジャガイモが五等分される――
「次!」
慌てて鈴野が咲奈にジャガイモを手渡す――
「私も負けてられないね!」
香織の心に火が付いた。
海斗の包丁捌きにも加速が入る。
鈴野は必死にジャガイモを洗っては、この三人に手渡さなければならなかった。
「ちょっとぉ――詩乃! 私たちも負けてられないわよぉ!」
「そうね! 原木さん、あんなに包丁上手だったなんて――」
石井と夏井の玉ねぎ班も、目つきが変わった。
南部と太田は、涙をこぼしながら必死に玉ねぎの皮を剥いては石井と夏井に渡している。
シンクでは、見事に米を研ぎ切った椚田が、巨大な窯に米を入れていた。
「堂本! ちょい水少なめで炊くんだろ?」
ニンジンのヘタを落とし終わり、乱切りを始めていた堂本が、
「は、はい! そうです! やや硬めに、米を炊きます!」
「よおし、任せとけ」
椚田は、窯に水を入れて、分厚い掌で水の分量を量っている。
これは――行けそうだ!
海斗の心に、希望の光が灯った――




