終章 ドゥクム港の、終戦!
一
風間は、艦長室のどっしりとした事務机に向かって座っていた。
手に持った書類に、薄灰色の瞳を走らせている――
令和八年〇月△日
『ぎんが』艦長 風間 ジェミニ 殿
『ぎんが』副長 三等海佐 村澤 怜士
『ぎんが』給養班員の体調不良による数日間の厨房運営について(報告)
表記について、下記のとおり報告します。
記
一 本月◇日、厨房を含む第〇区画の電熱設備の不具合により、厨房の空調が故障、同所は五十度を超える酷暑となった。
二 同月□日、以下の四名の給養員が倒れた。
①給養班長、猪瀬一等海曹 ②給養副班長、天野三等海曹
③給養員、別所三等海曹 ④給養員、粕原一等海士
三 本艦の医官、権藤三等海佐の診断により、上記二の四名は、“熱中症”にり患していることが判明し(別添一、猪瀬一曹他三名のカルテのコピー参照)、同四名に同疾病完治までの間、×日間の有給休暇措置とした。
四 先任伍長飯塚徹三准尉が臨時的に給養班長代理を務め、これを給養員の堂本二等海士が補佐しつつ、さらには以下の隊員たちが臨時給養員として、上記三の期間、『ぎんが』乗員の食事提供に努めた。
なお、この時に、商船越後屋の石油タンカー『五輪丸』生存者の司厨士であった一ノ瀬海斗と、一等航海士の須藤香織から、調理に関する助言を得ることとなった。
①鈴野二等海尉 ②南部一等海曹 ③太田一等海曹 ④石井一等海曹
⑤椚田二等海曹 ⑥夏井二等海曹
五 以下に、同期間中に上記四の隊員たちが提供した献立を記す……(以下略)
報告書を確認する風間の唇が、ふっ……と、笑みの形に歪んだ。
風間は黙って……決裁欄に押印した――
二
ギラギラとした陽射しの中、ドゥクム港を熱い風が吹き渡っていた。
中東派遣隊司令の氷室叡一等海佐は、『てんま』艦長の渡辺三等海佐以下、数名の幹部たちと、迎えに来た『ぎんが』艦長の風間二佐、副長の村澤三佐と共に、接岸した『ぎんが』に向けて、岸壁を歩いていた。
氷室の指揮する『てんま』は、ソマリア海賊対策任務に従事し、風間の指揮する『ぎんが』が、その氷室の麾下として、オマーン湾の情報収集任務に当たっていたのだった。
一週間前――
『ぎんが』は、テロリストから攻撃を受けたタンカー『五輪丸』から、日本人乗組員十一名を救助した。これからその十一名の生存者たちを、日本大使館やオマーン国の代表者たちに引き渡すのである。
『ぎんが』の巨体が、氷室たちの目の前に迫って来ていた。
その『ぎんが』の舷側から伸びるタラップを、数名の日本人が下りて来ている。
「司令――ちょうど今、『五輪丸』の生存者を下艦させているところです」
村澤が説明した。
「おーい、ゆっくり休めよ!」
「日本に帰ったら、メールよろしく、香織ちゃーん!」
『ぎんが』艦上から声がかかる。
舷側には多くの乗組員たちが立ち並び、生存者たちを見送っていた。
その中には、ミサイル管制員の太田の姿もある。
「慣れ慣れしいんだよ! 全く……でも、本当にありがとう!」
大地を踏みしめた大柄な女性――香織が、笑顔で太田に手を振った。
香織は、咲奈の腰を支えながら寄り添うように立っている。
「海斗ぉ! またお前のカレーライス、食べさせてくれよぉ!」
艦上から、北濱が、タラップを降りていた華奢な青年――海斗に呼びかけた。
振り向いた海斗が、
「いつでも呼んでくださいよ! ……って、無理かぁ」
少し残念そうに笑った。
氷室の胸中に、一服の清涼剤が吹き込まれた。
まだ心に傷を負ったままの生存者もいるが、笑顔を取り戻せた者もいる。
一瞬、氷室は、自衛官としての誇りを胸に感じることを己に許した。
が――
氷室は、『ぎんが』艦内で、氷室の胸中を寒からしめる、もうひとつの戦い――『ぎんが』厨房戦記――が行われていたことを、知る由もなかったのであった……
三
「では皆さん! これからオマーン国への入国手続きのために移動します。ついて来て下さい!」
岸壁で、大使館職員の声が香織たちに飛んだ。
『ぎんが』舷側に立った南部と椚田は、咲奈を支える香織が、風間に感謝を告げてから歩み去るのを見下ろしていた。
続いて海斗が、佇立する風間の手を両手で握り締め、深く頭を下げている。
「ほんと、彼らには助けられたよな」
南部が、立ち去る海斗を眼鏡の中の目で追った。
「そうだな……あの金曜日はホント、戦場だったもんなあ」
巨体の椚田が呟いて――
「かっ、おっ、りっ、ちゃーん!」
隣で手すりから身を乗り出し手を振る太田を見詰め、
「まったく……調子いいんだから、こいつは」
溜め息をつく巨漢と太田を、南部が、ふっ……と笑顔で眺めている。
その脇で、鈴野がちょっと寂しそうな視線を、香織たちの背中に送っている。
「でもさ――海斗君のカレー、マジ、美味しかったよね~」
「ね! 私も、これから自分で作るカレーに味噌、入れようかな……」
石井と夏井が、あの日のカレーの味に思いを馳せた。
「元気でな―っ!」
「しっかりやれよー!」
北濱、真中、吉村たちも、『五輪丸』生存者を見送っている。
「いやあ、やっぱり気分いいなあ」
「そうだな、風間艦長の指揮のお陰だな!」
「イケイケイケメン艦長! ってバカにしてたけど、どうしてどうして、英雄だぜ!」
「だから俺は前から言ってたんだ! あの人はやる人だって!」
「何言ってんだよ、お前だって――」
口々に言い合いながら、艦内に戻っていく隊員たち。
しかし、南部、太田、椚田、石井、夏井、鈴野は、まだ、名残惜しそうに舷側で香織たちを目で追いかける……
そして――
もうひとかたまり、ドゥクム港の施設に消えていく『五輪丸』生存者を見送る者たちがいた。
四
「堂本――お前、ほんと、よくやってくれたよ」
熱い風を頬に感じながら、天野が言った。
「いや――もう、俺、必死で、何が何だか」
照れる堂本に、
「いやいや、お前がおったから、ルーとスープストック、それに洗米機は守られたんやで!」
粕原が堂本の背中をバン! と叩いた。
「でも――す、スライサーは守れませんでした」
俯く堂本に、
「しょうがないさ……飯塚先任が、まさかあんな家事音痴だって――」
別所の言葉に、
「家事音痴どころやないで! “破壊神”やで、あれは!」
粕原がツッコミを入れ、下の岸壁で艦長たちと談笑する飯塚を見詰めた。
「でも――お陰と言うかなんというか……」
しんみりとした天野の声が、舷側に落ちた。
「大評判だったよな――『五輪丸』カレー」
「そうですよね……味噌加えただけで、あんなコクが出るんですね」
同意する別所の舌に、昨日、ようやく急性胃腸炎――いや、“熱中症”による嘔吐下痢が落ち着き、食べることがかなった『五輪丸』カレーの味が蘇った。
「これからは『ぎんが』カレーにも、味噌、入れましょ! ね、はんちょ?」
舷側にもたれかかり、すでに『五輪丸』クルーが見えなくなったドゥクム港をじっと眺めている猪瀬の背に、粕原が声をかけた。
「ダメだったか……」
猪瀬がぼそりと呟いた。
「へ?」
「ダメ?」
「な、何がダメなんです? はんちょ?」
「『五輪丸』カレー、ダメ、ですか?」
天野、別所、粕原、堂本が問いかける。
と、猪瀬は、舷側から身体を持ち上げると、
「あー! ちっきしょ! 『君の名は』の口噛み酒、上手くいくと思ったんだがなあ!」
悔しそうに言った。
一瞬――
別所、粕原、堂本の身体が硬直し――
「え……ええええええ―――――――っ?」
堂本がドン引きし、
「は、は、はんちょ? は、はんちょの口噛み酒やったんでっか? あ、あの毒酒?」
粕原が仰け反り、
「じょ、じょ、じょ、ジョーダンじゃないですよぉぉぉぉぉぉぉっ!」
別所の悲鳴が上がる――
振り返った猪瀬は、細い目の奥から彼らを睨みつけ、
「バカヤロォ! 俺の唾だけじゃねえ! 天野の唾も入れたんだよ!」
「え? つ、唾、入れたって――」
別所の顔が、一瞬で真っ青になり、
「う、うろろろろろろろっ!」
えずいた。
「は、は、はんちょと、天野さんの、つ、唾ぁ?」
粕原の涙目が見た天野は、申し訳なさそうな表情で掌を顔の高さに持ち上げ、“ごめんなさい”していて――
「お、お、お、終わった、お、俺の人生、終わった……」
別所ががっくりと、甲板に両手をついてうずくまる。
「なんだおめえら、俺の唾が汚いとでも――」
叫ぶ猪瀬――
「……最悪だな」
「そりゃ、“猛毒”だって……」
「――聞かなかったことにしよう」
椚田、太田、南部が呟き、
「ほんと、男って、何でああもバカなのかしら?」
「どうしようもないわね――ね、弘美?」
「は、は、はい……」
石井、夏井、鈴野が、唖然として給養班員たちを眺めていた――




