第二章 厨房(ギャレー)戦記 その一
一
紫煙が医務室で揺らめいていた。
権藤医師は、椅子に腰かけ、三本目の煙草を口にくわえて茫洋と中空を眺めていた。
目の前に、両手を後ろに回した飯塚が、申し訳なさそうな表情で佇立している。
権藤の後には、煙草の煙に顔をしかめる石井と、そわそわと所在なげな谷川が立っていて――
「何とか――なりませんか、先生」
飯塚が、何度目かの“問い”を、権藤に投げていた。
今の自衛隊の護衛艦では、“禁煙”は徹底されている。
されているが――
ここ、『ぎんが』の権藤医師の医務室だけは、例外だった。
ヘビースモーカーの権藤に配慮し? ここだけは、“喫煙可”となっている。
チリチリチリチリ……
権藤は、短くなった三本目の煙草の煙を大きく吸い込んで、先端を発火させると、おもむろに煙草を口から引き抜き、吸い殻まみれの灰皿に、ぐさっ――と、突き刺した。
「熱中症」
煙と共に、権藤が“診断名”を医務室に吐き出した。
「へ?」
谷川が、キョトンとした表情で権藤を見詰めた。
「厨房の空調が故障し……全員、熱中症による嘔吐下痢の症状でしたな、あれは」
権藤が、石井を見上げ、
「なあ、石井二曹」
石井の頬がひくひくと痙攣し、
「そ、そ、そ、そーですね! 権藤先生! あれは、熱中症ですね!」
「え? いや……だって、あれ――典型的な急性胃腸炎――」
「熱中症ですねえええええええ! そうです! 熱中症ですぅぅぅぅぅぅ!」
飯塚が、谷川をもの凄い目つきで睨みつけて叫んだ。
権藤が、さらさらとカルテにペンを走らせる。
その権藤の目の前に、飯塚が、さっ――と煙草のカートンを差し出した。
無言で受け取る権藤――
驚いた谷川が石井を見ると、石井は目をすがめて首を振り……
こうして、飯塚の“隠ぺい作戦”が開始されたのであった――
二
「なんだよ、これ――」
「えー? 給養員、熱中症だってぇ?」
「あー、これじゃあ力出ねぇよぉ……」
科員食堂に、不満げな隊員たちの声が響いた。
「ほんと、スミマセン! 朝食はこれで我慢してください」
厨房の前に立った堂本が、隊員たちに頭を下げている。
この日の朝食は、パンとゆで卵、ジャム、バター、ソーセージ、魚の缶詰などの出来合いの寄せ集めだった。
「おい、堂本――今日は金曜日だぞ? 昼食のカレーは、大丈夫なんだろうな?」
トレイを持った北濱が、堂本に疑問を呈している。
「はい、そ、それは、絶対に、何とかしますので!」
「頼むぞ! マジ、『ぎんが』カレーは一週間に一度の楽しみなんだからよ!」
背の低い北濱の鋭い眼光の向こうに、丸っこい身体の村澤副長と、痩せて背の高いTAO(戦術行動士官)の桧垣一尉が入室してくるのを認めた堂本は、心臓が止まりそうになった。
「ぎ、ぎゃ、ギャレー! 異常ありまっ、せん!」
北濱の頭越しに、堂本の裏返った声の報告が村澤たちに飛んだ。
村澤が、細い目でじっと堂本を見据えながら近づいて来る。
「何言ってるんだ、堂本二士。異常事態だろう、厨房は」
村澤の静かな声が、堂本の胸を突き刺す。
「は、は、はいぃぃぃ! すいません! きゅ、給養班は、私を除いて、きゅっ、休養中でありまして」
直立不動で報告する堂本に、桧垣が、ふっと微笑んで、
「そう固くなるな、堂本――まあ、空調が故障していたんじゃしょうがないさ。お前だけでもどうにか無事だったのは、不幸中の幸いだよ」
「あ、あ、あ、ありがたき、幸せ!」
科員食堂に響き渡る妙な返答に、村澤の顔も緩んだ。
「まあ、飯塚さんが今日は臨時に給養員としてやってくれるというから安心だ。が、やはり、厨房のことは君たち現役の給養員の方がよく判っているからな。飯塚さんをサポートして、金曜日の『ぎんが』カレー、しっかりと提供してくれよ」
「はっ――はいぃぃぃいいぃ!」
ガチガチに固まる堂本の右肩を、村澤は軽く叩くと、桧垣を引き連れ科員食堂を出て行った。
これを見届けた堂本が、緊張を解き、はあ――っ……と、大きく溜息を吐いたのだった……
三
「あ? 飯塚さんが、厨房を仕切る?」
ベッドで横になっている猪瀬が、吊り上がった眼を堂本に向けた。
ここは、給養員たちの居住区――
二段ベッドが、狭い空間の片側の壁に三つ、並んでいた。
ここに、猪瀬、天野、別所、粕原が、それぞれの自分のベッドに横になっている。
一番奥の、窓に近いベッドが、給養班長猪瀬の”テリトリー”だった。
上のベッドに猪瀬は横になっていて、下は、ノートパソコンやDVD、腹筋ローラーなどの猪瀬の私物置き場と化している。
その猪瀬のベッドの前に、堂本は立っていた。
朝の配食を、パンと出来合いの物でどうにか乗り切った事、どうしても“金曜日カレー”作りは成功させなければならない雰囲気である事、先任伍長の飯塚自ら、
「俺が何としても、このミッションを成功させる!」
と意気込んでいる事を、猪瀬に伝えに来たのであった。
「は、はい! 飯塚先任が、厨房を仕切り、南部さん、太田さん、椚田さんたち、第一居住区の方々が、手伝ってくれるって――」
「駄目だ!」
猪瀬の怒声に、堂本がびくっ――と、身を竦ませた。
この声に反応してか――
「うえっ――うろろろろろ~っ!」
別所がベッドの上で、ビニール袋に“何か”を吐き出した……
「え? な、な、な、何が、駄目なんですか?」
ベッドに半身を起こした猪瀬に、堂本が訊く。
「飯塚さんに、厨房を任せちゃ駄目なんだよ!」
猪瀬の剣幕に押されつつ、堂本が、
「え? で、で、でも、飯塚さんは昔、給養員もやってたから任せろって――」
「飯塚さんは、三日で給養員を“クビ”になった伝説の男だぞ?」
「へ? み、三日でクビ?」
驚愕の猪瀬の告白に、堂本が目を見開いた。
二十年以上前……猪瀬が『ぎんが』給養員になったばかりの頃――
出港直前の『ぎんが』から、あろうことか給養員二名が、“夜逃げ”した。
当時の給養員は、班長と、その先輩二名と、猪瀬の四名だった。
これを重く見た補給科の幹部が、艦長たちに給養員の臨時補充を申し出た。
この時、名乗りを上げた一人が、まだ若かった飯塚だった。
飯塚は、花形の武器科で実績もあり、非常に高く評価されていたため、幹部たちは何の疑いもなく、いや、期待さえして給養員の代役として送り込んだのだ。
が、しかし――
「あ、あの人はなあ……一日目に米を炭にしちまって、二日目にスライサーを完璧に“破壊”しちまったんだよ! で、その時の給養班長が三日目に飯塚さんを“クビ”にしたんだ!」
猪瀬の脳裏に、激怒する給養班長に雷を落とされ、口をとがらせ押し黙る、若き日の飯塚の顔が蘇る……
「え――ええええええええ―――――――っ!」
堂本の声に、天野がベッドの上でもぞりと動き、
「あ、あー、それ、お、俺も聞いたことあります……あの人、家事はからっきしだって……い、い、いっててててて!」
天野は叫ぶと、ベッドを飛び降り、
「や、やべっ! ま、また出そう――」
居住区の外に飛び出していった。
それを見届けた猪瀬が、むっくりとベッドに起き上がり、
「お、俺がち、厨房に戻って、し、指揮をっ――ぐっ! ぐげええええええっ!」
間一髪――堂本が、足元のごみ箱で猪瀬の吐瀉物を受け止めた。
「ち、畜生! あ、天野の野郎の酒の、せ、せいでっ!」
「は、はんちょ……人のせいにしたら、あ、あきまへん――げ、げぼあっ!」
猪瀬の言葉に、粕原がツッコミを入れながらゲロを吐いた。
「と、とにかく、堂本!」
「は、はいぃっ!」
口の端から茶色の液体を滴らせながら猪瀬が堂本を睨んだ。
「ま、まずは、スープストックと、特性ルーをっ……こ、このふたつだけは、な、何としても、飯塚さんから守り抜け! い、い、行けぇ!」
「しょ、承知しましたぁ!」
背後の給養員の嘔吐下痢の音に急き立てられつつ、堂本は脱兎のごとく居住区を飛び出していた。
四
「あんの、ダボハゼどもがぁぁあぁぁああぁああぁぁぁっ!」
厨房裏の冷蔵庫の冷えた空気を、飯塚の銅鑼声が震わせた。
床に、巨大なステンレス製の食缶が並んでいる。
白衣を身に着けた飯塚が、その蓋を開けていて――
「こんなところにも密造酒を仕込んでやがった、猪瀬の野郎――」
皺だらけの顔が怒りに歪む。
給養員の白衣を着こんだ太田と南部も、一緒に食缶を覗き込んだ。
その中に、巨大なポリ袋に入った茶色の何かが入れられて――
「え? これ……さ、酒なんですか?」
南部が訊くや否や、飯塚が、
「ええい! 南部、太田! こいつを運んで、海にぶん投げてこい!」
「え? ええええっ? う、海に、ですか?」
太田の驚愕に、飯塚はなおも、
「そうだ! 海だ! この密造酒で、給養班は全滅したんだ! すぐに海に捨ててこい!」
「は、はいぃ!」
南部と太田が返事をして、二人で巨大な食缶の取っ手を持った。
中には、茶色の得体のしれない物体が押し込められている……
「な、何往復かしないと、駄目だな」
「仕方ない――行くか!」
南部と太田が声を掛け合って、冷えた冷蔵庫から外に出ると、そこには、これまた白衣を着た巨漢、椚田が立っていた。
「おい、どこ行くんだ?」
「いや、これ、飯塚さんが、密造酒だから海に捨てて来いって――」
椚田が、ひょい、と、食缶を覗き込む。
「え? これ、酒なの?」
「これが猪瀬達給養班壊滅の元凶らしいよ!」
「そうらしいよ……まあ、とにかく、捨てて来いってんだから――」
太田と南部の言葉に、首を傾げた椚田が、
「これ、カレーのルーなんじゃ……」
そこに、堂本が息を切らせて走り込んできた。
食缶を持つ南部と太田を見た堂本が、
「な、な、何をしてるんですか?」
訊いた。
「いや、密造酒がまだあるから捨てて来いって、飯塚さんが――」
「そ、そ、それ! か、カレーのルーです!」
太田の言葉を、堂本が遮った。
「え? そ、そーなの?」
眼鏡の中の視線を食缶の中に向ける南部の横で、椚田が「やっぱり」という顔で頷いている。
「じゃあ、戻すか」
南部と太田が戻ろうとすると、冷蔵庫から出て来た飯塚が、
「あ? 何グズグズしてんだお前ら……早くその忌々しいものを海に捨ててこい!」
「い、いえ、先任、こ、これ、カレーのルーだそうです」
太田の言葉に、飯塚が、
「んなわけあるか! こんな得体の知れないもの、密造酒に決まってる!」
「いえ、先任! こ、こ、これ、ルーなんです! ほんとです!」
堂本が必死に説明する。
椚田が、食缶に顔を突っ込み、ポリ袋を開いて臭いをかいだ。
「先任――これ、間違いないですよ。『ぎんが』カレーの、特性ルーです」
飯塚は、渋い顔で椚田を見詰めると、突然破顔し、
「はっはははは! まあ、そうじゃないかと俺も思ってたんだ! おう! 南部、太田! すぐに元ある場所に戻せ! 今日の調理のメインだからな! そーっとおけよ、そーっと!」
南部と太田は顔を見合わせると、肩を竦めつつ、ゆっくりと食缶を元の場所に戻したのだった――




