第一章 ドゥクム港の酒盛り その二
六
「なんだあいつ、遅えなあ……」
猪瀬の細い目が、堂本の消えた空間を睨みつける。
別所が、
「もう乾杯しちゃいましょうよ、班長!」
「そうでっせ。待ってられまへんわ」
粕原も飲みたくてうずうずしている。
「そうだな……堂本の野郎、帰ってきたら駆け付け三杯だ!」
吐き捨ててから、猪瀬は突然、神妙な顔になり――
「館野一尉の勇気に……」
目を閉じ、コップを目の高さに持ち上げた。
一瞬――
場は、何とも言えない静寂に包まれ……
「ええ人やったなあ……」
粕原の言葉が、米麦倉庫の静寂にぽつりと落ちた。
『いつも美味え飯をありがとさん! あんたら給養班のお陰で、俺たちゃ全力で任務に当たれるんだ! これからも頼むぜ!』
天野の脳裏に、館野の粋な姿が思い浮かんで来て……
「ぐすっ……」
思わず、天野は鼻をすすった。
「ほんと――生きてりゃ、いの一番にこの酒を……」
別所が、コップの中の地酒『ぎんが』を注視しながら呟く。
と――真っ赤な目を見開いた猪瀬が、意を決したように、
「我らが英雄、館野一尉に――乾杯!」
「乾杯!」
給養班員の唱和が、米麦倉庫を震わせた。
そして――
皆、一斉に、ぐびぐびと喉を鳴らして“謎の液体”を胃に流し込む――
「――――――! ぷはぁ!」
「うわっ……うめっ!」
「ぐへぁっ! よし! 大成功だぁ!」
別所、粕原、猪瀬が、口々に歓喜の声を上げる中――
天野だけは、呑まずにじっ……と、コップの中の謎の液体を見詰めていた。
これ、俺と猪瀬さんの――唾の成れの果て、なんだよなあ――
そう思うと、どうにもこいつを呑む気にはなれない……
七
「……くぅ~! なんかピリピリする! 痺れるわ~! はんちょ! もう一杯!」
粕原が、勢いよく猪瀬にコップを差し出した。
猪瀬が柄杓をバケツに突っ込み、
「ぐへへへへぁ! おうよ! 呑め、呑めェ! 何てったって俺たちゃ“英雄”だからなぁ!」
地酒『ぎんが』を粕原のコップに注ぎ込む。
「いや……あの、はんちょ、俺たち何もしてない――」
「いや、これ、たまんねえや――俺も!」
粕原のツッコミの途中で別所が割り込み、猪瀬にお代わりを所望し――
そんな猪瀬のコップに、今度は粕原が『ぎんが』を注いでいる――
天野は、ただボーっと、そんな光景を眺めていて……
と、猪瀬が、細い眼の中の瞳で、天野をギロッ――と捕捉した。
「ああ? なんだ、天野……呑んでねえのか?」
籠るような声で天野を追求する……
「あ、いや――その……」
「なんだ天野! 俺の酒が、呑めねえってのか?」
迫る猪瀬の、目はすでに座り始めていて――
「天野さん……吞みましょうよ!」
「そやでぇ――館野一尉に失礼でっせ!」
頬が赤らんできた別所と粕原が、口々に天野を急かした。
どっちが館野一尉に失礼なんだよ――
心の中で天野は粕原にツッコミを入れるが……
「おい、天野――てめえ――殺されてえのか?」
アルコールだけではない――何とも言えない臭いを口から吐き出しながら、猪瀬がドスの効いた声音で天野を睨み据えた。
「あ、いや、その……」
「早く呑めったら呑め! ってんだ、おらぁ!」
ドン! と、コップを床に叩きつけ、
バチャッ! ……と、中の液体が猪瀬の手にかかった。
やばっ!
こうなったら、猪瀬を止められないことは、天野が一番よく判っていて――
「は、は、はいいいいい! の、呑みます、呑みます!」
ええい、ままよ! 天野は目を閉じ――
ぶべっ! べべっ!
猪瀬の唾吐き……
『系脱! テーッ!』
自分の唾入れ――が、天野の脳裏に、一瞬、浮かび――
ぐびっ……ぐびっ……ぐびっ……
「……ぷ! はぁ~っ!」
「ぉ……ぉおおおおぉぉぉおおお! いい呑みっぷりじゃねえか、天野ぉ!」
猪瀬が大喜びで言った。
「そ、その意気れぅよ、あみゃのしゃん……」
ろれつの怪しい別所の声。
「もういっぱい、いきましょっ!」
粕原の声も裏返っていて――
「うおおおおお! 何時でも来いやぁああぁぁぁぁああぁぁっ!」
天野は米麦倉庫の天井に向かって雄たけびを上げていた……
そして誰も――
戻ってこない堂本のことは、完全に忘れていたのだった――
八
居住区のベッドで――
堂本は、まんじりともしなかった。
暗い天井をじっと見上げている……
あれから一時間くらい時が経っただろうか?
給養班員専用の居住区には、まだ、誰も……戻って来てはいない――
堂本は、本当に“アルコールアレルギー”であった。
酒を飲むと、喘息のように気管支が細くなり、身体が痒くなる。
そのうち、全身が冷えて来て具合が悪くなるのだ……
だから――
流石に、酒を吞むわけにはいかなかった。
そこで、コップを取りに行けという猪瀬の命令にかこつけて、あの場を遁走したのだ。
上手くいった、ようなのだが……
そもそも、あの酒は密造酒だ。
猪瀬と天野がどうやって造ったのだかは、堂本には知る由もないが――
何か、ヤバい臭いがした。
アルコール臭も、確かにあった。あったが、大勢を占めていたのは……
腐敗臭。
班長達、大丈夫かなあ――
機関の停止した『ぎんが』艦内は、静かだ。
空調の唸りだけが、耳に届いて来る――
堂本は、ベッドから起き出した。
そして――居住区を出て、ゆっくりと、米麦倉庫に歩き始めたのだった……
「うっ……うろろろろろろ~っ!」
「い、い、い、いってぇ――ひっ! ふっ……ふがあああああっ!」
「れろれろれろれろ――――――っ」
堂本は――慄然とした。
米麦倉庫は……地獄だった。
粕原は、空になった米袋に顔を突っ込み、際限なく何かを吐き出し続けていた。
別所は、床の上で身体を「く」の字に折り、のたうち回り……
時折、別所の臀部から、何かがひり出てくるような音が響き渡る。
猪瀬は突っ伏し、ぴくぴくと身体を震わせている。
床にぶちまけられた得体の知れない液体に顔を突っ込んでいて――
その三人の中央に、鈍く輝く銀色のバケツ……
まるで不気味な”祭壇”のようだ――
そして、天野の姿は米麦倉庫にはなく……
ツン――と、胃酸の強烈な臭いが堂本の鼻を突く。
堂本はどうすればよいのか判らず――
阿鼻叫喚の米麦倉庫から後退り、厨房の外に出た。
そういえば――天野さんは?
給養係ナンバーツーの、天野さんはどこへ?
天野さんなら、何か解決策を見つけてくれるかもしれない……
厨房周辺を探し回り、科員食堂に至ると、そこには簡易ベッドに『五輪丸』生存者たちが静かな寝息を立てていて――
天野の姿を探し回って、厨房近くのトイレの前を通った、その時――
「ぐ、ぐえええええええっ!」
誰かの何かを吐き出す声が、堂本の耳に突き刺さった――
九
「こ、こ、こ、この――ダボハゼどもがぁ!」
飯塚の――それでも少し抑え気味の銅鑼声が、米麦倉庫を震わせた。
飯塚は、空間を満たす激烈な酸っぱい臭いと腐敗臭に顔をしかめる。
少し広いスペースのど真ん中に、ひしゃくの突っ込まれた銀色のバケツが輝いていて――
その中に、茶色の濁った液体が……
その周辺――
三人の給養班員が、それぞれの姿で苦悶を表現していた。
粕原は際限なく空の米袋に胃の中身をぶちまけ続けている。
別所は床をのたうち回り、どうも臀部が茶色に染まっていて――
口からも、涎とともに夕食のシチューの具を床に垂れ流している。
猪瀬は、さっきと違って床に端然と正座していたが、口からは茶色の液体がこぼれ落ち、時折身体を震わせてはえずいて手にした米袋に何かを吐き捨てている――
「すいません、先任――げばっ!」
猪瀬が神妙な表情で飯塚に謝罪し、また、何かを米袋に吐き出した。
数分前――
堂本は、トイレの中で嘔吐下痢の波状攻撃を受け続ける天野を“発見”した。
閉ざされた個室の扉ごしに、天野が言った。
「飯塚さんをっ……うぇっぷ! 飯塚先任伍長を、米麦倉庫に――げおろろろっ!」
こうして堂本は、この護衛艦『ぎんが』の、現場乗員のトップとして、幹部からも部下からも絶大な信頼と尊敬を寄せられている“先任伍長”の個室に急行して飯塚を起こし――
現地に赴いた飯塚は、この“給養班壊滅”の事実を知ったのである――
飯塚が、忌々し気にバケツの中の液体――地酒『ぎんが』を覗き込んだ。
「お前らは――高校生か?」
飯塚の頬が、ぴくぴく痙攣する。
床に端然と正座した猪瀬が、
「ほんと、申し訳ありません」
深々と頭を下げ――
「うっ!」
唸ると、猪瀬のお尻から、ぎゅるるるるっ! と、聞きたくもない音が聞こえた。
「いいかお前ら――ここを動くんじゃねえぞ! いいな! 待ってろよ!」
飯塚は言うが早いか、
「堂本、来い!」
嘔吐下痢の大合唱を後に、米麦倉庫から駆け出して行った――
十
米麦倉庫の黄色い照明の下――
腕組みした飯塚は、イライラと右のつま先を上げたり下げたりしていた。
隣には、白衣を着た白髪の船医、権藤三等海佐が、ポケットから煙草の箱を取り出して見詰め……溜息を吐いて、そっとポッケに戻した。
その周りで、衛生員の石井明日華二曹と、谷川三曹が、協力して担架に猪瀬を乗っけている。
「全く――これだから、男って、バカなんだから!」
女性衛生員の石井が吐き捨てながら、今度は粕原の脚を抱える。
「ぐっ……ぐえぇぇぇぇえぇっ!」
粕原が身をよじらせ、
「ほら! 谷川! ちゃんと持つ!」
「は、はい!」
粕原の上半身を抱えた男性衛生員の谷川を、石井が叱咤する。
その周辺では、南部、太田、椚田たち、第一居住区の面々が、モップを水に濡らして床を清掃している。
「よくこんなもの、呑んだなぁ……」
ミサイル管制員の太田が、マスクの下でくぐもった声を上げた。
「まったくだよ……マスク越しにも、酷い臭いだ」
射撃管制員、南部が、眼鏡の奥の目をすがめて同意する。
「臭いで判らなかったのか? ヤバいって」
タオルで口を覆い隠した立入検査隊の巨漢、椚田が呆れたように呟いた。
「いや、本当に、スミマセン……」
堂本が、エンボス手袋をはめた手で、床にまき散らされたシチューの具をビニール袋に集めながら謝った。
「お前のせいじゃないよ、堂本」
南部が慰めた。
「堂本、てめえ、自分だけ逃げやがって――うっ! うげろろろろろっ!」
担架の上で身を捩った猪瀬が、手にした袋に胃の内容物を吐瀉した。
「黙ってろ! この下痢グソ野郎が!」
飯塚に凄まれ、
「ず、ずみまぜ……いっ! いててっ!」
猪瀬が謝っている。
白衣のポッケに両手を突っ込んでいた権藤が、床に置かれたバケツの中で黄色い照明を跳ね返している地酒『ぎんが』を見詰め、大きく溜息を吐いた。
「どうするね? 飯塚先任――これが明るみに出たら――」
「間違いなく、不祥事――ですね!」
別所を三っつめの担架に乗っけた石井の高い声が、米麦倉庫に響いた。
「ただでさえ、『五輪丸』事件で大あらわだってのに……どうします? 先任――」
南部が飯塚に問いかける。
飯塚は、忌々し気に猪瀬達をねめつけると、
「とりあえず、こいつらを給養班員の居住区に運び込むぞ! 後のことは、俺が何とかする!」
一通り、清掃を終えた彼らは――
担架に乗せた猪瀬を石井と谷川が、別所を南部と太田が、粕原を椚田と堂本が運ぶ。
何とか自力歩行可能だった天野は、先に給養班の居住区に戻っていた。
飯塚が先頭に立ち、米麦倉庫を出る。
そして、暗い艦内の廊下を、人がいないかどうか確認しながら先導……
彼らは無事――なんとか、給養班の居住区にたどり着いていた――




