012:Skip Away
イースタベリの郊外には王国でも最大の競馬場が存在する。スティムボゥの森、と言われる普段は静かな森の中に、年5ヶ月騒ぎが起こるのである。それが全周2000メートルの芝トラックを誇る「スティムボゥ競馬場」であった。
「今年もサマーグランプリの季節が来たねぇ」
どういう訳か、空軍には競馬好きが多い。それは空軍に入る前からそうだったのだ。士官学校の中でも競馬の話はよくされていた。その話の中心にいたのがミーティアであり、ブルースは半ば強引にそのサークルの中に引き入れられた。
それでハマった。
それまでは競馬なんて貴族趣味だとして、まるで無縁に生きるものだと思い込んでいた。しかしどうだろう。「人類の作った最高の芸術品」とも言われるサラブレッドの珠のような美しさにすっかりブルースは見惚れてしまった。それが走るとなるとなおさらだ。それはどこか幼少期に見た、あの、戦闘機の機動に魅せられたものと似通ったものがあった。
もしかしたら、出会うのが前後していたら自分はジョッキーを目指していたかもしれない、というほどにブルースは本気になってしまった。
かれは特に黒い毛並みをした(青鹿毛、という)競走馬が好きだった。それはミーティアに連れられて見に行った競馬が理由だった。それは東の「スティムボゥ競馬場」に対する西の聖地、「エイントン競馬場」で行われた世界最古のステークスレース、「ダービー」だった。その時勝った競走馬が「ダイナマイトウォリアー」と言い、その雄々しき姿にすっかり感嘆してしまったのだった。
それ以来、ブルースはミーティアが引くほどに競馬マニアになってしまったのである。しかしマニア度合で言えば彼女も負けていない。ふたりは週末になると競馬専門紙を持ちながらテレビの前で観戦していたのだった。
そして7月末。「スティムボゥ競馬場」では大レースが行われる。それが上半期の総決算、「スティムボゥ・サマー・グランプリ」なのだった。そしてブルースは競馬に目覚めてから毎年、ミーティアと一緒に生観戦に行っているのである。
「でも競馬観戦で休暇申請が通るとはなぁ」
「戦闘機パイロット最大の癒しがお馬さんって上層部も分かってんのよ」
しかし正式に空軍に入ってからの観戦は初めてだった。はたして休暇を取れるのかと危ぶんでいたし、取れなかったら仕方ないのでテレビ観戦でもいいや、と半ば諦めていたのだったが、そこには上の慈悲があったのである。
そういう訳で、ふたりは堂々と競馬場に繰り出したのである。
「このソフトクリームが最大の楽しみだね」
競馬場の正門までには両側を欅で覆われた赤煉瓦の道――「プリンス・ジョン・ロード」がある。それなりに由緒正しき道路ではある。しかしサマーグランプリの開催となるとどこから湧いてくるのか分からない屋台が並び、色々なものを売っていくのだった。食べ物はもちろん、非公式の競馬グッズ(オフィシャルのものは競馬場内で売っている)、なぜかサッカーユニフォームのレプリカを売る屋台もある。
その中でミーティアが気に入っていたのがそのソフトクリーム屋だった。ずっと通っているからおじさんにも顔を覚えられていた。ブルースもである。
「ミーティー嬢ちゃんもブルース少年もついに戦闘機パイロットになっちまったんだねぇ」
向こうは名前をおぼえているのに、こちらは名前を覚えていないのがなんとも失礼だと思う。ただ、それはこちらの物覚えが悪い訳ではなく、よくは分からないがおじさんの矜持によるものだった。彼は屋台の主人であるならば、名も無きソフトクリーム売りであることにこだわりをもっていたらしい。何故彼がそんな考えに至ったのかは、今になっても謎である。そして彼がそういう態度であるからには強いて問う必要もない。
「で、もう空賊の1機くらいは墜としたのかい?」
「そりゃもう、バッチバチですわ」
「あんまり嬉し気に言うことでもないですけれどね……」
ブルースは控えめだった。
そうして苺味のソフトクリームを舐め終わってから競馬場に入場するのが彼らの流儀なのだった。毎年のルーチンというのは中々侮れないものがある。ソフトクリームがあって、傍にミーティアがいて、ブルースは初めて「グランプリを見るぞ!」という気分が高揚してくるのだった。
サラブレッドという品種はアルスター王国が原産らしい。王国の原種に現ヴァルハラ・民主ユニオン内ニース王国の種を輸入し、かけ合わせたのが由来だとか。当時はアルスター王国もかなりの権勢を誇っていたし、よりよい軍馬の生産は国家レベルの産業であったのだ。
それは議会制民主主義の成立よりも前の話だというのだからブルースにとっては気の遠くなるような話で、それゆえロマンを感じるものでもある。軍馬というものはすでに必要なくなっているが、サラブレッドは世界中に拡散し、いまではそこかしこで競馬が行われている。競馬というスポーツの駒でしかなくなった馬は果たして幸せなのだろうか。いや、軍馬としてこき使われるよりかはマシなのか? いずれにせよ、馬は経済動物であり、アルスター王国にとってサラブレッドの輸出は馬鹿にならない産業になっている。
「またしょうもないこと考えてたんでしょ」
ぼーっとそう考えていると、ミーティアが後ろから小突いて来た。彼女は笑っている。
「そういうボンヤリさんなブルースくんは別に嫌いじゃないけど、こういう時は集中しなさい」
「集中、って……ノンビリ楽しく見ればいいじゃないか」
「分かってないなぁ、ブルースくんは」
ちっちっち、とミーティアは指を振った。
「楽しい趣味であればこそ、そこには真剣さがないといかんのだ。分かるでしょ? テキトーに向き合うより、何事も一生懸命が大事」
「それが競馬であっても?」
「競馬だからこそさ」
「よく分からないなぁ。なんだかんだ言って走るのは馬と騎手じゃないか」
「だ・か・ら・こ・そ! 応援するしかないから、真剣に応援するんじゃないか! このロマンがきみには分からないか?」
そう言われてみるとそういうような気がする。簡単にミーティアに丸め込められるブルースなのだった。
「で、今年はなにを応援する?」
「応援する」とは、馬券を買うことである。ちなみにアルスター王国の競馬は国営であり、もし彼らが馬券を外したとしても巡り巡って税金としてイースタベリ航空基地に投入される可能性もある。
「そりゃ決まってる。今年のダービー馬、シャーガ―だ!」
「3歳馬が勝った例は非常にすくないよ。やっぱりここは去年のチャンピオンステークス勝者のシーザスターズのほうが……」
などと気軽に言い合う。しかし最後の最後、実際に自分がどの馬を買うかはふたりとも秘密にする。そしてレース後にそれを開陳するのである。これも彼らの流儀だった。
それにしても今年は大盛況だった。毎年この時期は雨が多いので、グランプリはレースの格に対してあまり客の入らないレースとしても有名だった。しかし今年はここ数日快晴なので多く客が集まっている。それはブルースたちにとってはあまりいい話ではなかった。見やすい席を取れないからだ。すこしでもいい場所を確保しようとして、彼らはスタンドの中段辺りを確保した。
「そう言えば、ディアーネ王女もまだイースタベリに滞在してて、ここでグランプリを見るんだってね」
ミーティアはそう言った。そう言えばそうなのか、とブルースは思い――この前間近に見た王女の美貌を思い出した。そして今でも掌中に残っているような、彼女の小さい手の温もり――
「……あーあ、こんな話するんじゃなかった」
どういう訳か、ミーティアは急に臍を曲げた。ここまであからさまに不機嫌な彼女も珍しい。ブルース調べでは、彼女は日中の99パーセントをご機嫌に暮らしているはずだった。
「どういう意味だよ」
「だって、ブルースくん。今殿下のこと思い出してたでしょ? そりゃ男の子はしゃーないな、っては思うよ。あんだけ美人なんだから、でもね……」
「別に王女殿下が美人だからって、なにがあるって訳でもないと思うけど」
ブルースはそう言った。そして彼女の反論に身構えた。しかしミーティアは反論してこず、俯くだけだった。ただ、その中でこっそりと彼女が呟いている声は聴こえた。
「……乙女心の分からん奴め」
そうこうしている内にレースの時間が迫っていた。レースそのものよりも、この、待っている時間が一番愉しいのは何故なんだろうとブルースは思っていた。
空軍に入ってどうなるかと思ったが、さして変わらない日常が続いているように感じられた。実戦も経験したけれど、そこまでは怖くなかった。うん。これならやっていける。その自信を、この競馬観戦休暇で深めるのもおかしな話だが――
――その、はずだったのだ。
まさにレースが始まろうという時、もう競走馬はゲートに入っていた。その時にブルースとミーティアが緊急の時に呼び出される携帯無線が鳴り響いたのである。
「イースタベリ航空基地隊員は総員、至急帰還せよ! 正体不明、大群の敵機がこちらに襲来中! 繰り返す、基地隊員は総員――」
時に、2008年7月23日。




