英雄の死6
「野球がしたいんだ」
ある日、親父がポツリと言った。
最近の親父は大人しい。
お袋に見守られて大学受験の勉強をしている。
よくよく聞くと同じところを繰り返し繰り返しやっているが、本人にその自覚はないみたいだ。
「にーちゃん鍛えてるだろ。打撃投手やってくれないか」
「生憎だな。俺はもうボールが投げられないんだ」
苦笑交じりに言う。
ボールの投げすぎ。
その結果、春武の腕は変形した。
今では九十度以上曲げることも困難だ。
「故障したのか?」
「いや、戦いきったんだよ」
親父はしばし考え込む。
「そうか。けど、体だけは鍛えておかないとな」
そう言って、スクワットを始める。
お袋に耳打ちする。
「トレーニング機器を撤去したほうが良い」
「けど、あれはあの人の人生の象徴だわ」
お袋は不安げに言う。
「なくして、認知症が進行しないかしら」
「考えても見ろ。怪我して認知症が進む方が怖いだろう」
お袋はしばらく迷っているようだった。
彼らと家族をしてこなかった春武にはわからない。
そこには、特別な時間があるのだろう。
しかし、お袋はそのうちふっと微笑んだ。
「そうね」
落下音が響き渡った。
二人して、慌ててその音のした方へと駆ける。
親父だった。
ランニングマシーンから転倒したようだった。
「痛い……痛い……」
そう言って足を抑えて転がる親父。
「ヒールしなきゃ」
そう言ってポケットに手をやる。
「あれ、神秘のネックレスがない」
怒鳴り出したいような気分になる。
それはお前が春歌に譲っただろうと。
そんな事も覚えてないのかと。
お袋が、そんな春武の肩を叩いた。
「岳志君。最期まで自然に行こう」
「自然に……?」
「魔法の力をクーポンの世界の外に持ち出すのは卑怯だって、君は常々言ってたじゃない」
親父はしばし考えた後、頷いた。
「うん」
診断結果は大腿骨骨折。
ここから親父の認知症は加速度的に進行した。
もう、物も言わぬ何も感じない生をつなぐだけの存在だ。
つづく




