妻が癌になる日2
何事もないように日常は過ぎた。
現実逃避するようにコーチ業に専念し、若手の成長に目を細めた。
そう、ずっと岳志の生活には野球があった。
プレイヤーとしての記憶は掛け替えのない物だし、指導者側に回ってからも様々な若手を育てることを生きがいにしてきた。
その中で失ったものは、なんだ?
遥香が母親業をやると決め、東京で二人で暮らした数年間。
結局遥香は春武が育つとすぐに会社復帰し、バリバリと働き始めた。
一方で岳志も監督業などをするようになった。
自分達が犠牲にしてきたものは一体何だったのだろう。
人生のゴールが近づいた今、そんなことが脳裏にちらつく。
アリエルが始球式にやってきたのは、そんな時のことだった。
「多田野投手の超スローボール、いくにゃー!」
そう宣言する。
練習してきたのか、クソ雑魚エルの異名もどこへやらの見事なストライクだった。
気の迷い、と言うやつだろうか。
このクソ雑魚エルに相談してみることにした。
なんだかんだで付き合いの長い相棒なのだ。
「アリエル」
「なんにゃ?」
「お前、口軽いよな」
「失礼なやつにゃ。まあ岳志らしいっちゃらしいにゃ」
「今回のことばかりは他言不要だと飲み込めるか?」
アリエルは目をしぱたかせる。
「春武が妊娠したことかにゃ?」
「妊娠したのは愛ちゃんだ。まだ男は妊娠できる時代になっていない」
シュワルツェネッガーの映画でそんなのがあった気がするが。
「ああ、そうだったにゃ。アリエル天使だから人間の摂理には疎いのにゃ」
「頼むぜ本当……」
もうこっち来て四十年近く経ってるだろうに。
本当にこいつに相談して良いのか? そんな不安が鎌首をもたげてきた。
しかし、自分を突き動かす衝動はそれより強い。
「遥香が癌にかかった」
アリエルは静かな表情になる。
「エイミーの無効化の光でも、駄目かな」
「エイミーの無効化の光は魔力の無効化にゃ。物体を持つものへの無効化はできないにゃ。魔力で肉体を構成している魔法生命体はその限りじゃないけどにゃ」
「だよなあ。そしたらエイミーに説明した時点で解決した話だ」
溜息混じりに言う。
遥香は入院した。
手術も受けた。
経過は良好。
転移の有無はこれからわかるという。
「今まで二人で歩んできたから、落ち着かなくなる気持ちはわかるにゃ」
アリエルは優しい声で言う。
「二人で歩んで、来たのかな。お互い好き勝手ばっかりやってた気がする。ワーカーホリック。子供の育児も刹那に押し付けて」
「お前ら、自分達の結婚記念日は覚えてるにゃ?」
唖然とする。
覚えていない。
「人間ってそういうの、大事にするって聞いていたけどにゃ」
座り込む。
「流石に唖然としたぜ。そんな初歩的なことからやってきてないなんて」
「オフシーズンにしたから十一月の二十四日にゃ。それならクリスマスまで待てば? ってあずきが言ってたから覚えてるにゃ」
「流石に結婚式に出席してもらうのは躊躇われるだろう。クリスマスって」
そう言えば、そういう会話をした覚えがある。
年末年始は大変だろうしとそこも避けた。
それで苦肉の策で、クリスマスイブの一ヶ月前にしたのだった。
「そういうもんかにゃあ」
「十一月の二十四日か。覚えた」
溜息混じりに言う。
「遥香は今どうしてるにゃ?」
「入院して手術は終わったよ。手術は成功。抗癌剤治療に移ってる」
「成功したのに抗癌剤するのにゃ?」
「転移の可能性を潰すためと聞いている」
アリエルは岳志の頭を撫でた。
「昔の、頼りなくて小柄だった岳志を思い出すにゃね」
ただ、今はその優しさにされるがままになる。
「今年の十一月二十四日は、なにかすると良いにゃ。流石に遥香も、仕事を辞めるんにゃろ?」
「仕事ー辞めるのかなぁ」
「わかんないにゃ。何度か辞めるって言ったけどその度仕事に戻ったし。けど、そろそろ人生にとって何が大切かを考えて良いフェーズに移って良い頃だと思うけどにゃあ」
沈黙。
「お前、人生相談なんて出来たんだな」
「伊達に配信で人生相談多数受けてないにゃ」
「その割に男と女どっちが妊娠するか把握してなかったけどな」
「ランダムかと思ってたにゃ」
んなわけあるかい。
「ありがとう、アリエル。十一月二十四日は大事な日にしてみせるよ」
「その口調も、昔の岳志みたいにゃ。なんか調子が狂うにゃね」
苦笑交じりに言うアリエルだった。
十一月二十四日。
孫も産まれてる頃だった。
つづく




