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コンビニで貰った特別クーポンを使ったら大変なことになった もーっと人生編  作者: 熊出


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妻が癌になる日

「どうだった?」


 電話口に出ていく声は震えていた。

 しかし、帰ってくる声は静かだった。


「ステージ2。転移している可能性があるって」


 天を仰いだ。

 コーチを続けていくのは無理だ。そう悟った。


 その日のうちに、岳志はコーチの任を若手に、という意向を上に告げた。

 新幹線に載るのもかったるい。陰陽連を顎で使ってゲートを開かせ視察地から東京へと直行した。

 家では、遥香が料理をしていた。


「あら、お帰りなさい、早かったのね」


「いや、お前、ステージ2って。入院とかは、てか完治するのか?」


「五年後生存確立は結構高いのよ。転移さえしてなければ大丈夫」


「……そうか」


 転移していたら?

 そんな最悪な可能性を飲み込んだ。

 そんなこと、本人が一番良く聞かされているだろう。

 共有してくれないのが、少し寂しかった。


「手術はすることになるわ。入院は二ヵ月ほど。空きが出るのに数週間かかるって」


「そんな悠長な。一刻も早くセカンドオピニオンを探そう。そうだ、アメリカが良い。アメリカなら……」


「大丈夫よ、貴方」


 岳志はその一言で口を閉ざされたような思いになる。


「その間に転移しないって、お医者様の見立てよ。今時の医者よ。私達の時代とは違うわ」


「だがなあ」


「春武に心配かけたくないでしょ、貴方だって」


 それがあったか、とふと岳志は我に返った。

 今メジャーで活躍中で、妻も妊娠した我が子。


「すっかり失念してた。危なかったぜ」


「ふふふ、貴方は若い時のままね。父親の自覚がないんじゃないの?」


「ぐうの音も出ません」


「入院まで会社の仕事も続けます。入院も秘密裏に。そういう場所は上に頼めば用意してもらえるでしょ?」


「六華のコネを使うよ」


「お願いね」


 岳志はスマートフォンを操作し始める。

 包丁の音が、ふと止む。


「ねえ、貴方」


「なんだ?」


「エイミーさんと再婚して、良いからね」


 岳志は、背中から遥香を抱きしめていた。


「コラ、危ない、包丁持ってるところ」


 叱られるのも聴かずに語りかけた。


「俺は、お前を選んだ」


 冗談交じりに抵抗していた遥香の動きが静かになる。


「巨乳だから?」


 エイミーの件と言い、付き合ったあと発覚した巨乳好きの趣味と言い、彼女にはいじられる件が多々ある。

 岳志は情けない声で恨み節を言う。


「お前、一度だって揉ませてくれたことあったか?」


「揉んで良かったけどね。今じゃすっかり垂れちゃって」


「そこまで酷くないと思うけどなあ。俺の婆ちゃんみたいにシワシワになってることはないだろう」


「セ・ク・ハ・ラ」


 そう言って手の甲を抓られた。

 痛くはなかったが、彼女の体を放した。

 温もりは確かに今ここにある。

 けど、失われるかも知れない。

 その可能性が、怖かった。


「容姿で選んだわけじゃないよ。経緯でだ」


「単にエイミーさんと再会するより私と会った時の方が早かったと」


「そういうことじゃない。たとえ逆でも、俺は遥香を選んだね」


「あっそ」


 再び響き始める包丁の音。

 どこか上機嫌に聞こえる妻の声。


「治療が終わったら」


「終わったら? なんでもするぞ」


「会長の座を誰かに預けようかなって。実質経営には直接携わってない栄誉職のようなものだったけど、入院して代理を立てる期間も長くなるし」


「俺は、なにをすれば良い?」


 岳志は、真剣な声で問う。


「コーチの件は決まりかけてたけど辞退した。多分表に出る前に消える話だろう。俺はできれば、お前の入院についていてやりたい」


「……できれば」


 遥香は、静かに言った。


「いつも通りで」


「でも……」


 思い残しとかはないのか、と心配になってくる。

 なんてことだろう。

 自分達は夫婦として過ごしてきたのに、致命的なまでに互いを深く知らなかった。


 お互いの仕事の成果にリスペクトは表し続けてきた。

 しかし、相手が本当はなにをしたかったか、なにを我慢していたか。

 それが夫の立場としてわからない。


 息子すら放り出して好き勝手やってきた結果がこの体たらくか。

 岳志は、もう一度遥香を抱きしめた。

 遥香が抱きしめ返してくる。


「その方が、思い出になるわ」


「仕事、休むよ」


「ううん、仕事は行って。コーチの仕事も今のうちに連絡して辞退を取り消してもらって」


「でも」


「でもよ」


 遥香は岳志の頭を撫でる。優しく。子犬を撫でるかのように。


「私は大丈夫。ね?」


 そう言うと、遥香は料理に向き直った。


「ほら、包丁持ってるから、しっし」


「ホント、凶器持つと強気になるんだこの女は」


 ぼやくように言う。

 普段の調子に戻っていた。

 心配の言葉を、百ほど飲み込みながら。



+++



「そういうことだからしばらくお前と連絡取るのは辞めとく」


「それは岳志にしては敏感な判断ね」


 エイミーは静かな声で電話口で返事をした。


「かなり動揺していると見た」


「お前鋭いな。俺はお前は年齢に逆行して生きているものだと思っていたよ」


 この幼馴染、若い頃に比べて若干子供帰りしている感が最近はある。

 しかし今日は、全盛期のように静かだった。


「わかるよ。あんたとは長い付き合いだぁ。腹割って話そうや。ステージ2だっけ」


「ああ」


「五年後生存率はあまり低くないわ。転移してない限り半年ほどで全ての治療が終わる」


「転移しているかどうかはわかるのか?」


「遥香さんから聞いてないの?」


 エイミーに呆れたように言われた。


「それどころか普通に仕事に来てる」


「ばっかねぇ! 入院したらつきっきりになりなさいな! 金は腐るほどあるでしょ!」


 エイミーの怒鳴り声。耳が鳴る。


「ま、仕事辞めろやとは流石に言えんか。自分がいなくなった後、岳志に生きがいが必要だもんね」


 その瞬間、一本の線で繋がったような感覚。

 仕事を続けろという忠告。再婚しろという忠告。

 忠告の一つ一つが、もし自分が舞台から退場しても相方が踊り続けられるように設計されている。


「だから再婚しろ、なんて言われるの。わかる?」


 包丁のように鋭いエイミーの言葉の数々。

 かなりグロッキー気味。


「気づかなかったよ。最悪のケースを想定してあいつが動いていたとは」


「遥香さんを目一杯愛して上げなさい」


 エイミーは優しい声で言う。


「昔ね、遥香は不安げな子鹿に見えた。岳志に自分の人生を委ねて良いかどうか迷ってる頃。愛されることに不慣れな子鹿に見えた。私はその背を押した」


「……うん」


「愛されることで、人は幸せになる。今はただ、慈しんで」


「愛してきた……つもりなんだけどなあ?」


「足りないんじゃないのー? あんたが世界の井上王者死守ーなんて実況されてる間に妻は仕事に逃げちゃったし息子は息子で刹那に懐いた。正直ね、仕事に熱中しすぎたのよ」


 ククリナイフで腸を持ってかれたような言葉のダメージ。


「つまりあんたは、自覚がないけど家に居場所がない気を使われてる中年のオジンです」


「……俺、オジンかなあ」


「孫も生まれるのに自覚無かったんだ」


 驚かれるように言う。

 やはり傷つく。


「じゃあお前はおバンか?」


「肌のハリだとか髪のツヤだとか見に来る? 女性ホルモンドバドバよ」


「だからお前とは会えないの! しばらくじゃあな!」


 一歩間違えれば誘惑言葉だ。

 危うい綱渡りをした気分に鳴りつつ電話を切る。

 その後、小さなバイブレーション。


『たまには顔を出せーって冗談よ。しばらく連絡禁止ね。了解』


 エイミーからの返事だった。

 これで後ろ暗いことはなにもない。


 浮気相手との関係を精算したような清々しさ。

 そもそも自分は浮気なんてしてないしエイミーともそんな頻繁に連絡とってないけど。

 仕事楽しいから。


 その調子で、妻とも連絡は疎かにしていた。


「つまりあんたは、自覚がないけど家に居場所がない気を使われてる中年のオジンです」


 エイミーの言葉が遅効性の毒となって回ってくる。

 え、俺今、そんな状況なの?

 そんな仕事に熱中しすぎた?


 いきなり居場所から追い出されたような不安定な気持ちになる。

 思えば今まで、岳志の家には、常に遥香という土台があったのだ。軒があれどなけれどそれが二人のいる家だった。

 春武にとっては、刹那がその土台となっていたのだろう。

 しかし今、岳志は土台を失おうとしている。


 俺の家は、どこへ行く?

 俺の生活は?

 暮らすことは変わらないだろう。

 妻の手料理が外食に変わるだけ、元々遠征先では外食ばかり。

 けど、致命的に大事なものが変わってしまう気がして。


 それに、自分のことばかりじゃない。

 遥香を、愛している。

 何度も抱きしめたし、何度もキスをした。

 夜も一緒に並んで寝た。

 性的関係は一度も持たなかったが、それでも二人は夫婦だった。


 涙が一筋流れ落ちた。

 怖い。

 どんな強敵と戦ってきた時よりも。


 妻を失うことが、怖い。

 チームのコーチは少々不安定なようだった。


つづく

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