第77話
幾星霜が過ぎようとも、地獄に堕とされようとも決して消えることのない記憶。士師と名乗る者達による酷悪極まりない惨殺の光景が、バアルの脳裏で鮮明に映し出されていた。かつて自分の事を豊穣神と呼び、崇めてくれた人々の惨烈な最期は今なおバアルの心を黒く染め上げた。
「士師……そう、士師ね……この世界にも居たんだ……。フフッ、まさかあんた達を殺せる日が来るとは思わなかったわ!!」
張り上げられた声に呼応し、暗雲からは激しい雷雨が降り注ぐ。精神体である俺が思わず両手で頭を抱えると、目の前で異変が起きた。バアルを宿しているルチアの身体が黒く染まり、腕と腰に生えていた綺麗な青色の翼は炎によって跡形も無く消え去った。その代わりに背中と腰から一対ずつ半透明の羽が生えた。羽は生命力というものを廃罷したかの如き静かさで小刻みに震え、見ているだけで気分が悪くなってくる。
「待て!バアル、落ち着け!その姿になったら、お前を宿している女の身体と精神が持たねぇ!」
慌てたルシファーがバアルの肩を掴もうと右腕を伸ばすと、光りの粒子と共に鮮血が飛び散った。
「痛っ!」
素早く右腕を引き戻すと、手首から肘に掛けて深い裂傷を受けていた。直ぐに治癒術を発動したので大事には至らなかったが、光りをもたらす者を軽く凌ぐだけの力をバアルは発現させているのだ。そして、その力を味方であるルシファーにも向けたということは……。
「くっそバカ野郎、ベルゼブブになって暴走したら今の俺じゃ止めらんねぇぞ」
やはり暴走しているのか。目の前の状況に悲観する俺と、苛立ちで歯噛みするルシファーのことなど意に介せず、バアルは自身を中心に拡大していく炎の渦を発生させ、瞬く間に周囲を焦土に変えた。雷雨によって炎の威力が落ちる、なんてことはないらしく、バアルは次々と火球を生み出して周囲に停滞させている。
「(止められないって、じゃあどうするんだよ!?力を使い果たしたら元に戻るのか?)」
「そんなの待ってたらこの国が消し炭になるか、女の身体ごとバアルが消滅するかだ!エフィム、こんな時こそ人間の可能性でどうにかしろよ!」
「(いやいや、無理だって!国一つ消すような相手に一人でどうしろって言うんだよ!?ルシファーこそ長い付き合いなんだから弱点とか知らないのか!?)」
「知ってたらこんなに焦らねぇよ!」
醜くも責任を押し付け合っていると、落雷と炎が燃え盛る音を掻き分けて高らかに響く笑い声が耳に入って来た。
「ヒャッハハハハハハハ!!これが人間に堕とされた神、バアル・ゼブブの本当の力か!すげぇ、すげぇぜ!ぶっ殺し甲斐がありすぎんだろっ!」
俺達がどうやって事態を収束させるか慌てふためいている傍らで、今の状況こそが至福であると言わんばかりに歪んだ笑みを露わにするサムソン。もういっそ奴がバアルを止めてくれないかという、情けない思いが垣間見えたが、奴がバアルを止めるということは即ち、バアルが死ぬ事でもある。互いに消耗して相討ち気味になってくれるのが理想だが、それはあまりにも成功確率の低い博打だ。
「波動!」
サムソンが何かの名称を口にすると、ルシファーは見えない壁に押し出されてしまい、戦場から締め出された。
「ああ?何だ!?」
接近しようと駆け出すも、やはり見えない壁が行く手を阻む。これがロザリアの言っていた、結界のような物なのだろう。ルシファーが光弾や光剣で破壊を試みたが、尽く結界に跳ね返されてしまう。一刻も早くバアルを正気に戻さねばならないのだが、何か手がある訳でもなく、それどころか敵の妨害を受けて手を拱くしかない。そんな現状をルシファーが我慢できるものか。
「ア゛ア゛ッ!クソバアル!てめぇはどこまで俺に手間を取らせるんだよ!!」
感情に任せて振るった拳もやはり結界に弾き返されると思われたが、拳は結界に張り付いたまま微動だにしていなかった。否、良く見ると微かに震えている。どうやら結界から受ける反発を力任せに押し込んでいるようだ。もしかしたらごり押しで結界を突破出来るのでは、という愚考が過ぎった瞬間、拳は腕と体を引きつれて見事に弾かれてしまった。そうこうしている内にもバアルとサムソンの戦いは熾烈を極めていた。
周囲に火球を出現させては狙いも定めずに射出して暴走するバアルに対し、サムソンは元の顔がそうであると言わんばかりの快哉とした笑顔を見せていた。
「ハッハッハッハッハ!そうだ、豊穣神なんてケチな神様じゃもったいねぇよ!この力、あんたは根っからの戦士だ!」
火炎や雷の軌道が予測できないにも関わらず、サムソンは紙一重で躱し、遂にトライデントの射程にバアルを捉える。しかし、構えられたトライデントは突き出されることなく、持ち手と共に後退した。
直後、サムソンが居た場所の空間が捻じ切られた。一瞬の出来事だったので目の錯覚とも思われたが、サムソンの両目と脳は正しく状況を理解していた。
「へっ、あんなのをよく真空波なんて言葉で片付けてくれたな。当たったらどうなんだ?」
見えない力に成す術もなく体を捻られ、筋肉が引きちぎられ、骨は粉砕され、最期には体内から無数の刃物が突き出してくる。想像するだけでサムソンの痛覚と聴覚は有りもしない情報を脳へ伝達。多量のエンドルフィンを分泌し、サムソン昂りは頂点に達した。
「最高だ!堪んねぇ!こんな気持ちは誰かと分かち合わないとなぁ!!」
叫びながら天に左手を翳すと、バアルを包む様に光りの竜巻が発生。竜巻は天まで昇って暗雲を打ち払ったかと思うと、晴天からは人ひとりを消滅させるには十分過ぎる太さの光線が無数に降り注いだ。光線が地面に着弾する毎に地鳴りが起き、塵煙が立ち込めた。バアルがどれ程の強さを持っていたとしても、あの攻撃の中心に居ては無事で済むと思えない。
「撃退」
声量は大きくなく寧ろ小さ目で、抑揚の無い無機質な声音だったが確かにバアルの声だった。その声は荒れ果てた牧草地一面に刹那の誤差もなく届いて青草たちの騒めきを静寂に変え、つい先ほど顔を出したばかりの晴天を泣かせた。
「やべぇ!」
立ち込める塵煙に紫電が走ったのを見たルシファーはたちまち血の気を引かせ、背中を向けて全力で跳んだ。
「(や、やばいって?)」
ルシファーが動いた事によって漸く何かが起きると判断した程度に頭が回っていない俺は、気にはなるが聞きたくもない事を勝手に質問していた。
「……やばい」
顔面蒼白のルシファーから出てきた答えはその三文字だけだった。具体的な内容を口にした訳ではないが、ルシファーのこの態度を見ては聞き直すのも憚られる。見えない不安に胸を苦しませる俺を憐れんでか、ルシファーの震恐は直ぐに現実の物となって現れた。
この日、鳥人国家カサパジェスからメイルティという町は姿を消した。




