第70話
俺……正しくは俺の中に宿るルシファーを視線で射抜いたヴィート大司教は一呼吸置いて、これ以上の質問が出ないか確認すると表情を解し、茫然としているアイラへと向けた。
「さて、そろそろ話しを変えましょうか。いつまでもそちらのお嬢さんを待たせるのは悪いですから」
話題を向けられたアイラは肩をビクつかせ、反射的にネイトの後ろに隠れようとしたが小さな手を精一杯握って堪えた。その勇気を称える様にしてネイトはアイラの肩に優しく手を乗せ、ヴィート大司教へと言い放つ。
「ヴィート大司教は絶対悪という悪魔について何かご存じでしょうか?」
途端にヴィート大司教の顔が青ざめていく。ルシファーに「神ですらまともに相手にするのは厳しい」と言わしめるほど凶悪な存在なのだ、無理もないだろう。
「そのお嬢さんと絶対悪にどのような関係が?」
上擦った調子で聞き返されるが、アイラは努めて平静に答えた。
「わたしが絶対悪を宿しています」
信じられないといった様子でヴィート大司教は眼を見開いて茫然としている。アイラについてはレゲネラツィから何も聞かされていないのだろう。
暫くの間を置いて、ネイトが静寂を破ろうと口を開いたが、その口から言葉が発せられることはなかった。アイラの肩に乗せてあった手が、そっと掴まれたからである。そして、アイラ自身の口からサンヤスクでの悲劇と絶対悪の現状が告げられた。
初めのうちは呆けていたヴィート大司教だったが、アイラが語っている間に我に返っていた。しかし、表情にはいつもの柔和さは無く、ただただ真剣な眼差しがアイラの言葉を、瞳を、胸の内を捉えていた。
「お願いします!この悪魔について何か知っていることがあれば教えてください!」
珍しく声を張るアイラを見て、俺は思わずネイトと顔を見合わせる。昨晩、二人で何か話したのかと思ったが、ネイトは心当たりがないらしく、静かに首を横に振った。しかしながら、アイラなりに何か思うところがあるのは事実だ。頭を深く下げているアイラを見てから、視線を正面に戻すと難色を隠し切れていないヴィート大司教の表情が俺に不安を伝染させた。
「頭を上げてください。そして、一つ教えてください。お嬢さんは絶対悪について知り、何を成そうと思っているのですか?」
問われても直ぐには頭を上げなかった。曲げた小柄な身体と、垂れた長い髪で懸命に表情と思考を隠し、逡巡してから重い動作で姿勢を正した。両手は自身の胸、服の下に隠れているブローチへ当てられていた。
「……わたしは……エフィムさんやネイトさんたちの手助けがしたいです。助けられて、守られてばかりなのは嫌なんです。たとえ誰かを不幸にする力しかなくても、わたしは、わたしの大切な人たちのために何かしたいんです!」
「アイラ……」
名前を呼んだものの、アイラの儚げながらも必死な瞳を前に「そんな危険な真似はしなくていい」とは続けられなかった。どこか思い詰めている節はあるが、ならばこそ今はアイラの意思を尊重し味方になるべきだろう。
「貴女が本当にそう思うのでしたら、一刻も早く彼らから離れ、聖術による拘束を受けるべきです」
渋面のまま零された発言に、時間が止まった様な、巻き戻されたかの様な感覚に陥った。
「絶対悪は万物を消滅させ、無に帰す存在。貴女が存在していてはルシファー殿やネイト殿が目指すこの世界の可能性を、延いては貴女が今口にした大切な人たちの存在そのものを脅かすことになります」
事実なのだろう。ヴィート司祭の口調に一切の感情が籠められていないのが偽りではないと証明していた。これまで協力的な態度だったので忘れていたが、やはりヴィート大司教の根本にあるのも教会での教えなのだ。不利益しか生まない悪魔の存在を見過ごしはしないだろう。いや、教会の人間でなくても絶対悪などと呼ばれる悪魔を放っておきはしない。
ヴィート大司教の言う通り、世界を変える可能性すら消されてしまうならばアイラを連れて行くべきではないのだろう。世界が変わればアイラの中から悪魔が消え、前に俺が望んだ平穏な生活に戻してあげられるかもしれない。ヴィート大司教の聖術ならばサンヤスクの様な出来事は起きないだろうし、ここでアイラを預けてしまうのが正解とはいかないまでも安定択である。
違う。そんな選択に意味はない。
室内には不穏な空気が漂っているにも関わらず、俺の精神はかつてない程に精々としていた。まるで周りが間違っており、俺が唯一の正解を持ち得ていると言わんばかりの自信が溢れてくる。
「マユラとの約束があるんだ。アイラと世界を見るって約束が……姉妹のたった一つの願いを俺は託されている。この約束を守ることが間違いだと言われても構わない。そもそも堕天使を宿しているんだから、世界から見れば俺は神への反逆者。だったら間違え続けてもいいじゃないか。可能性は正しさに従うだけじゃない。信じる心があれば、願う勇気があれば可能性は拓かれるんだ!」
眼を閉じて拳をきつく握り締め、己の意思の強さを十分に確かめる。大丈夫、無茶な強がりなんかじゃない。俺の意思は確かにここにある。あとはこの思いをヴィート大司教にぶつけるだけだ。
決意を胸に開眼すると、そこには映る筈だったヴィート大司教の姿はなく、代わりに白い背中が視界を遮っていた。一体何が起きたのか、混乱していると目の前から愉快そうな声が響いた。
「聞いた通り、俺の宿主はアイラを引き渡す気なんて毛頭ないみたいなんでね。大人しく絶対悪について知ってる事を教えてもらおうか」
眼の前に現れたのはルシファーであり、奴の口振りから察するに俺は頭で考えていたことをいつの間にか口に出していたみたいだ。まぁ、アイラを引き渡す気がないと伝えられたし、細かいことは気にしないでおこう。というか思い出すと少し恥ずかしい。
「ええ。ワタシも最初から教えるつもりでした。先の問答はあくまで神官としての建前のようなものです」
ルシファーに隠れて表情は伺えないが、声色は聞き慣れた穏やかなものに戻っていた。要するに試されたと捉えるべきか。
「ちっ、回りくどい真似しやがって」
舌打ちし言葉を吐き捨てると、ルシファーは早々に実体化を解いた。無礼極まりないが、俺の意見を押し通すために出て来てくれたようなので文句は胸の奥にしまっておこう。
「教えると言っても、絶対悪については先程言った通りです」
「私やルシファーの目指す世界の可能性を消してしまう、でしたか」
「はい。神の創造物や可能性などの全てを無に帰する。そのためだけに絶対悪は存在しているのです。何故、神が斯様な存在を創り出したのか、その真意は分かりません」
ヴィート大司教の言葉を受け、アイラは小さな肩を更に小さく見えるように落とした。期待していた程の情報が得られなかったからか、または自分が考えていた事に絶対悪の力が使えそうにないと悟ったからなのか。
「何にせよ、人の身に扱える力ではないことは確かです。エフィム殿たちの手助けをしたいと言うのでしたら、他の手を探した方が堅実でしょう」
優しく諭され、アイラは力なく頷くのが精一杯だった。
「そちらの時間が許すならば、バアル殿を仲間にした後もここに滞在し、力を付けるという手もあります。焦ったり、閉鎖的になってはなりませんよ。苦しい時こそ心を開き、思いを伝えるのです。言葉は人間の特権ですから」
ヴィート大司教のありがたい言葉に謝辞が尽きないが、アイラの落ち込みも気掛かりだったので挨拶もそこそこに執務室を後にした。




