第68話
ネイトが泣き止むのに、そう時間は掛からなかったが森にはいつの間にか静かな夜陰が訪れていた。言葉どころか、衣擦れの音を立てることすら躊躇われる静寂から魂を引き戻せたのは、腕の中でネイトが身動ぎをしたお陰だった。
「ごめんなさい。感情的になってしまいました」
「謝る必要なんてないよ。俺の方こそ、余計なこと聞いてごめん」
ネイトは俺の腕から解放されると袖で涙を拭ってから頭を振った。
「いいえ。エフィムに話したら、なんだかスッキリしました」
「そう言ってもらえるなら俺も嬉しいよ」
地面に置いたランタンを拾い、すっかり暗くなった森を抜けて領樹へ戻ろうと足を踏み出そうとしたのだが、ネイトはまるで木の葉に隠され、見えない筈の夜空に浮かぶ星々が見えているかのように顔を上に向けたまま動かない。
「私は家族という存在に強い憧憬を抱いていたのですね」
宙に放たれた言葉は俺に向けての物というより、ネイトが自分自身に言い聞かせる為の物だった。
「エフィムに触れることで家族の何気ない温かさを感じることができて、それに甘えていました」
ツァピン司祭や年長の修道女といった育ての親はいただろうが、生活環境は一般家庭のそれとは随分違うはずだ。更にネイトの場合は本当の両親に関する記憶も手掛かりも一切ない。家族という大多数の人間が当たり前に持っている存在を、他見的にしか知ることができないというのは、少なからず侘しさを感じるものだ。
しかし、そんなに俺の手は温かいのだろうか。疑問を解決すべく右手を頬に当ててみるが、特に何も感じない。まぁ、分かり切ったことだったんだけど。
俺が他愛ない検証をしていると、ネイトが控えめに溜め息を吐いて視線をこちらへ向けた。
「私は輪廻の解脱者としてこの世界を正しく導き、エフィム、あなたが再び平穏に暮らせるようにします」
ネイトの中で如何ほどの葛藤があったのかは分かりかねるが、こちらへ真っ直ぐ構えられた表情は実に晴れ晴れとしたものだった。
「あ、うん。それは嬉しいんだけど……」
この世界は滅ぶ運命……正確には新しい世界を創る為の世界だとヴィート大司教は言っていた。ネイトの気持ちは勿論嬉しいのだが、消えることが確定している世界でどれほどの平穏が取り戻せるのだろうか。
俺の言葉を濁らせると同時にネイトは不安の色を露わにした。
「迷惑でしょうか?」
「え!?いや、本当に嬉しいよ!ただ、どう頑張ってもこの世界は無くなってしまうのかなぁって思うと、少し悲しい気がしてさ……」
ネイトの不安を掻き消す様に手を振って心の内を明かす。すると、ネイトは頷いて納得してくれ、少し考え込んだ後に俺の手を取った。
「少し歩きましょう」
慈愛の感じられる微笑みを向けられ、俺は見惚れてしまったのだろう。返事の言葉は出せず、緩慢な頷きを返すのがやっとだった。
ネイトに引かれて歩き始めると、体は素直に動くようになり、手を繋いだ状態で仲良く並んで歩く。
「エフィムは、どうして輪廻の解脱者が複数人存在すると思いますか?」
「う~ん……使命の重さを考えると、協力し合える存在がいた方が良いんじゃないかな」
我ながら短絡的な回答だと思ったが、逆に複数人存在することのデメリットは何だろうか。
「確かに同士の存在は心強いです。しかし、世界を導く存在でありながら、私やヴィート大司教のように堕天使に協力する者もいます」
「同じセルビティオでも、世界の導き方が違うってこと?」
「もしくは目指す世界そのものが違うかもしれません」
どういうことだろうか。世界の在り方は始めから創造神に決められているのだから、セルビティオがどんな道程を辿ろうと関係ないのではないか。
俺の沈黙を受け、ネイトは補足のために語り出した。
「ルシファーは言いました。“神を倒すことでこの世界を輪廻から解き放ち、世界を人の手に委ねる”と。そして、ヴィート大司教もこの話しに賛同する口振りでした。つまり、この世界は神の定めた結末以外にも導ける可能性があるということです」
ルシファーの奴、そんなことを企んでいたのか。一体なぜそんな目的を抱いているのか気になるが、今はネイトとの話しに集中しよう。
「セルビティオが複数人存在するのは、世界の結末に他の可能性を持たせるため?」
言葉は自然と口から洩れていた。理由も目的も分からず、思考がパンクしそうになったところでネイトが同意を示した。
「人はどうしても不完全な生き物です。どんなに正しい道標があろうとも、どんなに清純な祈りであろうと、どこかで歪んでしまいます。この歪みを可能性と捉えても良いでしょう。ですが、人の抱いた可能性が必ずしも正しいとは限りませんし、そもそも何故神は人に不完全さを与えたのかも分かりません」
人と可能性。ルシファーもそんなことを口にしていたな。堕ちたといえどもやはり天使だな、神と似たような思いを……。そこまで考えて思考の端に何かが引っ掛かった。ルシファーは神に逆らって堕天した筈だ。自らを天界から追放した相手と同じ思いを抱いているのは不自然じゃないか?
思考が掘り下がっていきそうになるが、ネイトの紡がれた言葉に意識を引き戻される。ルシファーや神について俺が一人で考えたところで分かることなど高が知れているのだから、疑問は頭の片隅で落ちないように引っ掛けたままにしておこう。
「不完全だからこそ、ツァピン司祭は私に人として正しく在るよう教えてくれました。今こそ私は私の正しさを以って世界に向き合うべきだと考えます」
強固な意志を宿した瞳を向けられ、俺は可能な限り真摯に見つめ返した。
「うん、わかったよ。俺も出来る限り協力するから、この世界と人……いや、天界も地獄も含めた全てにとって正しい在り方を見つけていこう」
口で言うのは簡単だが、全てに対して正しい在り方を見つけるなど不可能に近い。だけど、もしかしたら神は不可能を可能にする希望を世界のどこかに隠しているのかもしれない。人間が不完全なのは、互いの欠点を見つけ、正すためなのかもしれない。
希望的観測は尽きないが、世界の大多数が敵になっている今だからこそ見えてくるものもあるだろう。ならば目標を大きく持って自己を鼓舞し、視野を広げるのは重要なことだ。
「はい。よろしくお願いします」
ネイトは繋いだ手に少しだけ力を籠めると、柔らかな微笑みを見せてくれた。
「そ、そろそろ戻ろうか。あんまり遅いとアイラが寂しい思いをするかもしれないし」
暗がりの近距離で微笑みかけられたからだろうか、なんだか気恥ずかしくなったのでネイトの腕を引いて踵を返した。
歩いた道のりを正確に記憶していたわけではないが、領樹の方角はある程度覚えていたので迷わず森を抜ける事ができた。
案内人に道を開いてもらい、宿へ向かう途中でネイトが明日の予定について話しを切り出した。
「明日、もう一度ヴィート大司教と話しをつもりなのですが、エフィムも一緒に来てはくれませんか?」
「良いよ。俺も聞きたいことがあったし」
「ありがとうございます。それと、アイラも連れて行って構いませんか?悪魔について、聞けることがあるかもしれないので」
ネイトの提案を聞くと頭に小突かれた様な衝撃を受けた。バアルやセルビティオについてばかり意識が向いていたが、相手は大司教で、近くの土地では堕天使についての記録も発見されている。悪魔について何かしらの知識を持っていても不思議ではない。
俺はネイトの手を離し、両手で頭を抱えた。
「アイラの様子に変化がないからって油断し過ぎだよなぁ」
今一番大変な状況にいるのはネイトの筈なのに、こうして周りにも気を配れるのは凄いな。
自分の落ち度を恥じていると、ネイトが眉を僅かに寄せ、内にある不確定な要因を確かめるかの如く口を動かした。
「変化と言えるかは分かりませんが、この国に来てからはいつも以上に大人しい気がします」
そうなの?と聞き返そうになったが、これ以上の失態を晒したくはないと思い、喉の奥で無理矢理に押し止める。アイラには俺よりもネイトの方が近くに居るのだ。そのネイトが違和感を覚えているのならば信用するべきだろう。
「何かあってからじゃ遅いからね。明日はアイラとも一緒に行動しよう」
「出来ることなら明日“は”ではなく、明日“からは”でお願いします。それでは失礼します」
話している内に宿の部屋の前まで来たので綺麗に明日の予定を定めたつもりだったのだが、華麗かつ流麗に突っ込みを入れられてしまう。うん、分かってた。アイラとももっと接する必要があるのに、俺は何を言っているんだ。
先程まで温かく握り合っていた手が無情なまでに冷たく感じたので、気休めの意味を籠めつつ手を振り、部屋に入っていくネイトを見送った。




