第65話
————カサパジェスでは数十年前から緩やかに砂漠化が進行していた。砂漠は南部を中心に広がっていき、今では国土の六分の一が無人の土地となっている。緑化を試みるも成果は芳しくなく、天使によって他国との交流が制限されたこの世界では、カサパジェスは滅びの一途を辿るしかなかった。
ティンクシャから直近の町であるメイルティも砂漠に呑まれようとしていた。そんなある日、ヴィート大司教の元に一人の少女が連れて来られた。少女の名前はルチア・シルブロ。メイルティで踊り子をしていたのだが、舞台裏で白銀のイヤリングを見つけるとバアルという、自らを地獄の君主、つまり堕天使だと名乗る者に憑りつかれてしまったそうだ。
深刻になってきた砂漠化に堕天使の出現。誰もが落胆し、神に祈りを捧げていると、バアルが意気揚々と宣言した。
「何もしてくれない創造神に祈ったって無駄無駄。そんな暇があるならこのバアル様を崇めなさい!今に砂漠化を止めてみせるんだから!」
堕天使の言葉など誰が信じるものか。ヴィート大司教は拘束を命じたが、バアルは雷撃を放って領樹ガーランドに横穴を開け、雲に乗って難無く脱出した。鋼鉄よりも硬い幹に易々と十数メートルの穴を開けた力に戦慄した鳥人達は、バアルの処遇について消極的にならざるを得なかった。
数日後、思わぬ朗報と共に一冊の煤けた本がヴィート大司教の元へ送られてきた。
朗報とはなんと、メイルティの枯れかけていた湖が復活したことであり、その立役者となったのがあの堕天使バアルだという。一体どうやったのか、幻術の類いに騙されているのではないかという不信感は十分にあったが、それも一緒に送られてきた本の内容を読むことで無用の不安と化した。文字が滲んでいたり、ページが破れていたりで損傷が激しかったが、堕天使についての本だった。勿論、バアルの事も地獄の統治者の一人として紹介され、嵐と豊穣を司る力を持っていると記述されていた。
この時ヴィート大司教は悟った。神の創りし世界の理に従うは絶対の正義、されど理に抗うは悪に有らず、天上の悪に地上で意を与えるは我が身に流れし人の血である、と————
話し疲れたのか、ヴィート大司教は大きく深呼吸をした。つまり、バアルは堕天使でありながらこの国を砂漠化から救ったということか。そんな相手を拘束なんかしたら罰当たりもいいとこだな。
「その本ってのはどこで見つかった?今はどこにある?」
話しを聞いている間に落ち着いたのだろう。ルシファーが平時と変わらぬ様子で尋ねた。
「バアル殿が湖を復活させた時に偶然出てきたそうです。本の内容をバアル殿にお尋ねしたら一瞬にして灰にされてしまったので今はもうありません」
「そうか。それならいい」
うん?もしかして堕天使についての情報が少ないのって、ルシファー達が消している所為なのか?堕天使だと知られない方が動きやすいから、当然といえば当然の行動か。
「そっちにも事情があるだろうが、バアルは俺が連れて行く。良いな?」
「はい。ワタシ達にバアル殿を縛る権利はありませんので、どうぞご自由に」
「話しが早くて助かる」
「……ああ!申し訳ありませんが、あと三日だけ待ってはくれませんか?」
何か思い出したのだろう、ヴィート大司教の眼は大きく開かれている。大きな赤い瞳に凝視されるのは少し怖いな。
「何かあんのか?」
「バアル殿と民が楽しみにしている催し物がありまして……詳しい事は当日、メイルティで実際に見て頂いた方がよろしいかと思います」
「あいつ、また余計なことを……。まぁ良い、三日だな」
ルシファーは気怠そうに後頭部を掻きながら実体化を解くと、光りの粒子となって腕輪へと戻って行った。
「もう話しはしなくて良いのですか?」
右腕を胸の高さまで持ち上げ、腕輪を見せながら尋ねる。ルシファーめ、自分が聞きたい事を聞いたらさっさと引っ込んだな。
「ええ、話しは十分です。ルシファー殿が私利私欲の為に動いている訳ではないと分かりましたからね」
「そうですか」
ヴィート大司教がまだ何か話したいというのならルシファーを無理矢理にでも出そうと思ったが、その必要はないので腕を下ろした。
「この国に滞在している間、あなた方の安全はワタシが保障します。ガーランド内の宿泊施設も自由に使って頂いて構いませんので、三日後メイルティに行かれるまでゆっくりと羽を伸ばしてください」
まさか堕天使を宿している身でありながら大司教に身の安全を保障されるとは思ってもみなかった。天子だった頃はレゲネラツィの襲撃に脅えていたし、久しぶりに安心して休めるかな。そんなことを思うと、途端に疲労感が押し寄せてきて思わず肩を下ろしてしまいそうになるが、もうひと踏ん張り、せめてこの部屋を出るまではしっかりした態度でいよう。
「ご厚意、感謝します」
「いえいえ、お互い世界の為に成すべきことを成しましょう」
挨拶を済ませるや否や、ロザリアとアメリーは本部に経過を報告すると言って部屋を出て行き、カイムとアイラは一礼を済ませてから二人に続いて行った。俺も部屋を出ようとしたが、ネイトが未だ真っ直ぐにヴィート大司教を見据えていたので足を止める。
「何か、言いたげですね」
ネイトの視線を受けたヴィート大司教は穏やかな声色で尋ねたが、その表情は今まで見てきた中で最も愉しそうであった。セルビティオ同士、世界の在り方について議論が交わされるのは明白だった。ルシファーが憑依している今なら話しの内容を聞くことができる。俺は二人に目線を送って傍聴の許可を貰い、部屋の隅に下がった。
「大司教はルシファーが新たな神になることに賛成なのですか?」
「賛成、とは言えませんが、反対もしません。天界で悪と見なされたからといって、ワタシ達にとっても悪とは限りません。より良い世界を創造するかもしれませんし、悪い世界を創造するかもしれません」
「その答えは輪廻の解脱者として無責任ではありませんか?」
随分とはっきり言うなぁ。内心を冷やらせながらヴィート大司教の表情を伺うが、変化は見られない。穏やかだが愉しそうな笑みのままであり、奥に控えている護衛も相変わらず石像の様に動かない。
「ワタシ達は創造された世界で生きるしかありません。ならば限られた世界の中で正しさを示す。それがワタシ達の役目だと自覚しています」
「でしたら、今の世界の正しさとはなんでしょうか?教会と天使が世界を統治し、戦争もない平和な世界に示す正しさとは」
天使が発見され再歴になってから、人々の歴史に戦争の文字は無くなった。地方で小さな小競り合いぐらいは起きているかもしれないが、国家間や人種間レベルの争いは聞いたことがない。
人が到底及ぶ事ができない圧倒的な力に加え、悪を見抜く穢れなき瞳に、拡大された認識力。初めは天使を利用とする不届き者もいたそうだが、そういった手合いは尽く成敗された。天使が世界を治めるのは必然だった。
「おや?ヴィクトルからは何も聞かされていないのですか?」
「司祭のことをご存じなのですか!?」
どこかで聞いた名前を出され、記憶を辿ろうとしたが、その前にネイトが答えを出してくれた。ツァピン司祭の名前がヴィクトルだったな。
「ええ、ゴードヴィッドの大聖堂で仕えていた時の友人であり、同じ輪廻の解脱者です。ヴィクトルの方は貴女にその任を引き継いだようですが」
俺とネイトはツァピン司祭がセルビティオであるという事実に唖然としていると、ヴィート大司教は思い出したかの様に眼をパチパチとさせた。
「そういえば、最近まで自覚がないと言っていましたね。クルックゥー……何も伝えずに旅に出すとは、実にヴィクトルらしい」
翼で顔を隠しながら愉しそうに笑っている。ツァピン司祭のことを詳しく知らない俺からすれば、大事なことなんだから教えておけよとツッコミを入れたい。
「いや失礼しました。この世界の正しい在り様は何か、でしたね」
ヴィート大司教は居住まいを正し、もったいぶる様に俺とネイトへ交互に視線を合わせてから漸く続けた。
「世界を転輪させるための最後の部品。この世界が終焉を迎えた時、初めて新たな円環が生まれるのです」
今の世界が新しい世界の為の部品?予想していなかった答えを投げられ、理解が追い付かないまま静寂だけが過ぎて行った。




