第58話
昔々、まだ神々が天界に存在していた頃、とある地域に住む人々は砂漠化に飢え苦しんでいた。神々は人間を哀れむものの、自然の摂理に介入することはせず、ただ静かに滅びの時を待っていた。しかし、ある物好きな女神は神々の反対を無視して地上に降り立ち、慈雨によって地上を潤し、作物を実らせ人々を救った。人々は女神を豊穣神として崇め奉った。
天界を離れた女神に世界を視通す力はなく、また、人々の信仰心が女神を一つの地域に縛り付けてしまったが為に、世界中の貧困に喘ぐ人々は女神へ反感を募らせていった。特定の種の、極一部だけを救う女神に対し疑念を抱いていた神々は、人々の反感を汲み取る形で女神の排除を決行する。
ある日、いつもの渓間で慈雨の舞を踊っていた女神は空に異変を感じた。雨とは違う水の気配、そして大地を振るわせるほど雄強な雄叫び。空から降り落ちてきたのは川だった。川はたちまち渓間ごと女神や信者を飲み込み、豊かな渓流が生まれた。
渓流の底に潜む、黒く終わりが見えないほど長い影は川底を這い、執拗に女神を探し回っていた。しかし、渓流のどこを探しても女神の姿は見つからなかった。それもその筈、女神は雲に乗って上空に逃れ、渓流全体を見渡していたのだ。そこで、女神は己の行動を後悔した。水底でうごめく影は長く、長く、何処までも伸びており、もはや降ってきた川そのものが影の本体ではないかと鬱屈させた。だが、そんな考えは即座に捨て去ることになる。影が水面を突き破り、その姿を現したのだ。
手足の無い身体は濃い青色の鱗に覆われており、女神を見上げる瞳は水晶の様に清らかだが、見る者全てに畏怖を抱かせるほどに鋭く不磨とも思える輝きを宿していた。河海神、女神は自身を見上げる水竜をそう呼んだ。
河海神は人々が抱いている不満と神々の総意を伝えると、女神の言葉を待たずに水を巻き上げて攻撃を仕掛けた。
女神と河海神との戦いは熾烈を極めたが、三日目の夕刻、女神の放った雷撃が河海神の首を刎ね飛ばしたことで勝敗が決した。渓谷は既に崩壊しており、元がどのような形であったか思い出すのも困難である。
漸く終わった戦闘に安堵し、雲の上で寝転がる女神を襲う困窮はこれから始まるのだった。
頭部を失い、血を噴き出しながら倒れる巨躯が、荒れ果てた渓流に与えた衝撃は如何ほどの物だったのだろうか。世界を激しく揺らし、岩石や真っ赤な水泡を四方八方に撒き散らした。女神が慌てて起きるも、時すでに遅し、岩石は村や町を破壊し、河海神の血を含んだ水泡は大地を焼き焦がし、人々を溶解した。夕日に照らされる世界が赤く紅く、幾重にも染められていく。飢えから救い、実りを与えた世界が、潰され、汚され、刈り取られていく様を豊穣神はただ見ていることしか出来なかった。大地を潤し、命の糧を実らせることが出来る豊穣神であったが、眼前で起こる破壊の事象に抗う術も、力も残されてはいなかった。
河海神の絶命の轟きが収まると、女神は戦いの傷が癒えぬ内に天界へと向かう。しかし、天界への道は固く閉ざされており、どれだけ声を張り上げても、雷撃を与えても、返ってくるのは無音のみであった。
天界から追放された女神は雲に乗ってふらふらと世界を彷徨っていた。そんなある日、女神の名を呼ぶ人間がいた。その人間は、女神が最初に飢えから救った町の者だった。奇しくも、地上で初めて訪れた地に戻っていたのだ。河海神との戦いがあった渓谷からはそう遠くない場所にあった町なのだが、奇跡的に被害は少なかった様で、町人達は女神の再訪を強く歓迎した。始めは合わせる顔が無いと人々を拒絶した女神だったが、人々の真っ直ぐな崇奉が次第に女神の心を癒していった。
再び人間と共に生きる道を選んだ女神に、町人達は神殿を建てた。河海神が暴れたのも、女神に対しての敬虔が足りなかったせいだと結論付け、人々は自分たちの心根を悔い改めた。
女神と人間が、荒れた大地に再び実りを与えんと共生を誓い、一年後が過ぎた頃、女神の元に一人の男が現れた。男は自身を神の声を聴く者、士師と名乗り、異教の象徴である女神を裁きに来たという。始めは狂言の類いだと取り合わなかった女神であったが、ふと異変に気付く。普段、こうして外部の人間が謁見する場合、出入り口の前に見張りの一人や二人が居るはずなのだが、今は誰も居ない。女神が声を張って人を呼ぶと、直ぐに神殿の扉が開いたのだが、扉の向こう側には思わず目を覆いたくなる光景が広がっていた。
見知った顔だった。神殿の近くの町に住む人々の顔が、見知らぬ男達の両手に掴まれて神殿内に入って来た。
女神が激昂して叫ぶと、男達は愉快そうに目を歪ませて、両手に持った町人達の首を無造作に投げ捨てた。ある者は壁に、ある者は柱に、ある者は地面に、ある者は女神に、血や骨や肉片や眼球や毛髪が飛び散り、神殿内は瞬く間に地獄絵図と化した。女神は怒り狂い、河海神の首を刎ねたときよりも強大な雷撃を男達に落とした……筈だった。神殿内では男達が狂乱の笑い声を上げ、あろうことか地面に転がる首を蹴って遊び始めた。
怒りと疑念で混乱し切っている女神に、士師は淡々とした口調で言い放つ。
あなたはもう、神ではないのだよ。バアル・ゼブブ。
豊穣神として崇められていた女神の周囲から全ての色が消え、彼女は無のみが存在する奈落を一人、どこまでも落ちて行った。
鳥人国家カサパジェスの西部に位置する港町アジュフェに一隻の船が入港した。
「本当に俺達に協力するんだな?」
船から降り、桟橋の上でヘルムートが最後の確認をしてきた。
「協力、とは少し違うかな。俺は今まで通りルシファーや皆と旅を続けるだけだよ」
真っ直ぐ前を向き、一切の淀みなしに言い放つと、ヘルムートは鼻で笑うものの表情は実に満足気だ。
「こっちはそれで良いんだよ。おい、連れて来い!」
船内に向かって大声で呼びかけると、程なくしてレゲネラツィの構成員に連れられてカイムが姿を現した。
「カイム!」
数日ぶりに見る姿に、思わず声が弾んでしまうが、カイムの固く引き締められた面持ちを目にして言葉を失う。やはりレゲネラツィとの折り合いは悪いようだ。
「エフィム、考え直せ。こいつらに家族の安全を委ねるなど、いつか必ず後悔することになる」
「うん、それは俺も考えたよ。人質に使われているって」
「ならば……」
「でも、無事に返してくれるかもしれない。本当に、ただ護衛の対象として扱ってくれるかもしれない。俺は人を疑うより信じたい。俺は希望という可能性を諦めたくはないんだ」
楽観的過ぎる考えなのは分かっている。綺麗事を言っているのも分かっている。けど、ルシファーやレゲネラツィが目指す世界や未来のことは分からない。俺やアイラが社会的どういう立場になっていまうのか、ネイトが世界に対してどう感じるのか、カイムとレゲネラツィの因縁に決着はつくのか。自分の仲間の事ですら分からないことだらけだし、それこそ不安要素なんて湧いて出てくる程だ。だけど、分からないからって、不安だからって、知ることを恐れてはいけない。未来に進むことを諦めてはいけないんだ。
念を押すように、じっとカイムを見つめる。互いの視線がぶつかり合うが、それは僅かな時間だけだった。カイムが目を伏せ、呆れた様に肩を小さく上下させた。
「今更ここで言い争いをしても仕方ないか。すまない、余計なことを言った」
「全然、気にしてないよ」
「どこまで役に立てるか分からないが、私も引き続きエフィムに協力しよう。だが・・・」
表情を緩めるのも束の間、すぐさま敵対者に向けるそれに変えヘルムートに向ける。
「私の目的がシュバルツを倒すことに変わりはない。奴にそう伝えておけ」
「へいへい、分かりましたよ。……あ?」
頭の後ろで腕を組み適当に相槌を打つヘルムートの目が、桟橋を渡ってこちらに近付いて来る二人の女性を捉えた。片や女性にしては高い身長、露出の多い格好で上着を肩に掛けており、フレイム・オレンジのロングヘアー、そして手には身の丈以上もの長さのある、布に包まれた棒状の物を持っていた。片や女性にしても小さめな身長に全身を覆うマント、エナメル・ブルーのショートヘアー。
デコボコにも見える二人の女性を確認すると、ヘルムートは気怠げに片手を上げた。
「おせぇぞ、ロザリア、アメリー」
「遅いもなにも、あんたがちゃんと連絡しないのが悪いんじゃないか。アタシらだって色々と手回しする都合があるんだからさ」
「ああ?予定の変更もないのに連絡する必要なんてねぇだろうが」
ロザリアと呼ばれた長身の女性は会って早々、ヘルムートと剣呑な雰囲気になる。はっきりとした端整な顔立ちの通り、勝ち気な性格らしい。
視線を落とし、アメリーと呼ばれた少女を見ると……。
「…………」
「あ、あの……?」
瞬き一つせず、緩く垂れ下がった眼で至近距離からアイラをじっと見つめていた。困惑したアイラが一歩下がると、アメリーは寸分違わぬ歩幅で一歩詰め寄る。それを何度か繰り返すと、アイラはとうとう耐えかね、ネイトの後ろに逃げて行った。アメリーは深追いすることはせず、ネイトの影から覗き込んで来るアイラを一瞥した後、ロザリアとヘルムートの元へ歩いて行った。
「ロザリア」
「ん?ああ、そうだね。こんな木偶の坊と言い争ってる場合じゃないね」
「木偶!?てめぇ、いつか必ず泣かしてやるからな」
「はいはい、いつでも挑戦しに来な」
片手をひらひらと振って軽くあしらい、二人は俺達の前に立った。
「アタシはロザリア・ファルシェ。ロザリアでいいよ」
顔も体も整っている美女から屈託のない明るい笑顔を向けられ、思わず心臓の高鳴りを覚えたが、茫然とした視線が下から投げられている事に気付いて平静を取り戻した。
「アメリー」
視線を合わせるや否や、最低限の自己紹介を受けた。しかし、こうして合わせて見ると、妙に圧があるな。身長差があるから大丈夫だが、もし至近距離で見つめられたら思わずたじろいてしまいそうだ。
「ここからはあの唐変木に代わってアタシらが同行するよ。そっちにも色々事情があるだろうけど、まぁ仲良く頼むよ」
差し出された手を反射的に握り返す。てっきりヘルムートが付いて来ると思っていたので、意表を突かれたといえばそうなのだが、誰が付いて来ても俺の旅の目的に変わりはないか。




