第56話
部屋のドアを開け、俺とネイトの姿を確認したアイラは眼に涙を溜めたまま破顔する。
「うぅぅ……やっと着きました」
「アイラに何を!?」
ネイトが素早く棍を構えてヘルムートを糾弾したが、状況的にアイラが何か危害を加えられたとは考え難い。
「待て待て、俺は迷子を連れてきただけだ。他に用事はねぇし、それじゃあな」
ヘルムートは呆れ顔で手を払って逃げる様に立ち去る。その後をネイトが追い掛けようとしたので、俺は腕を掴んで止めさせる。抗議の眼を向けられたが、俺から説得の言葉が告げる前にアイラが動く。
「あ、あの、ありがとうございました」
アイラは手で目に溜まった涙を拭いつつ、ヘルムートの背中に向けてお礼を言ってから改めて入室した。そこで漸くネイトはヘルムートを疑う事を止め、棍を下ろした。
「えーと、迷子だったの?」
落ち着きを取り戻したネイトから手を離してアイラに尋ねると、恥ずかしそうに俯きながら小さく頷かれる。うん、この話しはあまり深く聞かない方が良いな。
「体の方は無事?どこか痛いところは無い?」
「大丈夫です。元々怪我もしていませんでしたし」
修道士に狙われたという話しだったが、無傷とはネイトが上手く守ってくれたんだな。感謝の意味を込めてネイトに笑いかけたが、俺の意図が理解できなかったのだろう、首を傾げられてしまった。
「怪我が無いなら一先ず安心だね。それで、俺に何か用事?」
迷子になってまで俺の部屋に来たのだ、何か伝えたい事でもあるのだろう。俯いているアイラから言葉が発せられるのを待つ。
「その……ごめんなさい!わたしのせいであんな戦いになってしまったのに、皆さんばかり傷付いて、わたしだけ平気で、本当にごめんなさい!」
深く頭を下げた拍子に先ほど拭った筈の涙が床を濡らした。尤も、今流れ出た涙の理由は迷子になった事とは全く別の理由でだが。
まさか謝りに来たとは思わず、驚いている俺を置いて、ネイトはアイラの横で膝立ちになり肩を抱いた。
「あの戦いはアイラの所為などではありません。私が選んだ結果ですし、アイラに怪我が無かった事がなにより幸いです」
「そうだよ。ゴードヴィッドの事は俺が原因なんだから、アイラが気に病む必要はないよ」
ネイトに続いて慰めの言葉をかけると、アイラは頭を上げはしたものの表情には不安の色が濃く示されていた。
「カイムさんは……?」
部屋を見渡し、仲間の一人が欠けている事に気付いて小首を傾げたアイラに対し、俺はヘルムートから聞いた処遇をそのまま話した。
「大丈夫なんでしょうか?様子を見に行きませんか?」
アイラの提案に俺は僅かな間を置いてから否定の意を示した。
「俺がレゲネラツィに敵意を見せない限り大丈夫だと思うよ。それにどこに居るかも分からない状態で迂闊に動いて、レゲネラツィから不審に思われたくない」
今は友好的に接してくれてはいるが、まだ味方になった訳ではない。口頭でのみだがカイムの無事は確認できているし、ここは慎重に行動しよう。
アイラが渋々といった様子で小さな頷きを一つ返したのを見て、ネイトは俺に向き直り開口する。
「それで、エフィムはこれからどうするつもりですか?」
俺は人生で最も大きいと言っても過言ではない分岐点に差し掛かっている。選択肢は大きく分けて二つ。レゲネラツィに協力せずルシファーを教会に引き渡してしまうか、レゲネラツィに協力してルシファーと旅を続けるか、だ。
前者の場合、堕天使を自ら教会に引き渡すことである程度罪は軽くなるかもしれないし、家族への影響も小さくなるだろう。その代わり、多分一生を教会での奉仕に費やす事になる上に、レゲネラツィがどういう行動に出るか分からない。
後者の場合、俺や家族の社会的立場はかなり危ういものとなるので、身の安全はレゲネラツィ頼みとなる。加えて詳しい目的も分からないまま旅を続けるのは、精神的な負荷も相当な物になるだろう。
さっきは話しの流れもあってレゲネラツィに協力するしか方法は無いと思っていたが、冷静に考えてみればリスクが大きすぎるな。そもそも俺は天使や堕天使の争いに興味なんてないし、天子の旅をすることだってあまり乗り気ではなかったのだ。旅を止めれば、もう怖い思いや辛い思いをしなくて済む、平凡な生活に戻ることも難しくはないだろう。
襲撃に脅える日々。絶えず起こる未知の現象。単純だがその分リアルに恐怖を感じられる暴力。人を殺さなくてはいけない悲しさ。天子としての地位になんの魅力も感じない俺にとって、これまでの旅は苦痛の連続だった。ルシファーの反応が無い今こそ、一般人に戻るチャンスだ。
右手首に着けられた腕輪を触ってみると、これまでどこにあるかも分からなかった番いが外れるようになっている。いっそレゲネラツィに腕輪を渡してみてはどうだろうか。俺は厄介な荷を降ろせて、奴らは目的達成に必要な堕天使を手に入れられる。腕輪を渡す条件として、以後俺達に一切関与するなとでも提示すればレゲネラツィからの危害を危惧する必要はなくなるだろうし、後は教会さえ説得できれば俺は平穏に暮らせるだろう。
思考を巡らせれば旅を止める手段ばかりが出てきたので、一度深呼吸をして思考で籠った脳内に風を通す。そしてもう一度、自分がどうすべきか考え直す。
本心が平穏な日常を望むのなら悩む必要なんてない、面倒な旅など早く終わらせるに限る。
結論は出た。後はそれを言葉に出して、自分の意思として伝えれば良い。
重大な事を決めるからか、俺の心臓は平時より強く脈打つ。しかし、心情は不自然な程に落ち着いている。そして俺の左手は超自然的な動作で、外れかけていた腕輪の番いを確かに嵌め直した。
脳内会議では人生で一回あるかないかの満場一致で旅を止めると議決したのに、どんな不具合が発生したのか俺は旅を続ける意志を示した。ルシファーに体を乗っ取られた様子はない。確かに俺の体は俺の意思で動く。
「でっかい借りも、固い約束も、ちっぽけな誓いもあるんだ……今更逃げられない」
無意識で自分に聞かせる様に呟くと、今度は自分の中へ語り掛けるべく口が動く。無意識を意識出来ているという矛盾が発生しているが、細かいことを気にしている場合ではない。
「俺は逃げない。だから、お前も逃げるなよ……ルシファー!」
現実を理解しようとせずに逃げる楽さと辛さは十分に分かっているつもりだ。マルカの考えが分からず何もかもから目を背けていた俺に、現実と向き合う勇気をくれたのも、マユラを殺めてしまった罪の意識で押し潰されそうになっていた俺に、罪の背負い方を教えてくれたのも、他ならぬルシファーだ。
まだ一月程度の付き合いしかないが、ルシファーは俺に歩むべき道を示してくれた。ならば今度は俺が手を貸す番だ。
自分の思いを籠めて腕輪を強く握ると、腕輪は眩く発光し、ルシファーが俺達三人に囲まれる位置に出現した。
「……」
俺と向き合うように立つルシファーは押し黙ったまま、暗い表情を浮かべている。
「どこから聞いてたか知らないから一応言う。俺はレゲネラツィと協力してルシファー、お前の目的を達成させる」
俺の宣言を聞いて尚無言のルシファーに代わって質問を投げ掛けて来たのはネイトだ。
「エフィム、本当によろしいのですか?今の発言は世界中を敵に回すと宣言したようなものですよ」
「もちろん!ルシファーには俺が一番大切だと思っていたものを取り戻させてくれたからね、世界を相手にするぐらいのリスクは覚悟できてるよ。それに、この旅を続けるか止めるかは、もう俺一人の都合で決められるものじゃないんだ」
ちらりとアイラの方へ視線を向けると、胸の前で手を組んで心配そうに事の成行きを見守る姿が確認できた。
俺がここで無責任な選択を取れば当然、アイラは教会の手によって監禁される。それではマユラとの約束を最悪の形で破ることになってしまうし、考えて悩んで叫んで泣いて漸く掴んだアイラの自由を……いや、他人を都合の良い言い訳に使うのは止そう。考えて悩んで苦しんで叫んで怒って泣いて諦めた先に訪れた、運命ともいえる可能性を掴んだ俺の努力を無駄にしたくない。
正直謎の多いカイムだが、俺の仲間であることに違いはない。共に旅をしている時間は短くとも、カイムに助けられたのは一度や二度ではない。戦力的にも精神的にも頼りになる仲間だ。一緒にいると自分の未熟さを痛感でき、それ故に成長も実感できる。だからこそ、非力な俺でもレゲネラツィとの因縁を解決する手助けをしたい。
両親に捨てられ、教会という極限られた世界でしか生きてこれなかったネイトに世界を見せてあげたい。十六歳にしては大人び過ぎた彼女に、もっと少女らしい楽しみを見つけてほしい、見つけていきたい。教会の教えに従って世のため人のため奉仕してきた彼女に、人間らしい温かな生活を教えたい。ツァピン司祭と約束したのは世界を見せることだけだが、そもそもこの約束は司祭としてではなく育ての親として約束したことだ。加えてツァピン司祭は、今の教会が世界を統治している現状に不満を抱いている。ならば、ネイトが宗教に縛られることのない、一人の少女としての生き方を見付ける手伝いをしても怒られはしまい。もちろん、本人の意思が最優先だ。
この旅で俺が絶対に守らねばならない約束。それはマルカと交わした「絶対に無事で帰る」だ。正直、この約束を守るだけなら、今すぐルシファーを手土産に教会へ懺悔でもしに行けば良い。だが、与えられた使命をそんな中途半端に終わらせて帰って、マルカに慕われる兄でいられるだろうか。自責の念でまた逃げてしまわないだろうか。今まで散々情けない姿を見せてきたから、少しは自分で自分を誇れるように、妹に慕われて恥ずかしくならないように、俺は成すべき事を成したいと思う。
様々な思いが体内で渦巻き、やがて一つの線になると、線は選択を決意に変える芯となって胸の奥に浸透していった。
「俺はこの旅で皆とやりたい事がまだ沢山あるんだ。堕天使を宿しているからといって、叶う筈だった未来の可能性を潰されたくはない!」
強い意志を瞳に宿して言い放つと、ルシファーは目を見開いて驚くが直ぐに何かを悟った様な、安心したかの様な表情に切り替わった。
「未来の可能性か……」
独り言を呟いて納得していると思ったら、歯を見せる笑みを浮かべながら俺の頭を乱暴に撫で始めた。
「お、おい、何するんだ」
圧迫感と髪が鈍く擦れる音に不快感を覚えながらルシファーに問い掛ける。すると、ルシファーは表情を変えずに手を止めて答えた。
「わりぃわりぃ、憂いが晴れてつい、な」
「それは良かった。なら、そろそろルシファーの本当の目的を教えてくれないか?」
「ああ、いいぜ。俺の目的はな、神を殺すことだ」
「へ?」
聞いたのはこちらなのだが、ルシルのあまりにも軽い物言いに思わず声が漏れた。天使だった頃にも一度神に挑んだらしいので、目的自体はどちらかと言えば予想の範囲内といったところだ。しかし、今まで隠して来た事をまるで昨日の夕飯に何を食べたか話すかのようなノリで明かされては、逆に反応に困ってしまう。
「それは一体何の為に?」
半眼を僅かに細めたネイトが問うと、ルシファーは俺の頭から手を離してベッドに腰掛けた。
「それはな…………するためだ」
神を殺す理由。それは確かにルシファーの口から告げられた筈なのに、俺の耳が声を捉えることはなかった。不思議に思い眉をひそめると、ルシファーは俺が何を言いたいのか分かっているようで、今の現象について説明を始める。
「聞こえてなくても心配すんな。人間は世界の在り様を他人から聞かされないように創られているんだ」
自分達が住む世界の事を伝えられないなんて、この世界には何か知られてはいけない秘密でもあるのだろうか。世界を創造した神がわざわざ残した、もしくは残さざるを得なかった秘密。
考えても分かる筈がない秘密に頭を悩ませていると、ネイトがおもむろに口を開いた。
「では、ルシファーの言葉を聞きもらすことがなかった私は神の創造物、人間ではないのですね」
予期せぬ所から投げられた言葉は部屋の空気に大きな波紋を立て、あまりの衝撃にその場に居た全員の時が止まったかのように思えた。




