第55話
仲間であるネイトが登場したにも関わらず、部屋の空気は重く張り詰めたものになっていた。突きつけられた棍先とネイトをそれぞれ一瞥した後、助けを求めるべくヘルムートへ視線を投げるが、助け舟の船長は気の向くまま、風の向くまま舟を遊ばせていて当てにならない。俺は背中に嫌な汗を浮かばせながらも正直に話すことにした。
「ルシルの真意は俺だって知りたいよ。けど、何度呼んでも返事すらしないんだ」
「正体がばれた以上、隠し通せることではありません。観念して出てきてはどうですか」
額擦れ擦れまで突き出された棍に圧迫感を覚えずにはいられない。俺ではなく俺の中にいるルシルを糾弾しているのは分かるが、ネイトの冷たく据えた半眼に見入られると、有りもしない罪を懺悔したくなってくる。
「そ、そうだ。ルシル……じゃなくてルシファーだっけ?堕天使って言うけど具体的にはどんな奴なんだ?」
天使の名前も碌に知らない俺が、謎の多い堕天使のことを知る筈もない。教会でルシファーがどのように語り継がれているのか分かれば、真の目的が少しは見えてくるかもしれない。
苦し紛れとも取れる俺の質問に、ネイトは無言で間を置いてから静かに棍を下げた。
「黎明の四大天使の一人で、神に最も愛されし天使。神が人を創造した際、配下の天使達と共に反逆を起こすものの敗北し天界から追放された、と私は教えられました」
強力な力を持っているとか言われたり、妙に自信家っぽいところがあったりしたが、まさかそこまで上位の天使だったとは思わなかった。しかし、そうなると益々堕落した理由が分からない。神に愛され、力も与えられた。敗北はしたものの、神への反逆に賛同してくれる天使も居たというのなら、周囲からも信頼されていたのだろう。一体、ルシファーは何が不満だったのだろうか。
「とにかく、一度リュンリグネに戻りツァピン司祭に事情を説明しましょう」
棍が床を叩く音で思案に耽っていた俺の意識は現実へ引き戻された。ゴードヴィッドではウリエルの存在もあってか、問答無用で殺されそうになったが、ツァピン司祭なら話しぐらい聞いてくれるだろう。いつまでも堕天使を宿していては、俺だけでなく家族にまで有らぬ疑いを掛けられかねない。俺がネイトの意見に賛同しようと視線を合わせるも、ヘルムートが話しの終着を許してはくれなかった。
「悪いがこの船はカサパジェズ行きだ。他の国に行く選択肢はねぇよ」
鳥人国家カサパジェズはゴードヴィッドの次の目的地ではあったが、ルシファーが堕天使と分かった以上、予定通り旅を続ける訳にはいかなくなった。レゲネラツィの協力を受けるか否かを決める為にもリュンリグネに帰りたいのだが、俺が提案するより早くヘルムートが言葉を繋いだ。
「船の中で仲間と相談するぐらいなら構わねぇが、寄り道までさせる余裕はねぇんだよ。俺らに協力するってんなら、カサパジェズに着いた後も面倒を見るが、断るってんなら後は知らねぇ。自力でリュンリグネに帰るなり何なり好きにしな」
「そんな……」
天使だと思っていた相手が本当は堕天使で、味方だった教会が敵になり、敵だったレゲネラツィが味方になる。予期せぬ出来事が起こるばかりで、ルシファーやレゲネラツィの目的は分からない。これからの指針を決めるにはあまりにも急展開で、圧倒的に情報が足りない。正直、ヘルムートやネイトの話しを聞いて混乱せず、平静を保っていられるのが不思議なくらいだ。
「仮に今からリュンリグネに向かったとして、何日かかると思ってんだ?お前が着く頃にはとっくに家族が人質にされてんぞ。そんな状況でお前は何かできるのか?」
「……レゲネラツィは俺の家族を保護してくれるのか?」
「もちろん。教会や天使が束になってきたって守り切れる。そう言い切れる奴が、今もお前の家族を警護してる」
家族を人質にしているのはどっちだよ。と言いたくなるのを抑える代わりに肩を竦めて見せる。今すぐレゲネラツィを信じる事なんて出来ないが、大切な家族を守るためには他に方法がない。俺はベッドから降りて、椅子に座るヘルムートを見下ろす。
「分かったよ、レゲネラツィに協力する。だから絶対に家族を守ってくれ」
「了解」
初めからこの展開になると分かっていたのだろう、ヘルムートはしたり顔で手を差し出してくる。その手には紫色をした双三角錐の石が乗せられていた。
「仲間の証だ、受け取れよ」
俺が石を受け取ろうと手を伸ばすが、横から突き出された棍によって阻まれた。自然と意識は棍の持ち主、ネイトへ向けられる。
「エフィム、考え直してください。あなたの命を奪おうとしてきた相手を、そう簡単に信じて取り返しのつかない事になったらどうするのですか?」
「俺も信じられてるわけじゃないよ。けど、このままじゃ確実に俺の家族は教会に捕まる。今はレゲネラツィの力を借りるしか方法はないんだ」
俺個人が教会に追われ、貶められるなら協力を断ったかもしれない。家族が人質にされるというのも予測に過ぎないが、教会都市で熾天使相手に暴れたのだ、教会側も俺を捕まえるのに手段を選ばないだろう。事態は俺が一人で解決できる範疇を超えているのだから、敵味方や信用などを気にしている場合ではない。協力してくれる者には遠慮なく協力してもらう。
「私が心配しているのはエフィム自身の事です!レゲネラツィに協力するという事はルシファーの目的を達成させるという事でしょう。分かりもしない目的のために自身を危険に晒す必要があるのですか!?」
後頭部を木槌で叩かれた様な衝撃が俺を襲った。自分の安全など、言われなければ気にも留めなかっただろう。自己犠牲の精神など持ち合わせていないが、自分が大切に思っているものを守る為ならば、多少の不利益を被る覚悟くらいはある。
「俺だって何が起きているのか、何が起こるのか分からないし不安だよ。けど、今の状況を作ったのは俺とルシファーだからさ、少しくらい危険でも我慢しないといけないし、やっぱり俺は家族が大切なんだ」
ネイトは困惑した表情で尚も俺を説得しようと口を開くが、言葉が見付からないのだろう、声は発せられないまま口だけがもごもごと動くだけだった。その代わりとでも言うようにヘルムートが立ち上がって、俺との間に突き出された棍を静かに払い除けた。
「カサパジェズまであと一日ある。それまでにどうするか決めておけ」
俺の腕を乱暴に掴み、無理矢理に紫の双三角錐を握らせるとヘルムートは足早に部屋を後にした。
ネイトに声を掛けようとしたが、俯いて考え事をしている様子だったので俺は渡された紫の双三角錐へ視線を落とす。すると、ヘルムートが去り際に言った言葉が蘇る。
「どうするか決めないとな」
誰にも聞こえないぐらいの小声で復唱し、顔を上げる。ここで黙っていてもネイトとの蟠りは消えない。
「ネイトはこれからどうするの?俺はもう天子じゃないし、教会に戻るの?」
重々しく顔を上げたネイトは視線を泳がせた後、ゆっくりと口を開く。
「ゴードヴィッドでアイラを守る為に教会へ反抗しました。天使に命じられたわけでもなく悪魔に加担したとなれば、もう教会に戻ることはできません」
「で、でも、それは俺が堕天使を宿していると知らなくて、天子としての俺の意思に従ってくれたんでしょ?それならまだ……」
俺が全てを言い切る前にネイトは首を横に振った。
「修道士から、ルシルは天使ではなく堕天使ルシファーであると知らされました。アイラを守ろうとしたのは純粋に私の意思です」
「どうして……。アイラを守ってくれたのは嬉しいけど、そんな事をしたらネイトやツァピン司祭の立場が悪くなるって分かってた筈なのに」
ネイトが教会に仇なせば、教育者であるツァピン司祭も謀反人と疑われる可能性が高い。生真面目にも思えるネイトが、修道女としてどころか人として育ての親である者に対し、理由もなく不義理を働くとは到底思えない。
「修道女になったその日から、今の教会の在り方は間違っていると教えられてきました。天使の言葉を信じ、逆らう者は等しく罰するという、人が持つ思惟の力を殺した世界に訪れるのは無価値な停滞であると」
「ツァピン司祭がそんなことを?」
肯定の頷きをし、ネイトは話しを続ける。
「大司教となって大聖堂に仕えている間に疑念を抱いたそうです。本来、神の教えを伝え人の生きる可能性を導くはずの教会が何故、人が生きるための世界を作り、管理する存在となってしまったのか」
信仰心が薄いからかもしれないが、それには同意したい。教会が世界を統治してから目立った争いは無くなったが、どうにもこの平和が与えられている物のように思える。平和なことに不満を抱くのは人が持つ強欲さかもしれないが、おかしい事をおかしいと感じられるのも人が心を持っているからだ。
「世界中の教会を統べる大司教といえど、天使が築いてきた社会体制を改変する力は持っていません。寧ろ、そのような事をすればたちまちに権威は失墜してしまいますが……」
語尾が弱々しくなると共に視線も伏せられていく。恐らく、今ネイトが口にした事こそツァピン司祭が今の立場に墜ちた理由なのだろう。
「司祭からは人として正しく在れと強く教えられてきました。私がアイラを教会の手に渡さなかったのは、正義を信じ悪を罰する事しか考えられない修道士よりも、人の痛みや苦しみが分かるアイラが尊いと思ったからです」
今しがたの弱々しい態度はどこへやら、俺の眼を真っ直ぐに見据えるネイトの半眼には確固たる意思の強さが見て取れた。すると、話題に出てきた人物が丁度良く部屋に入って来た。何故か半泣きで、後ろにヘルムートを連れながら。




