第54話
辺り一面に広がるのは炎の赤色だった。地面も空も、前も後ろも炎々と燃え盛っているのに何故か俺の体には燃え移らない。熱は髪の先から爪先まで伝わっており、もしかしたら燃えているのは空間ではなく自分自身なのではないかと疑ってみるが、衣類が焼けている様子はなく、皮膚からは体を冷やそうと律儀に汗を流している。
一体どうしてこんな所にいるのか、熱で朦朧とする頭が動くより先に足が前へ進んだ。目と鼻の先、手を伸ばせば確実に届く距離に炎が逆巻いているが、どれだけ進んでも炎に接触することはできない。一歩進む毎に足の裏が溶け、激痛を訴えるが俺の体は進むことを止めない。
熱い痛い熱い痛い熱い痛い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い……!
痛覚が熱に燃やされてからどれくらい歩いたかは分からないが、不意に足が何かに取られて体がよろめいた。自分の体が溶岩の中にゆっくり沈んでいると理解できたのは、足元に視線を向けてから数秒経ってからだった。既に膝下までが溶岩に呑まれ、脱出は不可能。というより、元より脱出する気などなかった。この灼熱の空間から解放されたい一心で、早く全身が溶岩に呑まれてくれとすら思った。
二、三分程で俺の体は跡形も無く溶け去り、無音の暗闇だけが永遠に続くと思われたその時、溶けたはずの視力が一筋の眩い光りを捉えた。光りは真っ直ぐ俺に向かって進み、視角から察するに心臓の位置から体内に入っていった。
鼓動。体の中で大太鼓でも叩いたかのと思う程に大きく存在感のある音が聞こえ、熱が人型をなぞった。熱はつい数分前まで体に纏わりついていた不快な物ではなく、温かで心地の良い血潮だ。
体全体に血流が回り、あらゆる感覚が蘇って来る。指先と足先から伝わる、サラついた布の感触。後頭部からは柔らかさの中に僅かな反発感。脱力した体が受け止められ、穏やかな温もりに包まれていると分かると、自然に目蓋が開いた。
白い天井を茫然と見つめていると徐々に意識が覚醒していく。思い起こせる記憶の中で最も新しいのは、ウリエルと対峙するカイムの背中。今こうして自分が生きているということは、カイムが上手いこと逃げ果せてくれたのだろう。
見に纏う服はいつの間にか白い入院服に変わっていて、左腕に刺さる注射器からは細い管が伸び、ベッドの傍らに準備された点滴装置に繋がっている。一定の間隔で垂れ落ちる液体を眺め、清爽に切られる波の音を聞いていると、体の力が抜けて目蓋が重くなってくる。
「波の音?」
消えかけた意識の中で残った微かな違和感が、俺の意識を完全に覚醒させた。上半身を起こして窓の外へ視線を向けると、そこには青い海が悠然と広がっていた。空の明るさからして、時刻は昼前といったところか。
ゴードヴィッドから船で脱出したと思うも、どこか妙だ。ウリエルや教会の連中に追われながら船を奪取するのは至難の業だろうし、ましてや堕天使に協力するような人間がゴードヴィッドに居たとも思えない。
部屋の内装は白く清潔感があり、ベッドの他には木で出来た椅子と机がワンセットと、部屋の隅に置かれた観葉植物。特別豪勢ではないにしろ、体を落ち着ける事は十分であり、聞こえてくる波の音に反して揺れが小さいことから、船の性能も上々だと捉えて良いだろう。しかし、自分が何故このような船に乗っているか考えるのは後回しだ。最優先で考え、聞き出さねばならぬ案件がある。ルシルが堕天使ということの真偽を確かめねばならない。
眼を閉じて集中力を高めた上で、頭の中でルシルを呼ぶものの応答はない。ウリエルに受けた傷がまだ癒えないのかとも思うが、簡単に引き下がる訳にはいかない。ルシルが堕天使か否か、本当の目的は何か、今ここで全てを聞き出す必要がある。俺個人だけならまだしも、仲間や家族にまで不幸が訪れるとしたら早急に対策を考えなければいけない。
「おい、ルシル!いい加減に答えろ!」
焦りと怒りが混じり合い、冷静さと共に声を吐き出した。けれどルシルは実体化することも、頭の中に声を響かせることもしない。苛立ちを抑えきれなくなった俺は、左拳で右手首に装着された腕輪型の神器を殴った。
「くそっ……」
尚も反応を見せないルシルはこの際無視して、ルシルが堕天使であった場合の展開について考えよう。頭を振り、深呼吸をして思考を切り替えると、それを見計らったかのように部屋のドアが機械的な音を立てて横にスライドして開いた。
「お、お前は!」
部屋に入ってきた男を見て思わず声を荒げて立ち上がり、ベッドを挟む様にして男と距離を置く。立ち上がった拍子に腕から注射針が抜け、腕に細い一筋の血が流れたが気にしている場合ではない。
俺の警戒を受けた男は入口で立ち止まり、隻眼の視線を呆れた様に逸らした。
「その反応も当然っちゃあ当然だが、もう少し相手の姿を見ろよな」
左目を眼帯で隠し、Tシャツに長ズボンというラフな格好の男は、両手に持っていた水差しとコップを俺に見せると、それらを机の上に置いた。確かに、危害を加えに来た者の姿とは思えないが、幾度となく俺を襲撃して来た眼帯の男を前に、気を緩める事など出来る筈もない。
「どうしてレゲネラツィがここに?」
「そりゃあ、この船が俺らのもんだからな」
「え?」
言葉は理解できたものの、状況がさっぱり分からない。今まで明らかな敵対関係にあったレゲネラツィがどうして俺を助けたのか。いや、そもそも助けられたのかすら怪しい。傷の治療はされているが、点滴でどんな薬を投与されたか分かったものではない。
逃走の手引きをしたのがカイムならば、ネイトやアイラも無事にこの船に乗っていると思っていたが、そんな楽観も今はできない。レゲネラツィの狙いが俺だけで、他の仲間はゴードヴィッドに置き去りという事態も十分に有り得る。
注射針で開けられた穴を抑えながら押し黙っている俺を見て、眼帯の男は無作法に後頭部を掻いてから椅子に座った。
「点滴は単なる輸液をしただけだから安心しな」
眼帯の男はコップに水を注いで差し出し、顎を軽くしゃくらせて座るように促してくる。
これまで問答無用で襲って来たくせに「安心しな」とはよく言えたものだ。しかし、このまま警戒していたところで事態が好転するわけでもないし、何より状況を把握することが最優先だ。俺は静かにベッドの上であぐらをかいて座り、差し出されたコップを手に取って水を一気に飲み干した。水は程よい冷たさで、喉から胃にかけて清涼感が吹き抜けて行き、休止状態だった内臓が漸く動き始めた気がした。
「へぇ、意外と思い切りが良いじゃねぇか」
隻眼を細くして僅かに表情を和らげると、片手を差し出して来たのでコップを渡す。水が注ぎ直され、コップは再び俺の手に渡る。
「今の俺にはそっちの施しを受け入れる以外の選択肢が無いからな。それより、聞きたいことがある」
「ああ、俺もお前に色々話す為にここに居る。なんでも聞いてくれや」
眼帯の男は机に片肘を置いて頬杖を突く。お世辞にも真面目な態度には見えないが、構わず話しを進めるとしよう。
「じゃあ先ずは、俺の仲間達は無事なのか?」
これは最初に確認しておく必要がある。俺の所為で危険な目に遭わせてしまったのに、助けられたのが俺だけとなっては堪ったものではない。
「もちろん仲間も回収して治療した。修道女とチビッ子は別室で休ませているが、カイムに関しては上の命令で拘束している」
拘束という単語に思わず体が反応してしまうが、カイムは元々レゲネラツィと因縁があるのだし、相手側からしたら当然の対応なのだろう。
「拘束ったって、手足に錘付けたり壁に張り付けたりはしてねぇからな?単に部屋に鍵掛けて見張りを置いてるだけだ」
俺の不安を払う為の補足に頷きを返し、二つ目の質問へ移る。
「どうして俺達を助けたんだ?今まで散々襲って来ておいて、どういう風の吹き回しなんだ?」
「あー……なんつーか、元々お前を狙ってたのは俺個人の行動だったんだが、上がお前の宿す堕天使に興味を持ってな、協力関係を築くように言われている」
視線を泳がせ言葉を探しながら告げられた答えには、思わぬ収穫と新たな疑問をもたらした。ルシルが堕天使だったということに落胆と憤りを感じたが、水を一口含んで腹の底に落ち着かせる。そういえば、レゲネラツィは地上にいる天使を等しく堕天使と扱っているんだったか。ならばまだルシルが堕天使と決まったわけではない。……限りなく黒いけど。
「上に命令されたからって、そんなに簡単に態度を変えられるとは思えないな。おま……じゃなくて、えーと……」
敵対していたとはいえ、命を救ってもらった相手をお前呼ばわりするのは憚られる。俺が口籠る理由が分からないのか、眼帯の男は怪訝そうにしているだけで口を開く様子は無い。
「名前、教えてくれないか?」
「あん?そういや名乗ってなかったか、ヘルムートだ」
ぶっきらぼうな名乗りだが、俺も返さぬわけにはいかないと思い名乗ろうとしたが、ヘルムートに「知ってる」と言われたので話しを戻す。
「ヘルムートは随分と俺、というかルシルの事を恨んでいた様子だけど、その辺は割り切れているのか?」
「地上に居る堕天使は皆殺しにしてやりたいところだが、上に協力しろって言われれば協力する。っていうか、命令に従わねぇと何されるか分かったもんじゃねぇ」
頬杖を止め、腕を組むヘルムートはわざとらしく身震いして見せる。レゲネラツィの組織体制がどうなっているかは分からないが、私怨を抑え込ませる程度の統率力はあるようだ。確かリーダーの名前はシュバルツだったか、その男についても聞きたいことはあるが、まだ自分の状況について把握し切れていないのに話しを広げるのは悪手だろう。
「協力関係というのは具体的にどうするつもりなんだ?」
「お前らがやってる堕天使探しを全面的にサポートする。今まで情報や資金なんかは教会頼みだったろ?それを代わりに俺達がやってやる」
「……条件は?」
敵だった組織が何の前触れも無しに協力を申し出るのは、相応の見返りを求めてのことだろう。旅の全面的なサポートというぐらいだから、即自的な物ではなく将来的な利益が目的だと予想する。
ヘルムートを真っ直ぐに打ち守って返答を待つ。そして、一拍置いて告げられた条件の内容は……
「特にねぇよ」
「え?」
無駄に間を置かれただけに、不意を突かれた感は二割増しだ。無意識で出た間抜けな声に、ヘルムートは意地悪く笑みを浮かべて見せた。
「単純な話しだ。お前の宿している堕天使の目的が達成されれば、レゲネラツィの目的達成に近付く、だから協力する」
「ルシルの目的……」
俺が知っているのは「部下を連れて天界に帰る」というものだが、多分これは表面的な理由に過ぎないのだろう。前にカイムから聞いた話しでは、レゲネラツィの目的は旧世界の再生らしいが、世界を再生する手段など見当も付かないので、やはりルシルの真の目的は予想する事すら難しい。
「強いて条件を挙げるなら、カイムを同行させろってことぐらいか」
顔を下げて思案する俺を置き去りにして告げられた条件に、少し遅れながらも脳が反応した。
レゲネラツィが協力するとなれば、カイムは間違いなくシュバルツとの対面を望むだろう。二人の間にどんな因縁があるかは知らないが、シュバルツの方はカイムとの接触を避けている様子なので、俺と共に行動させることで監視の手間を省こうといったところか。
「ほぼ無条件で協力してくれるのはありがたいけど、やっぱり今まで敵対してきた相手を簡単に信用できないな。一度皆と話しをさせてくれ」
レゲネラツィの協力に関しては一旦保留にして別の質問に移ろうと思ったのだが、ヘルムートは後頭部を掻きながら低く呻くようにして悩んで見せた。
この場で可否を決めなくては何か不都合でもあるのだろうか。そう口に出そうとした瞬間ドアが開かれ、俺とヘルムートの意識は入室者に向けられる。
「堕天使ルシファー、貴方の真意を明かしてもらいます」
入室して来たネイトの無事を喜ぶより早く、俺の眼前には明確な敵意を持った棍が突きつけられた。




