第52話
視界に映る光景は、戦いと呼ぶには余りにも一方的な暴力だった。速度は互角だが、力は段違いにウリエルの方が上だった。重い風切音を鳴らして放たれる拳や脚を躱して渾身の一撃を叩き込んでも、翼に跳ね返されるか、当てた攻撃の何倍もの威力の攻撃が返ってくる。
光線や光りで精製した武器を使っても、羽虫を叩き落とすどころか落ち葉を避ける程度にしか扱われない。
どう見ても勝ち目などない。ルシルが堕天使なのか、本当の目的は何なのか、聞きたい事は多い。しかし今は逃げるのが先決だ。
俺の思考とは裏腹に、ルシルは激情した表情でウリエルに立ち向かう。
「っらぁ!」
ルシルが自身を鼓舞する様に声を上げて殴り掛かるも、ウリエルに手首を掴まれ簡単に投げ飛ばされる。民家の壁に衝突するより早くウリエルが追い付き、腹を豪快に蹴り上げられた。更に翼を羽ばたかせて上昇して来ると、固く組んだ両手を思い切り振り下ろす。背中を強打され、声にならない悲鳴を上げた時には既に、凄まじい衝突音と粉塵が巻き上がっていた。
「ぁ……くっ……そ……」
「(おい、ルシル!起きろ!)」
体に纏っていた白い光りは消え去り、額からは止めどなく血を流している。勿論、出血しているのは額だけではなく全身だ。内出血と外出血の違いはあれど、どこもボロボロで無事な場所を見付ける方が難しい。
悲惨な自分の体と消え入りそうな呻き声を上げるルシルを目の当たりにしても、真っ先にルシルを呼び起こそうとしたのは、ウリエルが羽ばたき一つで粉塵を払い、急降下してきたからだった。
今からルシルが起き上がっても回避は間に合わないし、防御も不可能だ。中途半端に意識が残っている所為でルシルと交代する事もできない。尤も、今俺が変わったところで何かが変わる訳でもない。ただ黙って、数瞬後に訪れる死を黙って待つしかなかった。
ルシルが何者なのかは……地獄で聞けば良いとして、ネイト達がどうなったかが気掛かりだ。知らなかったとは言え、修道女が堕天使と共に行動していたならお咎め無しとはいかないだろう。結局アイラにはぬか喜びしかさせられなかったし、地獄ではマユラの恨みで悪魔も目を逸らす程の苦行を強いられるだろう。カイムにも迷惑をかけるな。折角、稽古もある程度形になってきたし、アイラとも打ち解けられたのに。
死を覚悟してからは時間が恐ろしい程長く流れ、不思議なくらい思考が滑らかに廻った。真っ先に思い浮かんだのは仲間達への謝罪だが、俺が一番謝りたいのは他にいる。
「ごめん……約束、守れなかった……」
悔しそうに、だが落ち着いた声が俺の口から洩れ、マルカの笑顔が見えた。脳が思い出しているのか、幻覚を見ているのかは分からないし、どちらでも良い。あの笑顔を最期にちゃんと思い出す時間があって良かった。
死を受け入れて目を閉じると同時に、炸裂音が鳴り響いた。
最初、炸裂音はウリエルの攻撃によるものだと思っていた。だがどうだろう、時間が経つに連れて全身が焼けるように熱いのが分かり、指を動かそうと僅かに力を入れただけで体中の筋肉が引き裂かれるほどの激痛を感じた。
そう、熱や痛みを感じており、真っ暗な視界の奥では心臓の鼓動が確かに鳴っていた。生きている。
鉛のように重くなった目蓋を開け、霞みがかった世界が次第に明確に浮かび上がってくる。
俺を守るように立つ深緑色の背中の周囲には、緑と黒と青の三つの球体が逆三角形を結ぶ様に浮かんでいる。そして、右手の散弾銃は正面に向けられていて、左手の片刃剣は肩に担ぐように持っている。
「カ……イ、ム……」
掠れた声を絞り出して前に立つ人物の名前を呼ぶ。簡単に聞き逃してしまいそうなほど小さな声だったが、カイムの耳にはしっかりと届いており、正面を注意しながらこちらを振り向いてくれた。
「エフィム、少しの間耐えてくれ。直ぐにこの場を離れる」
カイムの声は確かに聞こえていたのだが、返事をする気力がない。カイムも俺の状態を察して、それ以上声を掛けようとはしなかった。
「鉄の弾ごときで、我を止められると思うなよ人間。堕天使ごと葬ってくれる!」
多少離れた位置に居たウリエルだったが、翼を一度羽ばたかせただけで瞬時にカイムの目の前へ移動して来る。傭兵として腕は立っても、所詮はただの人間。天使の戦闘に付いていける筈もなく、振り下ろされた鉄槌に脳天をかち割られる。そう思われたが、ウリエルの拳がカイムに触れた瞬間、カイムの体は一陣の風と共に消え去り、いつの間にか左手の剣を横に薙いだ体勢でウリエルの背後に立っていた。背中に浮かんでいた緑の球体は暗く沈んだ色に変わっている。
「なに!?」
驚愕しつつも攻撃の手は緩めない。背後へ振り向くと同時に鋭い裏拳を放つ。だがこれも、直撃するより一瞬早く、カイムの姿が闇に溶けたので空振りに終わる。
「ぬぅっ!どこだ!?」
不愉快そうに顔をしかめるウリエルの上空からカイムは音も無く急降下し、翼に着地すると間髪入れず背中に片刃剣を突き立てる。不意の一撃で致命傷を与えたと思われたが、片刃剣は固い金属音を立てて弾かれてしまう。
「ちっ!」
片刃剣を構え直して今度は首筋を狙うが、何時までも攻撃のチャンスを与えるほどウリエルは寛大ではない。荒々しく翼を羽ばたかせ、辺りに衝撃波を飛び散らせながらカイムを振り落す。
カイムが身を翻して着地したのと、ウリエルが怒りの形相で真っ赤に燃えた右手を突き出したのは同時だった。灼熱の火炎が地面を溶融させながら迫って来るのに対し、カイムは赤い水晶を口に咥え、両手の武器を交差させて詠唱を唱える。
「具現せし水の魔力よ、我が身に及ぶ阻遏の濁流を受け流せ」
カイムの周囲を透明な球状の膜が覆い、火炎とぶつかり合う。激しいせめぎ合いが展開されると思いきや、水の膜は火炎を受け止めようとはせずに、左右と上に分けて受け流していた。
「矮小な人間が下賤な魔術で我が炎と対峙するなど、身の程を弁えろ!」
激昂し、左手からも火炎を放つ。二本の火炎は重なり、太さや威力は二倍以上に跳ね上がる。
熱で揺れる視界に吐き気を催しつつも、よろめく事はせずに必死に堪えるカイムが背中の三つの球体へ視線を向ける。緑と黒の球体は綺麗に色付いているが、青の球体は色素を殆ど失っており、今まさに消えるところだった。カイムが正面に視線を戻すと同時に青の球体と水の膜は消え、灼熱の業火が全てを溶かした。
「ふん、余計な手間を掛けさせてくれる」
無慈悲にも民家や商店は跡形も無く焼却し、ただ灼熱の道だけが残されているのを確認してからウリエルは両手の火炎を止め、ルシルに止めを刺すべく振り返った時だった。上空から何者かの気配を感じ、咄嗟に左腕を上げて振り下ろされた片刃剣を受け止めた。
「貴様、また小細工を!」
「これが人間のやり方だ!」
睨み合う視線と短い言葉を交わし、カイムが仕掛けた。咥えていた赤の水晶を噛み砕き、溢れ出た火の魔力を片刃剣に纏わせる。
「おおおっ!!」
燃え盛る炎と闘気で、僅かだが攻撃を阻む腕を押したが、不意にウリエルが鼻を鳴らした。
「ふっ、やはり魔術は下賤な代物。真の炎とはこういう物だ!」
赤熱させた右手で躊躇なく片刃剣の刃を掴むと、まるで飴細工の様に刀身は曲がって熔解したが、驚愕したのはウリエルの方だった。いつの間にかカイムの姿が消えていたのだ。
「生憎、天使と術比べは遠慮させてもらおう。私はただの人間なのでな」
戦場には似つかわしくない爽やかな風がウリエルの頬を撫でると共に背後から声を掛けられる。
最上位の天使である熾天使が背後を振り返り、そこで目にしたのは人類が生み出した殺戮の銃口だった。




