第45話
「悪魔を宿した娘の平穏ですか……」
静寂を破って放たれたブレーンス司教の言葉は俺の耳に重く響いた。ブレーンス司教の顔からは既に愛想笑いが消え失せ、本来持ち合わせている厳格さを露わにしていた。視線は鋭く威圧的で、思わず気後れしてしまいそうになる。
「悪魔を宿しているからといって、アイラの人生を奪って良い筈がありません。神や天使を信仰する教会ならば、ただ封じる事だけでなく、悪魔に憑りつかれた人を救う方法を探すべきです」
言葉を発すると共に一歩前に出て自分の意志を示すが、ブレーンス司教は身動ぎ一つせず、真っ直ぐに俺を見据えていた。
「その娘を閉じ込めることが、この世界に住まう人々を救う唯一の手段なのです。悪魔の禍々しい力は、直接対峙した天子様がよくお分かりでしょう?」
「確かに、あの悪魔の力は尋常ではありませんでした。しかし今はマユラが、妹が命と引き換えに悪魔を抑えているんです!特別な術を持たない少女に出来て、世界を統治する力を持つ教会が、悪魔を封じる事ができない筈はないんです!」
俺が声を荒げると、ブレーンス司教はとうとう厭わしそうに眉を顰めた。
「特別な術を持たない?妹の方は悪魔がこの世に生まれる為に生み出された、言わば悪魔の分身なのでしょう?今はその娘の中に潜んでいて、機を伺っていると考えるのが妥当だと思いますが」
言葉で説明を受けただけなら、そう考えるのが妥当なのかもしれない。だけど、俺は見たんだ。マユラが気を失っているアイラを大切に抱きかかえる姿を。俺にアイラを助けさせる為にわざと悪魔に憑りつかれた振りをした事も。アイラが死を受け入れた時に泣いて俺に助けを求めた事も。最期にアイラの幸せを願った事も。
「……ブレーンス司教の言う通りで、全てが悪魔による演技だったのかもしれない。けど、誰かの為に怒って、泣いて、幸せを願えるのに天使も悪魔も人も関係ない!アイラにとってマユラはずっと一緒に生きてきた家族なんだ!家族が一緒に暮らすのに、他人が邪魔して良い理由なんてどこにも無いんですよ!」
「理由なら十分にあるでしょう。四年前テイングを襲った厄災、そして天子様が身を以って体験されたサンヤスクの崩壊。天子様がどれほどその娘を庇おうとも、悪魔が人を脅かす存在であることに変わりはありません。それに悪魔を封じる事は、四年前の厄災から我々を救ってくださった天使様の決めた事なのです。私が司教である以上、天使様の決定に背く事は断じて出来ません!」
互いに譲らぬ睨み合いを続けていると、アイラがおずおずと俺の横に立った。
「エフィムさん、もう十分です」
「え?」
思わぬ介入に今までの剣幕が台無しになるぐらい間抜けな声が出てしまった。
「司教さんの言う通り、わたしは存在しているだけで周りを不幸にしてしまいます。だから、やっぱりどこかに閉じ籠っているべきなんです」
「駄目だ!それじゃあアイラが不幸になるだけだ!自分を犠牲にする必要なんてない!」
また救えないのか?そんな言葉が頭を過ぎり、血の気が引いて行くのを感じながらも額からは一筋の冷や汗が流れた。俺の不安を察したアイラは両手を胸元に当て、優しく微笑んで見せた。
「不幸じゃありませんよ。エフィムさんが、わたしとマユラは家族だと言ってくれて嬉しかったです。今のわたしはマユラと一つになっています。サンヤスクでは離ればなれでしたけど、今度は二人一緒です。家族と、妹と一緒ならどこに居たってわたしは幸せです」
アイラは微笑みを崩そうとしなかったが、眼には段々と涙が湧き上がってくる。言葉の最後の方では、微笑んでいるのか涙が零れないように堪えているのか分からなくなっていた。
違うんだ、さっきの俺の言葉はアイラにこんな事を言わせる為のものじゃない。マユラは悪魔の分身なんかじゃなく、一人の少女としてアイラと共に生きてきたとブレーンス司教に訴える為のものなんだ。
「家族なら……両親も一緒じゃないと駄目だろ。子供だけ別の所で暮らすなんて……!」
俺は思わず言葉の続きを飲み込んだ。今まで必死に涙を流すまいとしてきたアイラが、茫然とした表情で両目から涙を零したのだ。
「アイラ?」
「あ、なんでも……なんでもないです。司教さん、地下でもどこでも良いので連れて行ってください」
生気の無くなった顔を横に振ると、力無い足取りでブレーンス司教へ歩み寄る。当然、そのまま見ている訳にはいかない。アイラの肩を掴んで無理矢理に振り向かせる。
「なんでもないなんて事ないだろ!ここまで来て隠し事なんてしないでくれ!」
感情的に怒鳴りつけてしまい、アイラが体を強張らせたのが肩を掴む手を通じて分かった。俺は一度手を離し、片膝を付いて目線を合わせた後に、手を優しく方へ置き直した。
「頼む、両親がどうかしたのか教えて欲しいんだ」
アイラの眼を真っ直ぐに見つめると、黙り込んだまま直ぐに目を逸らされてしまうが、やがて小さく口を開いてくれた。
「教会に来る途中、お母さんを見たんです」
記憶を辿ると、アイラの様子が変わったのは商業区を歩いている時だったな。あの時に何かあった様には見えなかったが、果たしてアイラは母親の何を見たのだろうか。
「お母さんがどうかしたの?」
問い掛けると、アイラは唇を震わせて嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えていた。俺は肩に置いていた手を背中に回してゆっくりと擦った。アイラは二回深呼吸をして気持ちを少しだけ整えると、俺の眼を見て理由を話し始めた。
「赤ちゃんを抱いて、楽しそうに笑っていたんです」
生まれ故郷に帰ってきたら、母親が見知らぬ子を抱いていた。アイラが強い衝撃を受けたのは当然だろう。
「アイラの新しい妹か弟っていう可能性は……」
「それはありませんね」
俺の苦し紛れの言葉は、言い切る前にブレーンス司教が否定した。
「その娘が悪魔を宿していると判明して直ぐ、ルベイル家は没落し夫婦は離婚しました。父親の方は単身、商業区で店を開いたようですが経営が立ち行かなくなり失踪。母親は二年ほど前に再婚しております。どちらも悪魔の子の事など忘れているでしょう」
「なっ……!」
それじゃあ、教会を説得したところで、テイングにはもうアイラの帰るべき場所が無いってことか。
「天子様が如何ほどその娘の為に言葉を並べようとも、この世界に悪魔の居場所はないのです。ですが、教会の人間として天子様の思いを無下にする事もできません。娘の監視と聖術による規制は外せませんが、ある程度の自由は約束しましょう」
機を見て決定的な現実を突きつけ、譲歩案を提示する。まいったな、これじゃ何も言い返せないどころか、アイラの身を教会に委ねるのが最良の選択だとすら思えてきた。俺は力なく両腕を垂らし、完全な敗北を認めた。
「エフィムさん、短い間でしたけど、ありがとうございました。わたしに人として接してくれて、とても嬉しかったです」
立ち上がる気力も無く置物の様に固まる俺を、アイラの抱擁が柔らかく解してくれた。いつの間にかアイラの眼からは涙が引き、代わりに俺の涙腺が緩みだした。
マユラを殺した罪を背負うと決めた。教会を敵に回す覚悟もした。アイラを助けると固く決意した。それなのに何だこの結末は。思いだけじゃ何も救えないし変えられない。もっと力が、世界の法則を変えられるぐらいの権力が必要なんだ。
ふざけるな!
女の子一人を救うのに、世界規模の力が必要であって堪るか!悪魔がそんなに悪いのか!天使がそんなに偉いのか!俺は、俺達は人間だ!両親がいて兄弟がいて友達がいて、笑って泣いて怒って、好きな人がいて嫌いな人がいて、楽しい事があって辛い事があって、平穏な日々を続けるただの人間なんだ。
アイラの優しい腕の中で、俺の思考は怒りや悲しみや虚しさが渦巻いて混乱していた。ただ、その中でもはっきりと分かる事がある。アイラが再び家族と暮らせる可能性は潰えてしまったという事だ。
「ブレーンス司教……今日一日、いや、日が暮れるまでで良いので、アイラと街を歩かせてください……」
アイラを助けられなかった現実と無力さから少しでも逃げたい一心で、俺の口からは情けない懇願が漏れた。別れの時を無駄に引き延ばして辛くなるだけかもしれない。だけど、それでも、今すぐアイラと別れるのは嫌だった。




