第40話
悪魔が出現した後とは思えないほど、サンヤスクの朝は静かにやってきた。勿論、昨夜の禍難が夢であったわけではない。もうこの町には生活音を立てる人間がいないのだ。
無音の町に曇りがちな空、夏が近付いているにも関わらず涼しげな風が吹き抜ける、なんとも寝やすい状況が揃っているにも関わらず、俺は夢の世界へ引き戻されることなく朝早くから目を覚ましていた。眠りは浅く、夜中に何度も目を覚ましていたが不思議と気怠さはない。寧ろ不思議なくらい体の調子は良かった。
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分と眼を合わせてルシルとカイムに言われた言葉を頭の中で復唱する。
「生きて、罪を背負おう」
タオルで顔を拭き、木刀を持って宿の外に出る。どうせ誰も居ないのだ、道の真ん中で素振りをしても問題はないだろう。
カイムに教わった通りに木刀を握り、中段の構えから振りかぶって膝下辺りまで振り下ろす。木刀を握ったのは昨日が初めてだ。意識はしているものの、握りや体重移動や振り方などはまだまだ形になっていないだろう。だがそれでも、少しでも力を付けたかった。今回のような事が再び起きた時、自分の力で切り抜けられるように。
「踏み込みが甘い、腕だけで振るおうとするな。もっと全身を意識するんだ」
素振りに集中し過ぎていたため、声を掛けられるまで玄関の前に木刀を持ったカイムが居ることに気付けなかった。俺が視線を向けると、カイムは薄く笑って俺の正面へ移動し木刀を構えた。
「稽古なら何時でも付き合おう。さぁ来い」
「カイム……ありがとう」
心の底から純粋な感謝の言葉が出た。昨日も俺に罪との向き合い方を教えてくれたし、結構面倒見の良い性格なのかもしれないな。ならば、今はその善意に甘えさせてもらおう。俺は木刀を構え直し、カイムに向かって振り上げた。
稽古を始めて小一時間程が経過すると、朝食の準備を済ませたネイトが俺達を呼びに来た。特に誰が食事の準備をするか決めていなかったのだが、気を利かせてくれたのだろう。まだまだ稽古を続けたい気持ちはあったが、折角作ってくれた朝食を冷ましたら申し訳ない。俺とカイムは稽古を中断し、宿の中へ戻る事にした。
宿には広い食堂があり、長テーブルが規則正しく並べられていたと思われる。というのも、食堂は昨日発生した黒い触手によって半分程が斜めに削り取られており、元々の姿は分からない。外気に晒されているので、ネイトは食べる場所の変更を提案してくれたが、稽古で火照った体には外の空気が通った方が心地良かったので、ネイトの許可を貰ってそのまま食堂で食べる事にした。
厨房からはクロワッサン、カッテージチーズにドライフルーツを和えたもの、水菜ときのこのサラダが運ばれてきた。最後にネイトは、テーブルに乗っている料理の一人前を乗せたトレーを持って厨房から出てくる。
「アイラの分?」
「はい。一人で食べたいとのことでしたので、運んできます。お二人は先にどうぞ」
俺が持って行こうとも思ったが、余計な事をしてネイトの準備した料理を無下にされては申し訳ないどころではない。今は大人しく食事を頂くとしよう。
「「いただきます」」
挨拶をし、食事を摂っていると程なくしてネイトが帰って来て席に座った。この様子だとアイラは素直に朝食を受け取ったようで、少し安心した。
「ネイト、アイラの様子を聞いても良いかな?」
ネイトが一通り料理に手を付け終えたのを見計らって聞いてみる。昨日、宿に戻ってからアイラの世話はネイトに任せっきりだったし、様子を見に行こうとしたらカイムに少し時間を置いた方が良いと止められたので、どんな状況かまったく分からない。
「会話はできますが、かなり怯えていますね。今、食事を置きに行った時も部屋の隅で座っていました」
「そう……」
これまで多くの人間にされてきた事を考えると無理もない。どうにか安心させたいが、俺が下手に動いて良いものだろうか。
「昨夜も部屋の隅で蹲って眠ろうとしていたので、抱っこして一緒に眠りました」
ネイトが妙に充実した雰囲気を醸し出しながら報告してくる。結構大胆な行動に出てるんだな。
「大丈夫だったの?」
「ええ、それはもうぐっすりと眠れました」
なんだろう、話しが少しずれている感じがするが、特に問題は無かったと捉えて良いのだろうか。あとはしっかりと食事を摂ってくれれば良いのだが、あまり焦っても仕方がないな。
それからは今後の予定を打ち合わせつつ、食事を進めた。
「「ごちそうさまでした」」
「おそまつさまでした」
ネイトが立ち上がって食器を片付けようとしたので手で制する。食事の準備をしてくれた相手に片付けまでさせる訳にはいかないので、座って休んでいるように言うがネイトは拒否する。しかし、カイムも俺と同意見だったらしく、俺達が立ち上がって食器を片付けるのを見てネイトは渋々椅子に座って待っている事にした。
「じゃあ、俺が洗い物をするからカイムはアイラの食器を下げてきてくれるかな?」
「ああ、分かった」
カイムが部屋に入るとアイラは脱兎の如き速度で部屋の隅に逃げ、頭を抱えてひたすら謝罪の言葉を口にしていたそうで、食器を持ってきたカイムの表情は酷く微妙なものだった。食事にはきちんと手が付けられていたが、半分も減っていなかった。今まで監禁されていて、ろくな物を食べていなかったのだろうから無理もないだろう。
食器を洗い終え、一度各々の部屋に戻って荷物をまとめた後、宿の前で集合することにした。俺とカイムは木刀を仕舞うぐらいしかまとめる荷物も無かったので、直ぐに宿を出る事にした。無駄だと思ったが一応、カウンターに宿泊代を置いてきた。
玄関先で十分ほど待つと、アイラの手を引きながらネイトが現れた。アイラは俯いたままネイトの後ろに隠れるようにして歩いており、服装はネイトと同じ修道服だった。流石にいつまでもボロ布を着せておくわけにはいかないと、ネイトが予備の修道服で間に合わせてくれたのだろうが、当然サイズは大きめで裾は何度も地面に擦り付けられている。服屋に着くまでの間、我慢してもらうしかないな。
「よし、行こうか。カイム、案内頼むよ」
「ああ、こっちだ」
カイムは昨日、俺がシャワーを浴びている間に町の全体図を記憶していたらしい。ほんの三十分の間によくできるものだ。本人曰く、自分のいる場所がいつ戦場になっても良いように地形を記憶するのは得意なんだとか。お陰で俺達は浸食による被害が比較的少ない道を歩くことができ、安全に服屋まで辿り着くことができた。服屋は一階建てで奥行きの広い建物で、屋根が丸ごと浸食されて無くなっているが幸いな事に室内は無事な様だ。
「じゃあネイト、あとは任せても良いかな?」
「はい。お任せください」
子供とはいえ、女の子の着替えを俺やカイムが手伝える筈もない。ここはネイトに任せ、待っている間に稽古でもつけてもらおう。
ネイトは何か言いたげなアイラを半ば引き摺るようにして店内に入って行く。その足取りはどこか力強かった。
「さてアイラ、先ずは下着からです。無地、縞、柄、どれが良いですか?」
ネイトは両手に下着を持てるだけ持ってアイラに詰め寄る。
「え、えと……あの……どうして、わたしの服を?」
「いつまでもサイズの合っていない修道服を着せているわけにはいきませんから。それに宿でも話しましたが、これから山脈を越えてテイングに向かうのです。きちんとした格好をしておかないと大変ですよ」
詰め寄るのを止めたネイトは自身が持っている下着を一つ一つ品定めする。
「テイング……」
生まれ故郷で起こした厄災の数々が脳裏に蘇り、アイラは両手を重ねて胸元を押さえる。
昨日のいつからかは不明だが、アイラとマユラのブローチは一つに組み合わさり、アイラの胸元へ食い込む様に張り付いている。痛みや不快感は無いが、体に異物が張り付いていているので不安感はある。だが、マユラの形見となったブローチと一体化していると考えると、どこか落ち着く気がした。
シスターでありながら何故、悪魔を宿す自分に懇意にしてくれるのか、アイラは恐怖にも似た疑心を抱きながら服選びに集中しているネイトを見つめた。
「あの……」
おずおずと声を掛けると、ネイトは両腕に何着もの衣類を乗せながら視線を向ける。
「なんでしょうか?」
「わたし……これからどうなるんでしょうか?」
「天子様は、エフィムはアイラを悪魔の呪縛から助けたいと考えています」
アイラの脳裏にマユラが刺された時の場面がフラッシュバックし、胸の奥に鋭い痛みが走った。昨夜の事件の状況は明確に覚えている。マユラを殺さねば黒い霧は際限なく世界を浸食し始めていただろう。分かっている、分かってはいるのだが、妹を殺された恨みや憤りが簡単に消える筈もない。今襲った痛みは体内に宿っている悪魔が負の感情に反応した所為だと、アイラは直観的に理解した。
マユラの言った通りブローチが制御装置の役割を果たしているのなら、暫くは悪魔を抑えられる筈だろうが、どの程度まで抑えられるかは皆目見当がつかない。
「従者である私からは詳しいことを言えません。どうか一度、エフィムと話しをしてください」
「……はい」
胸元を抑えながら小さく頷く。自身に宿る悪魔を抑える為にも、近いうちにエフィムと話しをしようと心に決めた。
「そうと決まれば早く服を選びましょう。さあ、こちらへ」
「え、え!?」
いつの間に準備したのか、ネイトは衣類を大量に詰め込んだ籠を持ち、困惑するアイラを試着室の方へ押しやった。
服屋の前で俺は少し息を切らしながらもしっかりと木刀を中段に構え、真っ直ぐにカイムを見やる。攻撃の稽古をつけてもらっているのだが、一、二撃木刀を振るうと簡単に弾き返されて逆転されてしまう。武道を学んでいる訳ではないので形を意識する必要はないと言われ、我武者羅に攻めてみたのだが、結局は素人の攻撃なので歴戦の傭兵からすれば小さな子供と遊んでいるようなものだろう。悔しさはあったが、それよりも強くなろうという使命感や焦りの方が強かった。
次はどうやって攻めようかと考えていると、服屋のドアが開き、着替え終わったアイラを連れてネイトが出てきた。残念だが稽古を切り上げよう。
「お待たせしました」
「あ、あの、本当にこの服を着て行って良いんでしょうか?」
「商品のタグと共に書き置きと料金置いて来ました。大丈夫でしょう」
店から出てきたアイラは袖口や襟周りにフリルの付いた灰色のジャケット(原型はライダースジャケットなのだろうが、フリルや布地によって柔らかな印象が強く、全く別種のジャケットに見える)を羽織り、首元に明るい赤色の紐でリボンを結んだ丸襟の白いブラウスを着用。下は膝上丈の薄いエメラルドグリーン色をしたスカートを履いている。スカートのウエスト、両脇腹の辺りには白い紐でレースアップが施されており、リボン結びが可愛らしいアクセントになっており、白いハイソックスに茶色のローファーと全体的に清純そうな仕上がりになっている。これでオーロラ・ピンクの髪が伸び放題になっていなければ育ちの良いお嬢様にでも見えるだろう。
「良く似合ってるね。髪は流石にここじゃ切れないから、別の町に着くまで我慢してもらうしかないけど」
「あ…………」
出来るだけ柔らかく笑って話しかけると、アイラは一瞬俺の方を見て口を開きかけたが直ぐに俯いてネイトの背後に隠れてしまった。やはり距離を置かれているようだが、落ち込んでいる暇はない。アイラを両親の元に届ける為に、急いでテイングに向かわねばならない。服屋の壁に寄りかかるように置いてあったリュックを拾い上げ、俺達はサンヤスクを後にした。




