第37話
結界と霧の境い目まで歩いた所で踵を返し、ネイトとカイムへ視線を向けた。二人共、俺がこれから何を言うのか察して心配そうにしている。
「俺、この霧の中へ入ろうと思う」
予想していた発言だったのだろう、二人共眉を寄せたが驚いた様子はない。当然止められると思っていた俺は、透かさず言葉を繋ぐ。
「このままここに留まっていても霧や触手が浸食してくるのは時間の問題なんだ。さっき眼帯の男が触手に呑まれて霧に流されて行っても生きていてから、上手くいけば逃げられるかもしれないけど、それなら俺はあの眉の中に居るアイラとマユラを助けたいんだ!」
俺は忘れない。たとえ僅かな時間でも姉妹が嬉しそうに抱き合っていた時の事を。アイラの優しい笑顔とマユラの明るい笑顔を。
悪魔を宿しているからと産まれ育った町から離れさせられ、住民どころか本来守ってくれる筈の司祭や修道士達にすら虐げられ続けたのだ。ハンフィ司祭の言葉から察するに、姉妹に対する残虐な行為は一年前からだが監禁されていた期間はもっと長いだろう。決して戻らぬ幼き日を、大人や社会の暴力によって奪われたのだ。悪魔を宿しているなんて関係ない、あの姉妹が両親と共に幸せに暮す為なら、俺はたとえ横暴だと言われようと天子としての権力を惜しみなく振るってやる。
俺は心的にだが、一時家族と離れていた事があったから分かるんだ。好きで、大切に思っている家族と離れ、すぐ近くに居るのに話す事もままならない辛さが。アイラとマユラがどんな家庭で生まれ育ったかは分からないが、二人が再会した時の笑顔は本物だった。それだけで俺が姉妹の救済と幸福を願うのには十分な理由になる。いや、そもそも理由なんて必要ない。俺の心が、あの姉妹を助けたいと鼓動して訴えているのだ。自らの心が決めた意志に理由を付けるなんて愚劣極まりない。
「エフィムだけに危険な真似はさせられません。私も同行します」
ネイトが一歩前に出て来るが、俺は首を横に振って制した。
「この状況は俺の勝手が招いたようなものだし、たまには天子として活躍して見せないとね」
どうにか心配をほぐそうとおどけて言ってみるが、どうやら逆効果らしくネイトに詰め寄られてしまう。
「そんな事を言っている場合ではありません!ルシル様の力がどれ程であろうと、このような霧の中に入って無事に済むとは思えません」
あ、そうか。ネイトとカイムにはルシルが無反応だって分からないのか。変に勘ぐられる前にどうにか説得しようと思った矢先、カイムから厄介な提案をされた。
「そういえば、アガリアレプトはどうだ?時を操る力を使えばどうにか出来るかもしれん」
サムエルの護衛をしていたからアーガの能力を知っているんだった。不意を突かれた俺は動揺し、疑ってくださいと言わんばかりに目を泳がせる。
「あー、残念だけどまだ復活しないみたいだ」
「そうか……ならばもうエフィムに任せるしかないか」
俺の心境を察した様だがカイムは目を伏せて腕組みをし、それ以降何も言って来なかった。何故言及して来なかったのか気になる所ではあるが、考えるのは後にしてネイトを説得しよう。
「ルシル様の意見はどうなのですか?」
心臓が強く跳ね、喉奥から声が漏れそうになるのを必死で我慢する俺の努力虚しく、不信感を抱いたネイトは眉を顰めた。その瞬間、俺の後ろから軋む音が聞こえた。振り返らずとも直観的に結界の限界が近付いていると分かったので、俺はネイトの両肩を掴んで真っ直ぐに瞳を見つめた。
「帰って来る場所がないと頑張り甲斐がないからさ、ネイトにはここで待っていて欲しいんだ。お願い」
半ば押し付けるように言うと、俺は振り返って結界の外に広がる霧の川へ飛び込んだ。ネイトが俺の名前を叫んだが、声は霧に遮断されて直ぐに聞こえなくなった。
予想していたが、霧の中は真っ暗で自分がどこを向いているのか、立っているのか浮いているのかさえ分からなかった。だが、意識ははっきりとしているから死んではいないと思う。とにかく、繭を正面に捉えて飛び込んだのだから前進あるのみだ。
俺が足を動かした瞬間、吐き気を催す程の憎悪、嫌悪、厭悪、殺意、破壊衝動といった負の感情が一斉に流れ込んできた。
「うぅっ!ぐっ……」
頭と胸を掴む様に押さえて倒れ込む。体の感覚は無いが、恐らく状況的にはそうなっているだろう。
負の感情は絶え間無く俺の精神を浸食していき、黒い霧に溶ける様にして同化していった。
「(エフィム!勝手に死ぬな!)」
朦朧とした意識の中で呼ばれたと思うと、僅かに視界が明るくなる。明かりは俺の周囲一メートル程度を照らし、霧は流れ込んで来なかった。少しの間、ぼーっと明かりの外を流れる霧を見つめていたが、次第に意識が覚醒して起き上がる。
「あれ?俺……」
視認できるようになった体を不思議そうに動かしていると、脳内で声が響いた。
「(この馬鹿野郎、俺が居ない間に無茶するんじゃねぇよ!)」
「(ルシル!今までどこに行ってたんだよ)」
「(お前らが寝ている間にアーガと未来に行ってたんだよ。ほら、サムエルの野郎が未来を変えたとか言ってただろ?それを戻してたんだ)」
「(ああ、なるほど。だから何度呼んでも反応がなかったんだな)」
「(今度はそっちの番だ。なんでエフィムが絶対悪の中にいるんだよ!)」
絶対悪。それが悪魔の名前ならば大層な名前だな、ルシルが珍しく慌てているのも納得できる。
「(この悪魔に囚われた姉妹を助けなくちゃいけないんだ)」
「(助ける?そんな無謀なこと考えるな、一旦退くぞ)」
ルシルが無理矢理に体を動かそうとするが、何故だか俺は拒む事ができた。
「(おい!何しやがる!?)」
まさか体の制御を奪えないとは思っていなかったのだろう。ルシルは驚愕の中に怒気を含ませながら訴えてきた。正直どうしてルシルを拒めたのか分からないが、俺にもここで退けない理由があるのだ。
「(俺はあの姉妹を助けるまで、逃げるわけにはいかない)」
「(はぁ?普段は戦いなんてやりたがらないクセに、なんだってこんな時にやる気出してんだよ。何があったかは知らねぇが相手が悪すぎる)」
「(それでもだ、俺はあの姉妹を助けたい!悪魔を宿し、人からも天使からも見放された子供を放っておくなんて俺には出来ない!必ず、またあの姉妹が家族と笑って過ごせるようにしてあげたいんだ!)」
「(じゃあどうするつもりだ?そこまで言うなら何か策があるんだろうな?)」
自分の意志を強くぶつける俺とは対照的に、ルシルは実に冷ややかな様子で問い質してきたので思わず口籠る。元々、具体的な策など無かったので黙るしかなかったのだが、ルシルの様子を見て幾分冷静になった俺は自分のやろうとしている事の愚かさを自覚せざるを得なかった。
「(はあ……考えなしで絶対悪に突っ込むなんて、神だってやらねぇぞ)」
ルシルは盛大に溜め息を吐いて額に手を当てて呆れていた。
「(他人の為に神をも超える、か……面白い)」
そう呟くと額から手を離し、口角を上げる笑みを見せた。
「(気が変わった。俺も手を貸してやるよ)」
「(え?どうしたんだよ、急に)」
「(人間の、エフィムの可能性ってやつを見たくなったんだよ。力が足りねぇってんなら俺が貸してやる。だからエフィムが望む結果になるよう、可能性を紡いでみせろ!)」
それだけ言い残し、ルシルは意識の奥へ引っ込んで行った。よくわからないが、ルシルの協力を得られたのは大きい。しかし、ルシルですら相手が悪いという程の悪魔に俺がどう立ち向かえば良いのだろうか。
戦いと無縁の人生を歩んで来た俺がいくら頭を捻ったところで、到底悪魔との戦い方を思いつく筈はない。だから俺は考え直してみる。悪魔と戦う為にここにいる訳ではなく、姉妹を助ける為にここにいるのだ。同じ事かもしれないが、違う。悪魔だからと言って敵視しては姉妹に虐待してきた人々となんら変わりない。だから、俺は悪魔ごと姉妹を救ってみせる。絶対悪と呼ばれる悪魔がどういった存在なのか知らず、悪魔を敵と見なす天使でもなければ天使に従属する人間でもない、ただの無知な天子として自分が選んだ選択を可能性の限り突き進んでやろうじゃないか。
どうしてかは分からないが、今までになく心が穏やかになっていく。まるで今まで別々だった心と体が漸く一つになったかの様に、胸が優しくも確かに熱くなった。そして何かを悟ったかの様に静かに目を閉じると、熱くなった胸から白く輝く光が噴出して全身を包む。
白い光りはやがて体に張り付く上下一対の服に変わる。ルシルの着ている服と似ているが、全身を這うように黄色の光る線で何かの模様が描かれている違いがあった。そして、その黄色の光りが一層輝きを増すと周囲の霧は四散して外の景色が目に映る。地面は浸食されていた影響で陥没し、ネイトとカイムが居る地面は随分と高台になっていた。
急に霧が晴れて何事かと思ったのだろう、高台から二人がこちらを覗き込んで来たので手を上げて応える。突然の出来事に驚かせてしまったが、今は説明している時間はない。俺は再び黒い霧と触手で地面を浸食せんとする繭に向かって走り出した。




