第34話
朝起きて空を見ると、雲一つ無いとは言えないが十分快晴と言える青空が広がっていた。俺達と同じく登山する予定らしき行商人も空を見上げて満足そうに頷いていたし、これなら山越えは問題ないだろう。
俺は初めての山登りだったのだが、カイムがペース配分に気を遣ってくれたお陰で難無くジィマ山脈を越える事ができた。山頂では少々風が強かったものの、地平線が見えた時は思わず感嘆の声を漏らし、自然とは実に壮観なのだと思い知らされた。
道中、野犬や熊出没の警告板がいくつも見られたが、幸いなことに襲われる事態にはならなかった。単純に危険を回避できた事は勿論、自然を見て感動した後に自然で暮らす動物を手に掛けずに済んで良かった。
西の空に日が沈み切る頃、俺達はサンヤスクという小さな町に辿り着いたのだが、どうも様子がおかしい。民家や街灯の明かりは何の変哲もなく点いており、小さい街でこの時間だ、人通りが少ないのにも納得はいく。日は沈んでいるが、空は晴れており、一番星の光りが確かに見える。それなのになぜだろう、町全体に黒い靄みたいなものが漂っているように見えたり、立っているだけで胸騒ぎがするような感覚に陥ったりした。
俺達と同じく山越えをして来た行商人は特に変わった様子はなく、宿を探しに町の中へ歩いて行った。
「何か、嫌な感じがするのは俺だけか?」
自分の胸を押さえながら隣に立っているネイトとカイムに尋ねると、二人共少しだけ顔をしかめて答えた。
「いや、何かがおかしい。魔術……とは違う何かが町全体を覆っているようだ」
「酷く不快な感じですね。教会に仕える者ならこのような空気、放ってはおけない筈なのですがこの町の司祭は何をしているのでしょう?」
ネイトの言う通り、一般人には感じる事ができなくても、教会の人間がこのような悪気に気付かないのは考えにくい。サムエルから天使を奪った件の事情聴取が終わっていないので、各教会に指名手配されている可能性を考え、出来るだけ教会には近寄りたくなかったが今はそんな事を気にしている場合ではなさそうだ。俺達は教会を目指して街の中へ歩を進めた。
サンヤスクの教会は小規模な建物で、一般的な民家の三階建て程度の大きさだ。俺は躊躇いなく扉を開けて中に入る。
教会の中は薄暗く、司祭は疎か修道士の姿も見当たらない。
「誰かいませんか!?」
教会の中を進みながら声を張る。すると、出入り口の扉の横にあったドアが開かれ、司祭と思われる中年の男性が出てくる。身長は平均的だが体格は小太り気味で、誠実そうな顔をしているがどこか焦点の合っていない目付きをしている。俺は気づかれない程度に警戒しつつ、男に近寄る。
「あなたがこの教会の司祭ですか?」
「ええ、コルラード・ハンフィと言います。此度はどうされました?」
「どうされました、ではありません。この町の異様な空気に気付いていないのですか?」
ネイトが前に出て俺の代わりに疑問をぶつける。表情や口調に変わったところは見当たらないが、これは多分怒っているな。だが、ハンフィ司祭はネイトの機嫌を逆撫でする様に、少し大げさに首を傾げて見せた。
「さて、何のことでしょう?私には平和そのものに感じられますね」
「本気でそう言っているのですか?」
静かに問い質すネイトの眉間にはうっすらと皺が寄っていた。不味い、これは相当怒っているな。俺が聞き方を変えようと必死に頭を回転させていると、ハンフィ司祭は傾げていた首を戻して口を開いた。
「見たところ貴方達は旅人のようですね。ジィマ山脈を越えて来たのなら、さぞお疲れでしょうし今日のところは宿でゆっくり休まれてはどうでしょう?明日になってもまだ町の様子に異変を感じたのなら、また相談しに来てください」
それだけ言うとハンフィ司祭は俺達の言葉も待たずに、出てきたドアの向こうに姿を消してしまった。
「何か、あの司祭もおかしかったな」
「ああ、だがこうなってしまっては仕方ない。今日のところは我慢して宿で休もう」
深まる疑問と、異様な空気に包まれた町で休めるのかどうか不安だったが、近くに他の町は無い。住民に話しを聞こうにも、既にほとんどが自宅に帰って家族団らんの時間を過ごしているようなので難しいだろう。今日のところはカイムの言う通り、宿で休む以外に選択肢は無さそうだ。
宿を取ったのは良いが、やはり落ち着く事ができなかったのでカイムに稽古を付けてもらうことにした。以前と同じで防御主体の稽古を二時間程行い、汗を流した。稽古をしている最中は町を覆う異様な空気を忘れられたのだが、稽古を終えた瞬間に汗と共に気持ち悪く張り付いて来たので早々にシャワーを浴びる。
俺とネイトは夕飯を食べる気分ではなかったのだが、カイムにいつ何が起きても良いようにと諭されたのでゼリー状の携帯食料を腹に入れ、明日は早起きして町の様子を確認し次第、教会に行くと決めて就寝した。
慣れない山越えと稽古のお陰で睡魔は直ぐにやってきたのだが、やはり精神が休まらないのだろう、夜遅くに目が覚めてしまう。どうにか眠ろうとするが、意識すると逆に頭が冴えてきてしまい、次第に尿意を催したので仕方なく体を起こし、部屋を出る。この宿は部屋ごとにトイレが付いておらず、各階に共同のトイレがある。ちなみに俺達が泊まったのは二階だ。
靄が体にへばり付く感覚に不快感を感じながら廊下の突き当たりにあるトイレで用を足し、部屋に戻ろうとした時だ。窓から人影が見えた。一瞬高鳴った胸を手で押さえ、体を壁に張り付かせながら慎重に外の様子を確認する。すると驚く事に、老若男女問わず十数名ほどの住民が覚束ない足取りでどこかに向かって歩いていた。
「あの方向……まさか、教会?」
まさか闇の儀式なんてやってないだろうな。兎に角、この町を覆う異様な空気の正体が分かりそうだし、後を付けるしかない。ネイトとカイムを呼びに行くか?いや、ここからじゃ地味に遠い。住民達の歩行速度は速くないが、教会に向かっている確証はない。部屋に戻っている間に見失ってしまっては折角の手掛かりを逃してしまう。
俺は固唾を飲み込んで、一人で尾行することを決意して階段を降りた。
一階のホールに出て、人が居ないことを確認して物音を立てないように外へ出る。高まる胸の鼓動が煩わしく感じる程の静寂と緊張、やっぱり二人を起こして来れば良かったと後悔するがもう遅い、やるしかないのだ。
建物の陰に隠れながら周囲を警戒して教会の方に歩いて行くと、先ほど見た住民の集団に追いつく。さっきより人数が増えているが、あまり気にする事ではないだろう。住民に見つからないよう細心の注意を払わねばならない。無意識に握り締めた拳の内側がじっとりと汗ばみ、口の中が乾く。この町の地形など殆ど知らないので、隠れる場所を探すのにも一苦労だし、足音を立てずに歩く技術なんて持ち合わせていない。尾行に集中すれば集中するほど研ぎ澄まされる五感が、普段なら気にも留めない足音や衣擦れを拾い、致命的なミスを犯した気分にさせる。
教会までは歩いて十分から十五分といったぐらいだろうが、今の俺には険しい岩場を一、二時間かけて歩いた気分だった。やはり住民達は教会を目指していたようで、教会の前には百名ほどが集まっていた。そして、住民に向かって立っているのはハンフィ司祭と男女一名ずつの修道士だ。一体何が始まるのか、俺の存在はばれていないか、もし悪行が行われていたらどうするべきか、俺の脳が次々に不安要素を浮かび上がらせるので、小さく頭を振って思考を切り替え、ハンフィ司祭の動きに注意する。
ハンフィ司祭は相変わらず焦点の合っていない目をしたままで、口の端を上げる笑みを住民達に向けると、両手の平を空へと伸ばした。
「今宵もこれだけの悪しき心が生まれてしまいました。しかしご安心を、あなた方のような罪なき者を神は裁きません。さぁ、己の中の悪しき心を根源へと還し、懺悔なさい!」
悪しき心が生まれた?根源へと還す?一体何のことだろうかと頭を悩ませていると、修道士二人とハンフィ司祭が左右に分かれて教会の裏に回って行き、住民達も半分に分かれてそれに続いた。
二手に分かれてしまったが、どうしたものか。教会絡みで何か行われていると分かっただけでも収穫だし、無理せず引き返すのも手だな。俺の存在がばれていない様だったので一先ず安心し、いくらか平静を取り戻した脳が安全策を提案してくるが、俺は直観的に否定した。この町を覆っている不快な物の正体が直ぐそこにあるのだから、逃げ帰る訳にはいかない。俺はフィンク司祭が歩いた方向、教会の右を回って裏を覗き込む。するとそこには天使の石像がずらさた様な跡と地下に続く階段があった。
足音を立てないように細心の注意を払い、階段を降りて行き体が全て地下に入った瞬間、強烈な悪寒が全身を駆け抜けた。咄嗟に背後の地上を振り向くが何もなく、再び暗い階段の奥へ目を凝らしながら一段一段慎重に降りる。全身から汗が噴き出す。どうする、やっぱり一度戻るか?いや、駄目だ。ここで逃げてはきっと後悔する。ルシルに殴られてやっと現実と向き合えるようになったのだ、今まで逃げていた分を精算するという訳ではないが、とことん現実を見てやろうじゃないか。
意を決し、少し早めに階段を降りて行くが、ふとルシルの声が聞こえない事に気付く。そういえば今日は一日黙っているな。アーガの容態でも悪いのか、単に寝ているのか分からないが、今は気にしている場合ではない。
階段を降り切ると、岩を削って造られた洞窟に着いた。点々と灯されている蝋燭は頼りなく足元を照らしていたが、それが反って不安心を煽る。蝋燭の火を見る限り一本道のようだが、周囲への警戒は怠らない。罠がないか確認しつつ洞窟を進んで行くと、ガラスの割れる音や金属が落ちる音が聞こえてくる。何事かと思い足を止めて耳を澄ませると、液体が滴り落ちるような音や呻き声が聞こえる。呻き声は今にも消えそうな程か細いが、これはまさか……。
俺の脳裏に最悪の展開が映し出された刹那、無意識の内に走り出していた。もう足音や気配など気にしている場合ではない。どうか、どうか俺の予想だけは外れてくれ。
普段は信じもしない神に祈りながら走り続けると、程なくして四角に型どられた広間に出る。広間の四隅には松明が猛々しく燃え上がっており、周囲が鮮明に見え、俺は絶句した。
眼に映ってきたのは瓶や刃物等を持った住民達と、その奥に立って嬉々とした笑みを浮かべるハンフィ司祭、そしてハンフィ司祭と住民達の間には巨大な十字架が立てられていた。俺が言葉を失った最大の理由は、十字架に張り付かれていた少女の姿にあった。少女は服と言うにはあまりにも粗末な赤色の布を纏っていたが、その大部分が破れ、斬り裂かれていた。赤色の布と言い現わしたが、その赤が布本来の色でない事は少女の全身に負っている傷を見れば明らかだった。少女は力なく項垂れ、手入れのされていない髪で顔が隠されていたので分かり辛かったが、どうやら目隠しをされ、猿ぐつわを噛まされているようだった。ここに来る前に聞いたか細い呻き声を上げながら、指先から赤い液体を滴らせる。
「なんだよ……なんだよこれ!!」
少女とこの町の住民との間にどういう経緯があるかは分からないが、俺の予想した最悪の展開が目の前に広がっていた。それだけで俺が怒号を響き渡らせるには十分過ぎる理由だった。




