第12話
四年前、俺が中学二年生でマルカが小学六年生の九月の事だ。
「ただいま」
「お兄ちゃん、おかえりなさーい!」
帰宅した俺が靴を脱ぐや否や、マルカがツインテールを揺らして元気な笑顔を見せながら抱き着いて来た。俺は鞄を足元に置いてマルカを抱き留めてやる。いつものことだ。
「えへへ~」
「どうした、学校で何か良い事でもあったのか?」
マルカがやけに嬉しそうにしているので尋ねると、首を縦に振って肯定して見せた。
「今日ね、学校で聖徳祭の話しがあったの!」
「ああ、そういえばもう少しで祭りだったな」
聖徳祭。毎年秋ごろに催される祭りだ。大通りに煌びやかな装飾を施し、多くの屋台が出回り、賑やかな祭囃子が鳴り響く。ここまでは特別変わった祭りではなにのだが、聖徳祭には地上に天使が降り立った事を祝い、天子が万難なく旅を続けられる事を祈るのが趣旨としてある。そのため、神様がこの世界を作り、地上に天使を使わせた事をモチーフにした帝柱と呼ばれる巨大オブジェが大通りの中央に配置される。しかもこのオブジェ、毎年新しく作り直しているのだからこの祭りには相当な金額が動いているのだろう。
「そういえば、じゃないでしょ、お兄ちゃん!今年の帝柱はお母さんがデザインしたんだから!」
帝柱は歴史研究所の研究員によって制作されるのだ。なんでも芸術家によって洗練されたデザインより、研究員が遺物や文献から感じ取った素のデザインの方が自然的で良いのだとか。担当する研究員によっては芸術家に協力を依頼する時もあるそうだが、あくまで中心となるのは研究員だ。
母さんは来年から首都テイングにある歴史研究所本部に異動が決まったのでリュンリグネでの聖徳祭に関われるのは今年で最後になるかもしれないと張り切っていた。
勿論、俺も忘れていたわけではないが、マルカがあまりにも嬉しそうにしているので素っ気ない態度を取って少し意地悪してみたくなったのだ。マルカは少し頬を膨らませて上目遣いに睨んでくるが、少しも威圧感はない。むしろ愛らしい。
「分かってるって、忘れるはずないだろ」
「むー、本当?」
マルカが疑惑の目を向けてくるので、俺は頭を撫でて微笑んでやる。
「本当だ」
「うん、それならよろしい」
先程までの膨れっ面はどこへやら、目を細めて柔らかな笑顔を浮かべて満足そうに頷く。
「それでね、お兄ちゃんはお祭りに誰かと一緒に行く予定はある?」
「いや、特に予定はないな」
不安そうに眉をひそめるマルカだったが、俺の返答を聞いた途端に明るく笑う。
「じゃあ、私と一緒にお母さんの帝柱見に行こう!」
「ああ、良いぞ。約束だ」
「うん、約束!」
一緒に聖徳祭へ行く約束をすると、マルカは俺の胸に顔を埋めて嬉しそうにしている。やれやれ、帰宅したのに玄関から先へ行くにはもう少し時間が掛かりそうだ。
聖徳祭の五日前、夏の残暑もすっかり治まり秋らしい涼しさが訪れるとマルカは風邪を引いた。元々体が強い方ではなく、季節の変わり目にはよく風邪を引くのだ。五日あれば一般的な風邪ならばほとんどが完治するのだが、マルカは変温症という体の免疫力が低下すると体温を一定に維持する事が難しくなる持病だった。この持病の所為で体調の回復が遅いのだ。マルカは大丈夫だと言ったのだが、両親が心配性な為に入院することになった。
聖徳祭二日前、俺が見舞いに行くと病室のベッドには意外と元気そうなマルカが座っていた。白い入院服姿で髪を下ろしていたからいつもと違った雰囲気は感じた。俺が見舞いに来た事に気付いたマルカは明るく迎えてくれ、俺は軽く挨拶をしてベッドの横に置いてあった椅子に座る。
「もう、本当にお父さんもお母さんも心配しすぎだよ」
マルカは大げさに肩を竦める。確かに少し変わった体質を持っているとはいえ、風邪で入院させるとは少々過保護かもしれない。そう思うのは今はマルカが元気そうにしているからだろう。入院初日の夜は体温が三十度を切って大変だったらく、やはり入院させて正解だったと思える。
「そう言うなって、二人は聖徳際の準備で忙しいし俺は学校があるしでマルカが一人で家にいる時に症状が悪化したら大変だろ」
「私だって来年には中学生だよ。少しくらい体調崩したって自分で何とかできるよ」
俺が宥めようとしたが逆効果だったらしく、マルカは頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。
「変温症は大人になれば自然に治るって聞くし、小さい時は確かに体が弱くて病気になりがちだったけど、最近じゃ風邪もそんなに引かないし、引いても治るのが早くなってるもん」
変温症は子供特有の病気と言われており、十五歳前後で自然治癒される事がほとんどらしい。マルカの体調も年々安定してきているような気はする。その変わりと言って良いのか、妙に大人ぶるというか意固地っぽくなる時があるというか。素直で家族大好きなマルカにも反抗期というのが来てしまうのだろうか。
「まぁそんなに気を悪くするなって、りんご剥いてやるから」
ベッドの横に備え付けてある棚の上には見舞いの品が籠に入っており、俺はその中からりんごと果物ナイフを取り出した。マルカを看病する機会が多く、その都度果物を剥いていたから皮むきは結構得意だ。
「……うん、ありがとう」
りんごを剥き始めるとマルカは機嫌を直したのか、こちらに向き直る。食べ物で機嫌を直すとはやっぱりまだまだ子供だなぁ。しかし、さっきも危惧したがマルカに反抗期が訪れてしまうのだろうか。今までは「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と後ろをくっついて来たけど、徐々に会話が減っていき遂には話しかけても無視されるなんて未来が待っているのだろうか。マルカに限ってないとは思うが、何かの拍子に家出してそのまま悪人共の手に落ちる可能性だって……。
脳裏に次々と浮かぶマルカの非行に俺の手は次第に震えていく。
「お、お兄ちゃん?顔怖いよ。それに手が震えてるし、危ないよ!」
マルカが何か言っているが今の俺はそれに耳を貸す余裕なんてなかった。
「マルカ。俺はマルカにとって良いお兄ちゃんでいるよう努力するからマルカも自分のことは大切にしてくれよ」
意味不明な事を言った気がする。マルカも一瞬きょとんとしたが、俺の手元を見て血相を変えた。
「お兄ちゃん、危ない危ない!刃握ってるって!お兄ちゃーん!!」
この日はその後どうなったかは覚えていないが、看護師とマルカに怒られたことは間違いないだろう。
翌日も学校が終わるとマルカの様子を見に行った。昨日の夜にまた熱が変動したが、今回のは微熱程度だったらしい。変温症を持った人間が微熱を出した時は体の免疫力が正常に機能し始めた証拠らしく。ぎりぎり聖徳祭前には退院できると喜んでいた。
聖徳祭当日は学校が午前中で終わり、マルカが退院するのも昼頃と言っていた。なので俺は学校が終わり次第病院へ行ってマルカを連れて一度帰宅する予定になっていた。マルカと聖徳際に行く約束が守れそうで安心している反面、嬉しさで落ち着きを無くしていた。
今も授業中なのに窓から大通りの方を見てしまっている。丘の上にある中学校からは大通りがよく見える。今も母さんが設計した帝林の調整に何人もの研究員が作業していた。もっとも、落ち着きが無いのは俺だけではなく、先生も授業を進めるのもそこそこに聖徳際の話しをしていた。
学校が終わると友達に軽く挨拶を済ませ、急ぎ足で病院へ向かった。教室を出る際、妹思いの兄に対してからかいの言葉を投げられたが、今に始まった事でもないし、そもそも悪意のない戯言だと分かっているので適当な反応を返すだけにした。
病院に着くと既にマルカが荷物をまとめて俺の到着を待っており、お世話になった医者や看護師に挨拶をして病院を後にした。
家に帰る途中、大通りに寄って両親にマルカが無事に退院したことを伝える。二人とも表には出していなかったが、作業している間もマルカの事が心配だったに違いない。マルカが笑顔を見せると心底安心したようだった。
夕方、教会が鳴らす晩鐘の音を合図に聖徳祭が始まった。街中の人間が大通りに集まっているのではないかと錯覚する程の人混みだ。人の波に流されそうになりながらも、俺とマルカは帝柱のすぐ近くに陣取り、ライトアップされる瞬間を今か今かと待った。晩鐘の反響が徐々に小さくなって遂に聞こえなくなった瞬間、目の前の鉄で骨組みされた帝柱が眩く輝きだした。
「すっごいな……」
「わぁ!」
俺とマルカは感嘆の声を上げて暫く帝柱に目を釘付けにされた。
帝柱は全高十メートル程で、全長は軽く二十メートルを超えているだろう。全体的な形としては巨大な傘だ。一際強く白光する頂点から黄色い光りが地表に近付くに連れて地面と平行になるように広がり、地上から二メートルほどの高さの所で光りは水色に変わり、完全に地面と平行となった。平行に三メートルほど伸びると先端は緑色に変わり、頂点に向かって湾曲した返しになっている。傘を支える柱は数十本にも及び、螺旋を描く形で明るい紫色の光りが短く点滅しながら地上から上空に向かっている。
どれだけの時間、帝柱を見ていただろうか。毎年違った帝柱を見てきたが、こんなに見入った事はなかった。
「どう、凄いでしょ?」
背後から声を掛けられる。俺とマルカが驚きつつも同時に振り向くと、白衣姿の母さんが優しく微笑みかけていた。
「お母さん!」
マルカが嬉笑を浮かべて母さんに駆け寄り、俺も一歩遅れて歩み寄る。母さんはマルカを大事そうに抱き寄せ、頭を撫でる。
「あぁ、マルカ!お祭りに来れて本当に良かったね」
「うん!お母さんの帝柱を間近で見れて本当に良かった!」
本当にこの二人は仲が良いな。俺は二人が抱き合う姿を見て微笑んでいた。母さんはそんな俺を見ると、ゆっくりとマルカを離して俺に向かって両腕を広げた。
「ほぉら、エフィムもこっちにいらっしゃい」
「いや、俺はいいよ」
流石に誰が見ているか分からないところで母さんと抱擁を交わす気にはなれない。俺が苦笑いを浮かべていると、母さんの方から近付いて来て頭を撫でられた。
「もう、エフィムは恥ずかしがり屋さんねぇ。でもいつもマルカのことをちゃんと見てくれてるからいい子いい子」
母さんの言葉も、手も、撫で方も全てが優しくて、恥ずかしさを忘れて頭を撫でられていた。
「そ、そうだ!母さんの帝柱、凄いね!俺もマルカも見入ってたよ!」
数回頭を撫でられたところで羞恥心が復活し、帝柱の方に向き直ってそれとなく母さんの手から逃れる。大人しくしていると何時までも撫で続けるからな。
「来年からはこの街の聖徳際には参加できないから、気合い入れちゃった」
無邪気に笑う母さんが考えたとはとても思えないほど本当に立派な帝柱だった。俺は再び見入ってしまっていたが、直ぐに母さんの声で気を取り直す。
「帝柱の事を気に入ってくれるのは嬉しいけど、お祭りも楽しんでらっしゃい」
「あ、うん。そうするよ」
「お母さんも一緒に屋台回ろうよ!」
マルカの誘いに母さんは眉を下げて酷く申し訳なさそうにした。
「ごめんね。母さんはまだやる事があるから一緒には行けないの」
「えー……お仕事なら仕方ないね」
不服そうだが、ここで我が儘を言っても母さんを困らせるだけだとマルカも理解しているので渋々諦める。娘の要望に応えられなかった自分を不甲斐なく思ったのか、母さんは泣きそうな顔でマルカを抱きしめた。
「本当にごめんね。今度の休みに埋め合わせするから許して頂戴」
「うん。お仕事頑張ってね」
マルカが抱き返すと母さんは本当に泣きそうだった。
「二人とも逸れないようにね。お金はちゃんと持った?」
母さんは落ち着きを取り戻すとマルカを離し、いつもの優しい微笑みを俺たちに向けた。
「ああ、ちゃんと持ってるよ」
「うん、手を繋いで歩くから絶対に逸れないよ!」
「あらあら、本当に仲良しさんねぇ。母さん嬉しいわぁ」
この場で手を繋いで見せるマルカに動揺する俺の事は意に介せず、母さんは片手を頬に当てて満足そうに笑った。母さんに見送られて、俺はマルカに引っ張られるようにして人混みの中へ歩いて行った。
二時間程だろうか、一通り屋台を回り終えた俺たちは大通りから少し離れた公園のベンチに座って休憩していた。大通りを歩いている時は賑やかに気分を高めてくれた祭囃子も、公園にくると妙に心地いいリズムに聴こえて心が落ち着く。
「はぁ、人混みを歩くのは疲れるな」
「でも楽しかったね」
溜め息を吐いて項垂れる俺とは対照的にマルカはまだ元気そうにしながらクレープを食べている。病み上がりとは思えない体力だ。
「少し休んだら帰る?」
マルカが俺を気遣い始めた。疲れたからと言っていつまでも情けない姿を見せるわけにはいかない。俺は頭を上げて答える。
「俺はもう一度帝柱を見ておきたいかな」
「あ、私も同じこと考えてた!」
帝柱を見たいのは本当だが、またあの人混みの中を歩いて行かねばならないのかと思うと憂鬱になる。どこか人気の少ないところはないだろうか。思考を巡らせていると、マルカがクレープを食べるのをやめて独り言のように呟く。
「本当に私と一緒にお祭り回ってよかったの?」
「え?」
聞き取れなかったわけではないが思わず聞き返してしまう。今の今まで楽しそうにしていたのにどうしたというのか。もしかして俺がつまらなそうにしていると見えたのだろうか。
「その……中学校の友達とかとお祭りを回りたいとは思わないの?」
マルカは少しだけ表情を暗くした。あまり見ない表情に俺は少し困惑したが、下手に気を遣うよりもありのままを伝えた方が良い気がした。兄としての勘みたいなものだ。
「思わないと言えば嘘になるけど、マルカのことも大事だからな」
「ごめんね。いつも私の看病や我が儘に付き合わされて、面倒でしょ」
本当にどうしたのだろうか。俺はマルカの肩を軽く叩いて顔をこちらに向けさせる。マルカが不安そうにしながら俺の方を見つるので額に手の平を当ててやる。すると、マルカは驚いたのか表情から不安の色が消える。
「ど、どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。変なこと言うから熱でも出たんじゃないかって思ったんだよ」
「体調はもう大丈夫だよ!」
マルカの額から手の平を離す。熱は感じなかったし、確かに体調は大丈夫そうだ。では一体なにが原因なのだろうか、気にはなるがその前に先ほどのマルカの言葉を否定しておこう。
「面倒だなんて思うわけないだろ」
「本当に?」
「本当だ。敢えて言うなら今こんな会話をさせられている方が迷惑だ」
両手の平を上に向けて少し大げさに呆れて見せると、マルカは申し訳なさそうに俯く。
「ごめんなさい」
「そう思うなら今から行くところに付き合ってくれよ」
マルカの頭を少し乱暴に撫でる。変なことを言った罰だ。
「どこ?」
「静かに帝柱を見れるところ。話しの続きもそこでしよう、な」
俺がベンチから立ち上がると、マルカは急いで残っていたクレープを食べ切った。
公園から出て帝柱がある方向とは逆に歩いて行く。平坦だった道は次第に緩やかな坂道へと変わる。普段来ることが無い道にマルカは少し不安そうに辺りを見回している。道は舗装されているものの、街灯が少なくて足元が見づらい。
「手繋ぐか」
「あ、うん」
俺の差し出した手を見てマルカは一瞬だけ躊躇った後、控えめに手を握ってので俺はしっかりと握り返してやる。いつもなら俺が手を差し出すと笑顔で握ってくれるのに、帝柱を見て感動したり祭りではしゃいだりした反動で感傷的にでもなっているのか。
互いに無言のまま暫く歩くと、坂の終わりと共に鉄筋で出来た三階建ての建物が見えてくる。
「中学校?」
「ああ、マルカも来年からここに通うんだぞ」
正門は当然ながら閉まっているので裏門へと回り込む。裏門は閉まってはいたものの、鍵が開いていたので簡単に開ける事ができた。これは運が良かった。裏門も閉まっていたら無理矢理にでも門をよじ登ろうと思っていた。確か有志の先生が数名集まって何か屋台をやるとかで、その為の器材を仕舞って置くために倉庫を借りていたっけ。器材を持っていく時にちゃんと鍵も掛けておけよ、不用心な。まぁ、そのお陰で苦労せずに侵入できたんだけど。
校舎の横に設置されてある非常階段を上って三階にたどり着く。本当は屋上に行きたかったが、屋上に行くには校舎内の階段を使わないといけないので断念。
三階のベランダから大通りの方を眺めると、一帯がまるで光りの川の様に輝き、その中心部には帝柱が生えるような、はたまた帝柱から流れ出した光りが川の様に広がって辺りを照らしているかの様に見えた。近くで見るのとは違った美しさに、俺は耽美していた。恐らくマルカも同じだろう。
「驚いたな、こんなに綺麗だなんて」
「うん。お兄ちゃん、連れて来てくれてありがとう」
マルカがこちらに笑顔を向ける。うん、こうやって笑っているのがマルカだよな。今ならさっきの暗い表情の理由も聞けそうだ。
「マルカ、さっきの話しだけど……」
俺が言い切るより早くマルカが抱き着いて来る。
「なんでもない」
マルカは俺の胸に顔を埋めているから表情は全く見えないが、なんでもないって事はないだろう。俺が困惑していると、マルカは抱き着いたまま顔を上げて満面の笑みを見せる。
「お兄ちゃん大好き」
それだけ言ってまた顔を埋める。暗くてよく見えなかったが泣いてた、かな。よく分からないけどマルカが可愛いので抱き返した。あんな笑顔で大好きなんて言われるなんて俺は幸せな兄だな。
違和感を感じたのは直ぐの事だった。少し涼しげな気温だが、風が吹いているわけでもないのにマルカの体が震えている気がした。
「マルカ、寒いのか?」
「う、うん。ごめん、また体温がおかしくなったみたい」
「何!?直ぐに病院に行くぞ!」
今日退院したばかりだというのに、何故だ。祭りではしゃぎ過ぎて風邪でもぶり返したか、別の病気にかかって免疫力が低下したのか、それにしても症状が出るのが早すぎる。とにかく俺が原因を考えたところで何の意味もない。おんぶしようと背中を向けてしゃがむが、どういうことかマルカは立ったまま動かない。
「早くしろって!」
思わず口調が強くなってしまうが、気にしている暇はない。だが、それでもマルカは俺の背中に乗らずに自分の肩を抱きながら首を横に振る。
「だ、大丈夫だよ。こんなの直ぐ治まるって」
マルカがおどけた笑いを浮かべるので、流石に腹が立った。一度立ち上がってマルカの方に向き直る。
「なんでこんな時に強がってるんだよ!いいから行くぞ!」
マルカの肩を掴もうとするが体を振って拒まれる。
「嫌だよ!こんな病気なんかで、いつもいつもお兄ちゃんに迷惑かけて・・・お兄ちゃんが優しくしてくれるのは嬉しいけど、お兄ちゃんの自由を私の所為で奪いたくないよ」
「何言ってんだよ!そんなこと気にしてる場合じゃないだろ!」
俺が怒鳴りながら近付くとマルカは数歩後退ってしゃがみ込み、その拍子に両目から涙が零れ落ちる。
「私は自分が情けなくて、悔しくて仕方ないよ。もっとお兄ちゃんと遊びたいし、お兄ちゃんがもっと自由に生活してほしい」
「だから……」
今はそんな話しをする時じゃない。そう言おうとしたが、先にマルカの荒げた声が響く。
「好きだから・・・大好きだから!邪魔になりたくないのに、なんで私はこんなに弱いの!?なんで、私は・・・」
堪え切れなくなったマルカは嗚咽し、先の言葉を出せなくなった。流石にこうなっては俺も怒鳴るわけにはいかない。マルカの傍でしゃがみ、背中を擦ってやりながら言い聞かせる。
「マルカが俺に気を遣ってくれているのは分かったよ、ありがとう。でも、俺はマルカと一緒に居て迷惑だとか、不自由だなんて思ったことはない。自分のことが悔しいとか情けないって言ったけど、俺もマルカが辛そうにしていると同じぐらい自分のことが情けないんだ。だから言うこと聞いてくれよ」
「……うん。ごめんなさい」
涙を拭いながら絞り出すような声で返事をしてくれた。マルカの頭を優しく撫でた後、背中を向けて乗るように促すと、素直に背中に乗ってくれた。しかし、マルカの体温が下がり始めて少し時間が経ってしまった。震えが背中から伝わってくる。
俺は急いで非常階段を降りるものの、人を背負って暗い階段を降りるのは中々に難しい。
予想以上に時間が掛かってしまったが、無事に階段を降りて裏門から出る。門を閉め直す余裕はない。後日、先生に何か聞かれたら素直に謝ろう。正門のところまで戻って来て、焦っていた心を一旦落ち着かせる。ここまで来ればあとはよく知った道を辿るだけだ。
「マルカ、直ぐに病院に連れて行くからな」
「……」
返事がない。背中へ目を向けると、マルカがぐったりとしていた。震えは治まっている気がしたが、体温が回復したとも思えない。確か体温が下がりすぎると震え等での自発的な発熱ができなくなるとか聞いたな。一瞬、自分の心臓が強く脈打ち、急かされた気分になった。
「マルカ!クソッ、急がなきゃ!」
急がなくてはいけないが、人を背負った状態では走っても速度は出なく、無駄に自分の体力を消耗してしまう。もどかしさを下唇を噛むことで押し殺し、出来る限りの早歩きで丘を下って行く。
丘から病院まで普段の倍近い時間が掛かってしまうが、なんとか辿り着く。俺は病院のドアを半ば蹴破るようにして開け、院内に入ると同時に叫んだ。
「誰か、助けてください!急患です!」
すると近くにいた女性の看護師が駆け付けてくれる。俺はマルカの症状を発症したところから今に至るまでの経緯を出来るだけ詳しく伝える。程なくして移送用のストレッチャーと共に数名の看護師と医者が一人やってくる。俺が指示通りにマルカをストレッチャーへ乗せると直ぐに集中治療室へ運ばれた。運び出される直前に握ったマルカの手は異常なまでに冷たく、俺は不安で暫く動く事が出来なかった。
運び込まれた時のマルカはかなり危険な状態まで体温が下がっており、治療中に駆け付けた両親が事情を聞いた時は二人とも頭を抱えて心配していた。俺は厳しく叱られると思っていたが、そんなことはなかった。
「マルカは絶対に助かる、そんなに気を落とすな」
気休めだ。俺たちには何も出来ないのに、よく「絶対」なんて言葉が出せるものだ。
「そうよ。ありがとうね、エフィム。ちゃんとマルカと一緒に居てくれて」
感謝される事なんてしていない。寧ろ一緒に居たのに命の危険に晒してしまった事を咎められるべきだ。
どれくらいの時間が経過したかは分からないが、医者達の懸命な治療のお陰でマルカは一命を取り留めた。集中治療室から出て来た医者に治療の成功を伝えられた瞬間、両親は抱き合って涙を流し、俺は安堵により全身の力が抜けて放心状態になっていた。結局、何が原因でマルカの変温症が発症したのかは分からなかった。
翌日、病院に行くといつも通りの元気そうな顔をしたマルカがベッドに座っていた。だが、マルカは俺の姿を見るなり深刻そうな表情で深々と頭を下げる。
「ごめんなさい!またいつもみたく……ううん、いつも以上に迷惑かけちゃって本当にごめんなさい!」
謝罪なんて必要ない、マルカが罪悪感を感じる必要なんてどこにもない。分からない。父さんは安心させようとしてくるし、母さんは感謝してくるし、マルカは謝罪してくる。俺は咎められ、謝罪と反省をするべきではないのか。家族は俺に何を求めているんだ。何も分からなくなった途端に恐怖心が沸き起こり、思わず病室を飛び出していた。
当てもなく街中を歩き回り、いつしか恐怖心は消えていたが変わりに虚脱感が心を支配していた。
それからというものの、俺は何に対しても無気力で無関心になった。どうして良いか分からなくなるくらいなら最初から関わらなければ良い。そもそも俺個人ができる事なんてたかが知れていのに、何故俺は今まであんなに必死にマルカを守ろうとしていたのだろうか。現実から逃げているだけなのは知っている。だけど、それでも良いじゃないか、逃げるだけの人生であっても俺の人生には変わりない。
やさぐれる俺と対照的にマルカは中学に上がると天才的とも言える才能を発揮し始めた。勉強すれば学年一、二を争うどころか俺の教科書まで借りて予習してたし、一年ぐらいで中学の勉強のほとんどを理解してたんじゃないか。
変温症も発症し難くなったり、発症してもそこまで重い症状にはならなかったりで部活でも活躍してたな。
いろんな部活をやってたから詳しくは知らないけど、何か大会があるとほぼ毎回賞状を持って帰って来てた気がする。しかも、やさぐれた兄に昔と変わらない態度で接してくるのだから堪ったものではない。中学生になってから俺の事を名前で呼んでくるようになったから、兄と思われているかも怪しい。
こうして今現在の俺が存在する。




