第2部22話:『過去からの刺客!?地獄の上司と、沈黙のデストロイヤー』
凪原市陽だまり町、マッスルマート。
映画祭の喧騒が嘘のように、穏やかな午後の光が差し込んでいた。カズマはいつものように賞味期限をチェックしながら、「ま、いいか」と呟こうとした――その瞬間だった。
自動ドアが開く音が響き、カズマの鼓動が不自然なほど跳ね上がった。胸の奥が、冷たい手で掴まれたように強張る。
「――佐藤。お前、こんなところで何をしている。報告書はどうした?」
低く、粘りつくような声。 そこに立っていたのは、カズマがかつて勤めていた会社の元上司・ドクダミ。そして、常に隣の席で舌打ちを繰り返していた元同僚・ハキダメだった。
カズマの視界が急激に色を失い、どろりとした黒に染まり始める。
(……あ、ダメだ。スルーできない……)
胸の奥で、何年も触れないようにしていた“痛み”が、強制的にこじ開けられる。 目の前がブラックアウトし、意識があの「地獄のオフィス」へと引き戻されていく。
同時に、レジ横で丸くなっていた猫が、聞いたこともないような悲痛な叫びを上げた。背中の毛を逆立て、爪を床に立てる。
猫――未来の俺にとっても、それは魂に刻まれた共通のトラウマだった。 二人の意識は、現在の凪原市から完全に切り離され、嘲笑と怒号が渦巻く過去の暗闇へと突き落とされていく。
カズマの手から商品が滑り落ち、床に転がった。 白雪が振り返り、眉をひそめる。
「佐藤さん……? どうしたの、急に顔色が……」
しかし、その声はカズマには届かない。 耳の奥では、過去の怒号がもう始まっていた。
『佐藤、お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ?』
『何だその顔は。やる気がないなら今すぐ消えろ』
『お前の存在が迷惑なんだよ』
カズマの呼吸が浅くなり、膝が震える。 陽だまり町の温かい空気が、急速に冷たく、重く変わっていく。
猫がカズマの足元に飛びつき、必死に鳴き続けた。 ――戻れ。ここは過去じゃない。今は陽だまり町だ。 だが、その声もカズマには届かない。
店内の空気がざわつき始める。 レオンが不安そうにカズマを見つめ、店長が慌てて駆け寄る。
「佐藤君!? おい、どうしたんだ!」
しかし、カズマの瞳は焦点を失い、ただ過去の闇を映していた。
陽だまり町の日常が、音もなく崩れ落ちていく。 その中心で、カズマはただ、ひとりきりで沈んでいった。
視界の先では、若い頃のカズマが、窓のない部屋で何百枚もの書類に囲まれて震えていた。
蛍光灯の白い光が、彼の顔色をさらに悪く見せる。 机の上には、終わりの見えない報告書の山。 時計の針は、まるで意地悪をするように遅く進む。
『おい佐藤、お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ?』
『何だその顔は。やる気がないなら今すぐ消えろ。ゴミ箱の方がまだ役に立つ』
ドクダミの叱責が、物理的な重圧となってカズマの肩にのしかかる。 若いカズマは、ただ小さく頷くことしかできなかった。
――あの頃の僕は、声を出すことすら怖かった。
隣ではハキダメが、ニヤニヤと笑いながらキーボードを叩く音を響かせていた。
『またミスしたんですか? 佐藤さんのせいで僕の残業が増えるんですよねぇ。死んで詫びろとは言いませんけど、人としてどうかと思いますよ』
その声は、刃物より鋭く、氷より冷たかった。 カズマの心は、少しずつ削られていく。
同僚たちの嘲笑。 電話のベル。 終わらない残業。 上司の舌打ち。 プリンターのエラー音。 すべてが、カズマの精神をすり潰すために存在しているかのようだった。
カズマが引きこもる引き金となった、あの「心が壊れる音」が、今のマッスルマートの店内に幻聴となって響き渡る。
「……ぁ……あ……」
現実のカズマの瞳から光が消え、ただ立ち尽くしたまま、誰の声も届かない深い闇へと沈んでいく。 胸の奥が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
猫――未来の俺もまた、床を掻きむしり、過去の絶望に同期して震えが止まらなかった。 彼の小さな体が、まるで見えない鎖で縛られたように硬直する。
「佐藤さん!? どうしたの、急に……!」
白雪が駆け寄るが、カズマの耳には届かない。 彼の脳内では、過去の怒号がすべての音を塗りつぶしていた。
『お前は無能だ』 『存在が迷惑なんだよ』 『お前のせいで全部台無しだ』
その言葉が、何度も何度も反響し、カズマの精神を削り続ける。
レオンが泣きそうな顔で叫ぶ。
「おにぃさん! 大丈夫!」
店長も必死に肩を揺さぶる。
「佐藤君! しっかりしろ!」
しかし、カズマの意識はもう、陽だまり町にはいなかった。
そこは灰色の監獄。 逃げ場のない、終わらない地獄。 カズマが最も恐れ、最も忘れたかった場所。
そして今、彼は再びその中心に立たされていた。
「――ふん。まだ人格の形を保っているのか。しぶとい男だ」
ドクダミの背後で、元同僚・ハキダメの瞳が怪しく紫色の光を放った。 その光は、ただの怒りや悪意ではない。もっと深く、もっと冷たい、底なしの破壊衝動だった。
店内の空気が一瞬で変わる。 白雪が息を呑み、ガントレットの警告灯が赤く点滅する。
「……この反応……まさか……」
ハキダメの口元がゆっくりと歪む。
「気づいたかい、白雪さん。そう、僕は“ただの嫌な同僚”なんかじゃない」
彼の声が低く響き、店内の温度が数度下がったように感じられた。
「私の正体は――未来から来た精神犯罪者。『魂の断裁者』だよ」
その名を聞いた瞬間、白雪の顔色が変わる。
「……精神特異点犯罪……! そんな……あなた、時空警察に永久封印されたはずじゃ……!」
「封印なんて、壊せばいいだけだろう? それに――」
ハキダメはドクダミの肩に手を置いた。 その瞬間、ドクダミの瞳が濁り、まるで壊れた人形のように表情が消えた。
「この男も、私のナノマシンで“調整”しておいた。昔のままの姿で現れた方が、佐藤君には効くだろう?」
白雪の拳が震える。 レオンは恐怖で声も出せない。
ハキダメ――いや、『ソウル・シュレッダー』は、ゆっくりとカズマに近づいた。
「この凪原市の『陽だまり』が気に入らなくてね。特に、君のようなスルー能力者は私の天敵だ。だが――」
彼は指を鳴らした。 その音が、カズマの脳内に直接響く。
「過去の恐怖まではスルーできないだろう?」
次の瞬間、カズマの脳内にさらなる絶望のビジョンが叩き込まれた。
終わらない残業。 怒号。 嘲笑。 机を叩く音。 プリンターのエラー。 深夜の蛍光灯の唸り。 誰も助けてくれない部屋。
カズマの呼吸が乱れ、肩が痙攣する。
「佐藤君!? しっかりしろ!!」
店長が叫ぶが、カズマには届かない。
白雪のガントレットが緊急モードに切り替わり、 「精神汚染反応・危険レベル7」 という警告が表示される。
レオンは涙目で叫ぶ。
「おにぃさん! 帰ってきてよ!」
しかし、カズマの意識は完全に閉ざされていた。 彼は今、無限に繰り返される叱責のループの中に閉じ込められている。
ソウル・シュレッダーは満足げに笑った。
「さあ、佐藤カズマ。君の“ま、いいか”がどれほど通用するか、試してみようじゃないか」
陽だまり町の空気が、ゆっくりと凍りついていく。
「……。……。……カズマ。……。……反応、……ない。……。……敵。……斬る。」
セツナが異変を察知し、ナイフを抜いた。 その動きは、いつもの静かなアサシンの所作ではなく、明確な“怒り”を帯びていた。 ――カズマを傷つける者は、許さない。
彼女がハキダメへ向けて刃を放つ。 しかし、ナイフは空を裂くだけで、手応えはなかった。
「無駄だよ、セツナさん。僕は“精神の層”に存在している。物理攻撃なんて届くはずがないだろう?」
ハキダメ――いや、ソウル・シュレッダーは霧のように姿を消し、次の瞬間にはカズマの耳元に現れた。
「ほら、思い出せ。お前は無能だ。お前を愛する者などいない。このアパートの連中も、いつかはお前を捨てる。お裾分け? 筋肉? 笑わせるな、そんなものはまやかしだ」
その声は、過去の怒号と完全に同期していた。 カズマの肩が震え、呼吸が乱れる。
白雪が叫ぶ。
「やめなさい! 佐藤さんは、もうあの頃の佐藤さんじゃない!」
しかし、ソウル・シュレッダーは笑った。
「“あの頃の佐藤”を引きずり出すのが僕の能力だよ。人は過去から逃げられない。特に、優しい人間ほどね」
その瞬間、カズマの耳栓――『スルー・パッシブ』が、 パリン、と乾いた音を立てて砕け散った。
白雪の顔が青ざめる。
「……嘘……スルーが……破られた……?」
カズマの膝がガクガクと震え、床に崩れ落ちる。 視界は暗く、音は遠く、身体は重い。 心の奥に沈んでいた“あの頃の自分”が、再び這い上がってくる。
猫――未来の俺もまた、カズマの足元で動かなくなっていた。 小さな体が震え、瞳が恐怖で濁っていく。
――まただ。 ――また、あの地獄に戻るのか。
店長が叫ぶ。
「佐藤君! 立て! ここは会社じゃない、陽だまり町だ!」
レオンも泣きながら手を伸ばす。
「おにぃさん! 僕たちがいるよ!」
しかし、カズマには届かない。 ソウル・シュレッダーの作り出した“精神の密室”が、すべての声を遮断していた。
ハキダメの嘲笑だけが、店内に響き渡る。
「さあ、壊れてしまえ。二度と立ち上がれないほどに。君の“ま、いいか”なんて、過去の前では無力なんだよ」
陽だまり町の光が、一瞬で凍りつくような冷気に飲み込まれていく。 白雪もセツナも店長も、誰もカズマに触れられない。 彼は今、完全に孤立していた。
最強のスルー能力者が、 自らの過去という最大の敵に、 無防備に晒された瞬間だった。
そしてその絶望の中心で、 カズマの心は――静かに、深く沈んでいった。




