第2部 第12話:『大家さんの初恋!? アパートに現れた、謎のレディ。』
その日の朝、アパート『マッスル・コート』を揺らしたのは、
いつものように大家さんが早朝スクワットで地面を震わせている音ではなかった。
もっと規則正しく、もっと重厚で、
まるで大地そのものが歩いてくるような――
そんな“歩法”だった。
「……誰かしら。
大家さんの筋肉の波長に、真っ向から干渉してくるこの圧力は」
白雪が手にしていた測定器の針は、
普段なら大家さんの筋肉反応でギリギリ振り切れる程度なのに、
今日は完全にメーターの外へ飛び出していた。
「……え? 針が……戻ってこないんだけど……?」
白雪の顔が青ざめる。
その時――
アパートの入り口に“それ”は立っていた。
身長は2メートル近く。
全身を漆黒のトレーニングウェアで包み、
その肉体は彫刻のように無駄がなく、
筋肉のラインが衣服越しでもはっきり分かるほど美しい。
顔立ちは凛々しく、
髪を高く結い上げた姿は、
まるで戦場を駆ける女神――ヴァルキリー。
ただ立っているだけで、アパートの空気が震えていた。
「……坊や。久しぶりね。少しは身が入ったかしら?」
その声が響いた瞬間――
201号室の壁が弾け飛んだ。
「し、師匠ぉぉぉぉッ!!」
大家・轟さんが、涙と汗を撒き散らしながら飛び出してきた。
その勢いは、まるで大型犬が飼い主に飛びつくような純粋さと破壊力を兼ね備えている。
そのまま彼女の足元に五体投地。
「師匠!! 師匠ぉぉ!!私の筋肉は今日も元気です!!毎朝のプロテイン祈祷も欠かしておりません!!」
「……師匠?
あの大家さんが、あんなに小さく見えるなんて……」
レオンが影に隠れながら震えている。
普段は“筋肉の怪獣”のように見える大家さんが、今はまるで子犬のようだ。
大家さんは誇らしげに胸を張り、カズマたちに紹介した。
「紹介しよう、佐藤君、みんな……!!
私の筋肉の産みの親、そして魂のプロテイン・パートナー……『レディ・マッスル』こと、大剛鉄子師匠だ!!」
「あら、坊や。
私のことは鉄子でいいと言ったはずよ」
鉄子さんは、大家さんの頭を軽々と片手で持ち上げると、その上腕三頭筋を愛おしそうに撫でた。
「……悪くないわ。でも、まだ『愛』が足りない。筋肉に、お裾分けの心が足りないわね」
その言葉に、大家さんは感極まって震えた。
そして鉄子さんは、ゆっくりとカズマの方へ視線を向けた。
その瞳の奥には――大家さん以上の「狂気」と、それを包み込む「包容力」が同居していた。
カズマは思わず背筋を伸ばした。
「……佐藤カズマ、と言ったかしら。
このアパートの住人が、皆あなたの『おじや』に骨抜きにされていると聞いたわ。」
鉄子さんは、ゆっくりとカズマの前へ歩み寄った。
その一歩ごとに床がミシミシと悲鳴を上げ、アパート全体が“筋肉の圧”に押されて軋む。
「……師匠は、私の初恋の人なんだ。
……昔、プロテインをこぼして泣いていた私に、自分の大腿四頭筋を枕として貸してくれたあの日から……!」
大家さんの“重すぎる片思い”が、201号室の空気を一気に窒息させた。
レオンは壁の影に隠れながら、「……おにぃさん……空気が……重い……」
と、胸を押さえている。
カズマはというと、相手が巨人のような筋肉美少女(?)であっても、
いつもの「スルー・スマイル」を崩さない。
「鉄子さん、初めまして。……お腹、空いてませんか?」
「……フフ。良い肝っ玉ね。だが、私は不味いものは食べない。私の筋肉が拒絶するからよ。」
鉄子さんは腕を組み、その上腕三頭筋が“山脈”のように盛り上がった。
その圧力だけで、近くの観葉植物がしおれた。
そこへ――
未来から戻ってきた長官が、険しい表情で割り込んできた。
「……待て、佐藤。
その女……『大剛鉄子』。
未来の犯罪者データベースに照合中だ。……彼女は、西暦2099年の『プロテイン密造組織』の幹部だったはずだぞ!」
「……あら、長官さん。
あれは『密造』ではなく『自主制作』よ。未来のプロテインは、味がなさすぎるんですもの。」
「言い訳を!!
貴様、この時代に来た目的は何だ!大家を利用して、この座標を筋肉帝国に変えるつもりか!?」
長官の声が響くたびに、アパートの天井から砂埃が落ちてくる。
白雪は測定器を見ながら呟いた。
「……筋肉密度……上昇中……。
このままじゃ、アパートの構造材が……負ける……」
一触即発の空気。
筋肉と未来技術と官僚の緊張が、
アパートの狭い廊下に渦巻いていた。
しかし――
カズマは長官の言葉をスルーして、
台所から“湯気を立てる皿”を持ってきた。
「まあまあ、長官さん。
お土産もあるし、まずは食べましょうよ。
……鉄子さん、これ。お裾分けです。」
皿の上には、
よし江特製・意志を持つ大根のステーキ。
湯気が立ち上るたびに、
大根が「フンッ」と呼吸しているように見える。
鉄子さんは、
その皿をじっと見つめた。
「……この香り……。
ただの大根じゃないわね……?」
カズマは微笑んだ。
「母の味です。」
鉄子さんの眉が、わずかに動いた。
鉄子さんは、不敵な笑みを浮かべながら、
カズマが差し出した“よし江特製・意志を持つ大根ステーキ”を手に取った。
その動作だけで、
彼女の広背筋が「バサァッ」と翼のように広がり、
アパートの廊下に影が落ちる。
「……ハフッ。……ジュワッ。」
鉄子さんが一口かじった瞬間――
その背中の筋肉が、まるで巨大な生物のように脈動した。
「…………ッッ!? ……これは……!!」
鉄子さんの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
その涙は床に落ちた瞬間、
「パキィィィン」 と結晶化した。
(涙まで高密度……!)
白雪が震えながらメモを取っている。
鉄子さんは、震える声で言った。
「……なんてこと。
……私が未来で追い求めていた『究極のバルクアップ』が、
この一切れの大根の中に詰まっている……!!」
彼女は皿を両手で抱え、
まるで宝物のように胸に押し当てた。
「……『ま、いいか』という脱力と、
……『もっと育て』という執念……!!
……この矛盾が……筋肉を……進化させる……!!
……師匠として、負けたわ……!!」
その場に崩れ落ちる鉄子さん。
床が「メリッ」と沈む。
「師匠……!!
そんな、もったいないお言葉……!!」
大家さんは号泣しながら鉄子さんに抱きついた。
二人の筋肉がぶつかり合った瞬間――
ドォォォォン!!
衝撃波が走り、
近所のガラスが数枚割れた。
「ちょ、ちょっと!!
筋肉で爆発起こさないで!!」
白雪が慌てて窓を押さえるが、
カズマは「……あ、窓拭きしなきゃ」と、
割れたガラスを見て雑巾を取りに行こうとしていた。
長官は、呆れ果てたように手帳を閉じた。
「……佐藤。
……貴様はついに、未来の凶悪犯までをも『野菜』で改心させたか。」
「改心なんて。
……ただ、お腹が空いてたみたいだから。」
カズマは、鉄子さんに優しく微笑んだ。
「鉄子さん。
よかったら、このアパートの空き部屋……301号室に住みませんか?
ちょうど隣のビルが、大家さんの筋肉の振動で傾いてて、
補強が必要なんです。」
「……ええ。喜んで。
……この男の近くにいれば、
……私の筋肉は、さらに『優しく』なれる気がするわ。」
鉄子さんは静かに立ち上がり、
その背中の筋肉が“夕日を受けた山脈”のように輝いた。
大家さんは感極まって、
「師匠ぉぉぉ!!」と再び抱きつこうとしたが――
鉄子さんは片手で大家さんの額を押さえ、
「落ち着きなさい、坊や」と微笑んだ。
その姿は、
まさに“筋肉の母”だった。
こうして、アパート『マッスル・コート』に、
また一人、規格外の住人が増えた。
301号室――
入居初日、鉄子さんが足を踏み入れた瞬間、
床が10センチ沈んだ。
「……あら。
この床、ちょっと柔らかいわね」
「柔らかいんじゃなくて沈んでるんですよ!!」
白雪が悲鳴を上げたが、
バブル・マネーは腕を組んで満足げに頷いた。
「ふむ……これもアトラクションだ。
“沈む床の部屋”として売り出せば、
観光客が増えるかもしれんぞ!」
「売り出さないでください!!」
カズマのツッコミが響く。
その夜。
アパートの駐車場では、
街灯の下で大家さんと鉄子さんが並んでいた。
二人は無言でベンチプレス台に向かい、
1トン単位のバーベルを交互に持ち上げている。
「ヌンッ!! 師匠、今日は肩の入りが違いますね!!」
「坊や、まだまだよ。
筋肉は“昨日の自分”に勝ち続けるものなの。」
二人の筋肉がぶつかるたびに、
駐車場の地面がわずかに沈み、
街灯が“ミシッ”と揺れた。
その光景は、
この街の新しい“日常”になりつつあった。
「……おにぃさん。
……あのアパート、もう沈没するんじゃないかな……?」
レオンが自分の部屋の床を指差した。
確かに、部屋全体がほんの少し斜めになっている。
「大丈夫だよ、レオン君。
……いざとなったら、白雪さんが
『反重力装置』をつけて浮かせてくれるから」
「……そんな軽いノリで言うことじゃないよ……」
白雪は遠くから
「反重力装置は高いのよ!!」
と叫んでいた。
屋根の上では、
セツナが鉄子さんの動きをじっと見つめていた。
「……カズマ。
……鉄子。
……彼女の筋肉の匂い、……嫌いじゃない。
……。……私と、……同じ、……おじやの匂いがする。」
「おじやの匂いって何……?」
カズマは苦笑しながら、
セツナにおにぎりを渡した。
セツナはそれを受け取り、
鉄子さんのフォームを真剣に観察し続ける。
(もしかして……弟子入りする気なのか……?)
カズマは少しだけ不安になった。
その時。
カズマの膝の上で丸くなっていた未来の俺(猫)が、
尻尾をゆっくり揺らしながら呟いた。
『……ニャア。(カズマ。……お前、気づいてねぇだろ。
……あの大剛鉄子って女、
実は未来の「プロテイン密造」どころか、
……“地球の自転を筋肉で調節していた”
っていう伝説のエンジニアだぞ。)』
「えっ……?」
『ニャア。(彼女がいれば、
お前のその“スルー能力”も、
いよいよ宇宙の物理法則を書き換え始めるな。)』
「いや、そんな方向に進化しなくていいよ……」
猫は、カズマの膝の上で喉を鳴らしながら続けた。
『……まあ、楽しみにしてろ。
このアパート、これからもっと面白くなるぞ。』
大家さんの恋の行方は、まだデッドリフトの途中。
けれど――
カズマの「お裾分け」がある限り、その重圧さえも、心地よい“ノイズ”として溶けていく。
アパート『マッスル・コート』の夜は、筋肉と笑いと、ほんの少しの未来の気配に包まれて更けていくのだった。




