茶番劇へカイル
「そう。紛れもない負け戦ですよ」
その言葉は、元老院の会議場に、妙なほど静かに落ちた。
誰も、すぐには反応しなかった。
クラウディアンの男でさえ、口を開いたまま固まっている。
おそらく、反論されると思っていたのだろう。
あるいは、言葉を整え、撤退であって敗退ではないと強弁すると思っていたのかもしれない。
だが、カイルはあっさりと認めた。
「砦は落とせず、補給路も確保できませんでした。王国軍主力の到着を前に、こちらは撤退した。ならば、敗退と呼ばれても仕方ありません」
ラングレー将軍が、わずかに目を細めた。
それは、叱責ではない。
しかし、余計なことを言うな、という目だった。
カイルは気づいていたが、見なかったことにした。
「撤退を決めたのは私です」
今度は、議場のざわめきが少しだけ戻った。
「遠征軍の名目上の総司令官として、最後に判断したのは私です。王国軍主力が到着し、これ以上踏み込めば損耗が増える。そう判断しました」
「つまり、恐れたと?」
クラウディアンの男が、ようやく言葉を取り戻した。
カイルは、すぐに頷いた。
「はい。恐ろしかったですよ」
また、空気が止まる。
「敵地です。王国軍主力が来ました。こちらは補給線を伸ばし、敵は地の利を持っている。
しかも、あの命婦がいました。あそこで粘る理由はありません」
「……命婦を恐れた、と?」
「恐れない理由がありますか?」
カイルは、首を傾げた。
「恐ろしい戦場から、とっとと退散したかった。
だから撤退を決めました」
言い方は軽い。
だが、リュシアだけは知っていた。
それが嘘ではないことを。
カイルは本当に、あの戦場を恐れていた。
自分が死ぬことではない。
リュシアが倒れることを。
親衛隊が崩れることを。
撤退すれば助かる者を、自分の名誉や意地のために失うことを。
だから撤退した。
だから、敗退だと言われれば認める。
彼にとっては、それだけの話だった。
「それに」
カイルは、議場を見渡した。
「そもそも、転作作戦を言い出したのも私です」
今度こそ、クラウディアンの男は呆気に取られた。
責めるべき相手が、自分から責任を差し出してくる。
しかも、周囲がどう処理するか考える前に、全部まとめて引き受けてしまう。
それは、攻撃する側にとって、あまりにもやりにくかった。
「紅茶は後からなんで違いますけど、綿花とかの換金作物へ誘導して王国周辺領の食糧余力を削る策。その方向を示したのは私です。結果として、作戦は命婦に切り返されました。ならば責任は、私にあります」
敢えて叛徒で無く王国と使っているのは、矜恃なのか天然なのか。
ラングレー将軍は、後者だろうなと理解できた。
「……自ら、失策を認めるのか」
「事実ですので」
それは、自分がよく使う言葉。
壇の下で、リュシアが気付いた。
カイルは、自分で自分を裁いている。いや、元老院に裁かせようとしている。
誰かがリュシアや将軍たちへ責任を押しつける前に。
命までは失わない。失うのはカイルの名誉。
そしてそれ以外の誰も名誉を失わない。
本来共和国では命よりも尊いとされる名誉だが、彼は本気で望んでいるのが厄介だ。
「ほう」
低い声が、会議場の別の席から響いた。
年配の将軍が立ち上がる。
かつて、王国側への奇襲を命婦に阻まれた男だった。
その顔には、明らかな不機嫌が浮かんでいる。
「ずいぶんと殊勝な言い方をなさる」
彼は礼を取ったが、その口調は礼儀正しいとは言い難かった。
「命婦相手に主力を失わず、親衛隊を保ち、整然と撤退した。そう言いたいのですかな?」
「いえ、そんなつもりは」
「卑下するふりをして、命婦と渡り合ったと自慢なさるか。
若いとは羨ましいことだ」
議場の空気が、わずかに変わった。
クラウディアンの男が、そこでようやく気づいたような顔をした。
敗退を認める。
責任を引き受ける。
命婦を恐れたと言う。
それは、見方を変えれば、命婦という厄介な相手を前に、軍を保って退いたという主張になる。
しかも、それを自分で誇らず、敗退として語っている。
なんという嫌らしい手だ。
そう受け取った者が、議場に何人もいた。
カイルは、困ったように笑った。
「将軍、前回とは状況が違います。
今回は、命婦の存在も最初から知られていました。ですから、一緒にはなりませんよ」
年配の将軍のこめかみが、ぴくりと動いた。
「ほう」
同時に、違う場所から、席を立上がる音と同時に声がした。
声が恐ろしく低くなっている。
「それは、知っていれば対応できたと、そう言いたいのですかな」
「いえ、そういう意味では」
「では、どういう意味です」
今度は、別の将軍が立ち上がった。
こちらもまた、命婦に煮え湯を飲まされた者だった。
奇襲を仕掛け、読みを重ね、勝機を掴んだはずの戦場で、命婦に妨げられた男。
その時、彼は聞いている。
起きない奇跡は当然と言う。
起きた奇跡は必然と言う。
あの言葉を。
「命婦の存在を知っていれば、必然を避けられたとでも?」
問いというより、ほとんど怒鳴り声だった。
だが、その怒りは奇妙な方向へ働いた。
彼らはカイルを責めている。いや、正しくは彼の発した言葉を責めている。
しかし同時に、命婦という相手の厄介さを、元老院の前で証言してしまっていた。
戦場を知らぬ者たちの顔色が、少しずつ変わる。
命婦とは、そこまでなのか。
そういう空気が生まれ始めていた。
「いや、ですから」
カイルは、珍しく言葉に詰まった。
「必然の魔女相手に勝てるのなんて、黄金の孺子くらいのものだろうし……」
言ってから、しまった、という顔をした。
リュシアが、あー、と言う表情で目を閉じた。
遅い。
もう遅い。
議場が、別の意味でざわついた。
必然の魔女はわかる。あの忌々しい命婦のことだ。
だが……
「黄金の孺子?」
「今、黄金の孺子と言ったか」
「誰のことだ」
カイルは、咳払いを一つした。
「ああ、いや。クラウディオ卿のことです。
私ではありません」
あまりにも露骨な押しつけだった。
クラウディアンの席が、今度こそ完全に固まる。
彼らはカイルを攻撃しに来たはずだった。
敗退を認めさせ、責任を負わせ、後継者としての資格に傷をつける。
そのはずだった。
なのに、カイルは敗退を認めた。
責任を引き受けた。
命婦を恐れたと言った。
それなのに、実戦派の将軍たちが、勝手に命婦の格を上げ、結果としてカイルの撤退判断を補強してしまった。
その上、カイルは唐突にクラウディオの名を出した。
黄金の孺子。
それが誉め言葉なのか、厄介な称号なのか。
すぐには判断できなかった。
この言葉を受け入れれば、クラウディオは命婦に対抗し得る人物として持ち上げられると同時に、まだ孺子にすぎないと認めることに。
拒めば、クラウディオでは命婦に及ばぬと認めることに。
どちらを選んでも、カイルには及ばぬと認めるようにしか思えなかった。
ただ一つ分かることがある。
どちらに転んでも、面倒だと。
壇の下で、リュシアだけが、そっと息を吐いた。
本心だ。
彼女には分かる。
カイルは、自分を黄金の孺子などと呼ばれたくない。
必然の魔女とやらに対抗する役目も、後継者の名も、できれば誰かに押しつけたい。
それがクラウディオで済むなら、彼は本気で喜ぶだろう。
だが、元老院の者たちは、そうは取らなかった。
騒然とした空気の中、第一執政卿が小さく咳払いをした。
ただ、それだけだった。
それだけで、議場の声が消える。
第一執政卿は、しばらくカイルを見ていた。
その目が語るのは、一つでは無い。
国家元首の目であり、議長の目であり、そして父の目でもあった。
国家そのものが、そこにいる若い男を測りかねている目だった。
「命婦に、後継者と呼ばれたか」
会議場の空気が、さらに重くなる。
カイルは、一瞬だけ視線を落とした。
「……はい」
「そうか」
第一執政卿は、ゆっくりと頷いた。
「まだ、その言葉は重いようだな」
リュシアは、彼を見た。
カイルの肩に掛けられた白い外衣。
彼が嫌っている、古い正装。
身に纏うというより、権威に搦め捕られるようだと言っていた布。
その布が、今は言葉の重さそのものに見えた。
第一執政卿は、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「難しいものだな……」
それ以上、彼は何も言わなかった。
だが、議場の空気は割れていた。
クラウディアンは、余地を見た。
軍人たちは、重さを見た。
利に敏い者たちは、値を見た。
そしてカイルは、父を見た。
次回は8/13投稿予定です




