団らんへカイル
扉が開いた、というより、跳ねた。
「カイルお兄様!」
同時にそう言って、少女がいきなり飛び込んできた。
年の頃は十を少し越えたくらいだろうか。
淡い金の髪を揺らし、勢いそのままに部屋へ飛び込んできた少女は、まっすぐカイルへ向かって走ってくる。
「ジーナ」
エミリアが、少しだけ声を低くした。
叱っている、というほどではない。
ただ、茶会の部屋へ飛び込むには、いささか元気が良すぎるという注意だ。
少女――ジーナは、その場でぴたりと止まった。
が、勢いまでは止まり切らなかったらしく、靴の先が絨毯の上で小さく滑る。
「エミリア様。ただいま戻りました」
「戻りました、ではありません。まずは挨拶でしょう」
「は~い」
ジーナは、すぐに姿勢を正した。
小さな手でスカートをつまみ、ぎこちないが丁寧に膝を折る。
「カイルお兄様、お帰りなさいませ。ルイお兄様も、ごきげんよう。リュシア姉様、セリア姉様も、お久しぶりです」
「お久しぶり、ジーナ」
リュシアが淡々と頷く。
「ご挨拶は上手になりましたね」
「本当?」
「ええ。飛び込んで来なければ、もっと上手でした」
「うっ」
ジーナは、分かりやすく肩を落とした。
その様子に、ルイが小さく笑う。
「まあ、元気なのは悪いことじゃないよ」
「ルイお兄様は、やさしいです」
「そうだろう?」
「ですが、ルイお兄様はセリア姉様と婚約しているので、だめです」
「何がだめなのかな」
ルイが笑顔のまま尋ねる。
セリアは、注ぎかけていた茶の手を一瞬だけ止めた。
リュシアは、何かを察したように目を細める。
カイルは、嫌な予感がした。
だいたい、ジーナがこの顔をすると、次に面倒なことを言う。
「だから、私はカイルお兄様のお嫁さんになります」
部屋の空気が、一拍だけ止まった。
カイルは、報告書へ視線を落とした。
読みかけの敗戦報告書が、急にとても大切なものに見えてきた。
「……ジーナ」
「はい!」
「その話は、前にも聞いた」
「前にも言いました」
「そして、その時も言ったと思うけど、私は君のお兄様みたいなものだろう」
「お兄様です」
「なら」
「でも、ルイお兄様はだめです。セリア姉様がいるから」
「そこを基準にするのはやめようか」
カイルは、軽く額を押さえた。
リュシアが、淡々と茶菓子を一つ皿へ移す。
「カイル様、良かったですね。少なくとも一名、熱心な支持者がいらっしゃいます」
「リュシア、笑ってないか」
「笑っておりません」
「目が笑っている」
「気のせいです」
セリアは、困ったように微笑んだ。
「ジーナ様。カイル様にも、いずれ大切な方ができるかもしれませんよ」
「リュシア姉様?」
即答だった。
セリアが、今度こそ茶をこぼしかけた。
ルイが、口元を押さえる。
エミリアは目を伏せた。
リュシアだけが、表情を変えなかった。
「なぜ、そこで私の名が出るのですか」
「だって、カイルお兄様の隣には、いつもリュシア姉様がいます」
「副官ですので」
「副官は、お嫁さんにはならないの?」
「職務と婚姻は別です」
「でも、セリア姉様は副官でお嫁さんでしょう?」
ジーナは、まっすぐセリアを見た。
セリアは、ほんの少し頬を染める。
「私は、その……ルイ様とは、幼い頃からの約束もありますので」
「じゃあ、私も約束します。カイルお兄様と」
「待て」
カイルは、とうとう報告書を置いた。
「その流れで約束を増やすな」
「だめ?」
「だめというか、まだ早い」
「早いだけ?」
「言葉尻を捕まえるな」
ジーナは、少し考え込むように首を傾げた。
「では、早くなくなったら?」
「その時には、その時の私と君が考える」
言ってから、カイルはしまったと思った。
これは、子供の勢いを受け流すには曖昧すぎる。
そしてジーナは、曖昧な言葉を都合よく解釈する才能に恵まれている。
案の定、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「約束ですね!」
「約束ではない」
「でも、考えてくれるのですね」
「考えるだけだ」
「はい!」
ジーナは、満面の笑みで頷いた。
リュシアが、静かに茶を口に運ぶ。
「カイル様」
「何だ」
「諦めるのに、遅すぎることはないそうですよ」
「その言葉を、そういう使い方で返すな」
ルイが、とうとう声を漏らして笑った。
「アウル、君は戦場では相手の退路を読むのに、自分の退路はいつも塞ぐね」
「誰のせいだと思っている」
「ジーナのせいにするのは大人げないよ」
「おまえが面白がっているせいだ」
「否定はしない」
エミリアが、手を軽く叩いた。
乾いた音ではない。
部屋の空気を、柔らかく整えるための音だった。
「そこまでにしましょう。ジーナ、カイルは戻ったばかりです。困らせすぎてはいけません」
「はい、エミリア様」
ジーナは素直に頷いた。
そして、当然のようにカイルの隣の席へ向かおうとする。
「ジーナ」
リュシアが呼び止めた。
「はい?」
「そちらはカイル様の報告書置き場です」
「じゃあ、報告書をどかします」
「どかしてはいけません」
「では、少しだけ詰めます」
「詰めてもいけません」
カイルは、深く息を吐いた。
戦場から戻ってきたはずなのに、どうして自分は今、報告書と少女と茶菓子の配置を巡って防衛戦をしているのだろう。
しかも、どう見てもこちらの方が分が悪い。
ジーナは、結局リュシアに促され、カイルの斜め向かいに座った。
それでも十分に近いと思っているらしく、満足そうに揚げ芋を一枚つまむ。
「これ、美味しい」
「……それも命婦絡みだ」
カイルがぼそりと言うと、ジーナは目を輝かせた。
「命婦って、カイルお兄様に勝った人?」
「負けてはいない」
「勝ってもいないですね」
リュシアが即座に言った。
「撤退しただけだ」
「撤退も、言い方を変えれば負けでは?」
「なら転進だ」
「つまり負けたんですね」
「リュシア」
「事実です」
ジーナは、揚げ芋をもう一枚つまんだ。
「じゃあ、私がカイルお兄様を慰めます」
「慰めなくていい」
「でも、慰めます」
「人の話を聞こうか」
「聞いています。慰めます」
ルイが、また笑った。
「いいじゃないか、アウル。支持者は大事にするものだよ」
「十歳そこそこの少女を、政治的支持者に数えるな」
「共和国では、何がいつ政治になるか分からない」
その言葉に、エミリアがわずかに目を細めた。
一瞬だけ、茶会の空気が変わった。
ジーナは気づいていない。
セリアは気づいたが、口には出さなかった。
リュシアは、当然のように気づいていた。
カイルもまた、その意味を理解した。
共和国では、何がいつ政治になるか分からない。
子供の戯れのような言葉でさえ、誰かが利用しようと思えば、火種になる。
だが今は、まだ茶会だった。
少なくとも、この場では。
「それで、ジーナ」
カイルは、わざと声を軽くした。
「君は、私に会いに来ただけか?」
「はい!」
「即答か」
「だって、カイルお兄様が帰ってきたと聞いたから」
ジーナは、何の迷いもなく笑った。
「お帰りなさい、カイルお兄様」
その笑顔に、カイルは一瞬だけ言葉を失った。
敗戦ではないと言い張っているが、勝利でもない。
敵は厄介だ。
共和国の空気は、これからさらに面倒になる。
それでも、こうして帰りを喜ぶ者がいる。
「……ただいま、ジーナ」
カイルは、少しだけ表情を緩めた。
その瞬間、何も言わずにリュシアが静かに茶を注ぎ足した。
ただ、まるでその一瞬を守るように。




