52.8 勘違いされる転生者
「上手くいきましたな」
くつろいだ姿勢で銀製の脚付酒杯を傾けながら、国務大臣はそう言った。
杯の中で、淡い琥珀色の果実酒が揺れる。
対する王は、一角獣のものと伝わる古い角杯を手にしていた。真偽は怪しい。だが、王家の宝物庫から出てくる品にいちいち真贋を問う者はいない。
王はその角杯で口を潤し、満足げに笑った。
「まさに。見事なタイミングだった」
「軍功会もそうですが、戦場での仕込みも見事でしたな」
「うむ。寝返り男爵、か。悪名を旗に変えるとは、政治をよく分かっておる」
王は機嫌が良かった。
セレルナ城は落ちなかった。
共和国軍は退いた。
王国軍主力の見栄えは最悪だったが、外向きには勝利と言える。
そして、その勝利の中心に、王が好む類いの名が生まれた。
寝返り男爵。
普通なら不名誉である。
だが、悪代官の名を継ぐ者。
それを本人が名乗り、兵が続いた。
その、軽くて重い名前を背負い、王国の勝利に結びつけた。
王はそういうものが好きだった。
いや、好きとか嫌いで無い。
四人の悪名持ちは、もはや王国中興の伝説だった。
国務大臣は軽く杯を傾けた。
「勲功会……いや、今回は勲爵が絡まぬので単なる軍功会でしたな。
あの場で余計な詮議に入らず、戦勝のみを語る形に戻せたのは大きゅうございます」
「あのもの手柄か?」
「少なくとも、あの場で王の言葉を止められる者は多くありません」
「ふむ。命婦の手腕はなかなかと言うことか」
「そこだけ、ではありますまい」
国務大臣が笑う。
王も笑った。
その時、控えめなノックが響いた。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは二人だった。
一人は恰幅の良い禿頭の男。
髭は立派で、腹も立派で、ただ立っているだけで妙な迫力がある。
セレルナ男爵である。
もう一人は、痩せた小柄な文官だった。
宮廷伯ボリスラフ・ヴァレク。
領地を持たぬ宮廷貴族で、法文と帳簿の間で生きてきた男である。
セレルナ男爵の横に立つと、ヴァレク宮廷伯はさらに小さく見えた。
「本日は、お招きいただき、恐悦至極に存じます」
「祝賀の前に、このような私的な場へお呼びいただけるとは、身に余る光栄にございます」
二人は見事な礼を取った。
王は満足げに頷く。
「ああ。して、二人だけなのか?」
「ところで、命婦殿は?」
「あの……女男爵はいらっしゃらぬので?」
王、セレルナ男爵、ヴァレク宮廷伯。
三人の声が、ほぼ同時に重なった。
部屋の空気が、一拍止まる。
王は角杯を持ったまま、ゆっくりと国務大臣を見た。
「大臣。そなた、命婦も呼んだのではないのか」
「いえ。私は、陛下の御意向で既に命婦が動いているものとばかり」
国務大臣は、そこでようやく何かがおかしいと気づいた顔をした。
王は眉を寄せる。
「何のことだ」
「陛下は、ご存じなかったのですか」
「だから、何をだ」
国務大臣は、しばし沈黙した。
そして、極めて慎重な声で言った。
「……彼が、命婦を共和国で固有名詞にしてしまった、バラージュ男爵です」
王は目を瞬かせた。
「なるほど。彼女ではなく、彼が、か」
セレルナ男爵とヴァレク宮廷伯は、理解できずに目をぱちくりさせていた。
二人とも、ここへ来るまでに互いのことは少し話していた。
セレルナ男爵は、ヴァレク宮廷伯を「王前で疑義を呈した胆力ある文官」と見方を変えた。
ヴァレク宮廷伯は、セレルナ男爵を「悪名を背負ってでも領民を守った領主」と見方を変えた。
つまり、二人とも相手を尊敬に値する人物だと認めていた。
だが、それとこれとは別である。
命婦がいない。
しかも王も大臣も、どうやら命婦が勝手に動いたらしいと気づき始めている。
その事実が、二人を困惑させた。
しかし王は気にしなかった。
むしろ機嫌よく、二人へ呼びかける。
「気にするな。寝返り男爵に、讒言侯よ」
ヴァレク宮廷伯の顔が、目に見えて引きつった。
「陛下。恐れながら、私めは領地を持たぬ宮廷伯にございます。諸侯ではございませんが……」
「気にするな。命婦がそう呼んだのだ」
王は鷹揚に手を振った。
「そもそも、命婦とて爵位ではあるまい」
ヴァレク宮廷伯は言葉を失った。
セレルナ男爵は、隣で妙に納得した顔をしていた。
国務大臣は、口元を押さえた。
笑いを堪えているのか、溜息を隠しているのかは分からない。
「陛下」
大臣が静かに言う。
「おそらく、命婦殿は諫言と讒言を言い違えただけかと」
「分かっておる」
王は笑った。
「だが、言葉は落ちた。しかも王の前でな」
王は角杯を傾け、酒を一息で飲み干した。
「何より、余は綽名持ちを二人も得たのだ。
かつての王が“おべっか使い”と“脳筋”を同時に得たように」
「いいえ、陛下」
ヴァレク宮廷伯が、青い顔を赤くしながら静かに首を振った。
「得たのは三人にございます」
王の目が、楽しげに細まる。
「三人?」
それを受けて大臣が続ける。
「寝返り男爵。讒言侯。そして――」
大臣は、そこで一拍置いた。
「命婦にございます」
部屋の空気が、再び止まった。
王の笑みが、深くなる。
それは、先ほどまでの陽気な笑みとは違った。
獲物を見つけた獣のような、獰猛な笑みだった。
「そうであったな」
王は空の角杯を卓へ置いた。
「ならば、よろしい。
儀礼院へ伝えよ」
国務大臣が、わずかに目を細める。
王ははっきりと宣言した。
「今後、王国において命婦の称号は廃止する」
セレルナ男爵が目を見開いた。
ヴァレク宮廷伯も、思わず顔を上げる。
「女性であっても、騎士の称号を与えるものとする。命婦は、官名としては用いぬ」
王は、そこで笑った。
「命婦は一人でよい」
国務大臣は、深く頭を下げた。
「御意」
セレルナ男爵は、感心したように息を吐いた。
ヴァレク宮廷伯は、青ざめた顔を今度は白くして呟いた。
「では、私は本当に、讒言侯に……?」
「安心せよ」
王は笑った。
「そなたは王の前で疑義を呈し、結果として讒言を諫言へ変えた。ならば、その名に恥じぬ働きをすればよい」
ヴァレク宮廷伯は、もはや何も言えなかった。
セレルナ男爵は隣で大きく頷く。
「よい名です。私も、最初に命婦から寝返り男爵と呼ばれたときは、一瞬目の前が暗くなりましたが、名とは背負えば意外と重心が定まるものです」
「男爵閣下、それは慰めになっておりません」
「そうですかな?」
王は大きく笑った。
「よい。実によい」
その声には、先ほど軍功会で見せた王としての重さとは別の、子供のような愉快さが混ざっていた。
国務大臣は、その様子を眺めながら、内心で一つ息を吐いた。
命婦は、自分の名が官名を押しのけて固有名になるとは知らないだろう。
だが、それでよい。
王国には、時にこういう名が必要になる。
行儀の良い貴族でも、整った将軍でもない。
人の口に残り、兵の耳に残り、敵国の記録にも残る名。
寝返り男爵。
讒言侯。
命婦。
この三つが並んだ瞬間、かつての名君が放った言葉が蘇る。
綽名が一つなら王都を死守できる
綽名が二つなら国土を維持できる
綽名が三つなら国土を拡張できる
綽名が四つなら全土を統合できる
結局彼は四人得たが、一人と二人と一人を得て、国土を維持して終わった。
そう、同時には綽名持ちを二人までしか得ることが出来なかった。
王はそれを知っている。
だから笑うのだ。
扉の外では、祝賀会の準備が進んでいる。
まもなく多くの貴族、騎士、将校、文官たちが集まるだろう。
そこでこの三つの名は広まる。
おそらく、本人たちの意図とはまったく別の形で。
国務大臣は、静かに杯を置いた。
「陛下。そろそろ祝賀の場へ」
「うむ」
王は立ち上がった。
「行くぞ。余は今日、実によい臣を得た」
セレルナ男爵は胸を張った。
ヴァレク宮廷伯は、今にも倒れそうな顔で礼をした。
そして、国務大臣は思った。
この場に命婦がいないことだけが、実に惜しい。
これまでに上がってきた家令の情報が確かなら……
あの男爵はきっと頭を抱えただろうから。
次回更新は6/27です。




