46.8 鳴きで対抗する転生者
最初に崩れたのは、隊列ではなかった。
心の方だった。
王国軍の前衛にいた甲冑の一体が、まだ敵と接触もしていないというのに、いきなり明後日の方向へ駆け出した。
撤退でも、転進でもない。
ただ“何か恐ろしいものが来る”という感覚だけに突き動かされた、獣じみた離脱だった。
「お、おい!どこへ行く!」
怒鳴る声が飛ぶ。
だが、その声の主もまた、自分の足元が揺らいでいるのを隠せていなかった。
甲冑が逃げれば、その従兵も置き去りになる。
僚兵と呼ばれる、簡易的な機構鎧を着けた従兵たちは、主人である甲冑の動きに追従しようとして右往左往した。
片方は荷駄を守れと怒鳴られ、片方は主人を追えと叫ばれ、どちらへ走るべきかも決められないまま泥を蹴る。
ある者は甲冑の後を追って転び、
ある者は置き去りにされた槍を拾おうとして別の兵に突き飛ばされ、
ある者は命令を待つ顔のまま、その命令を出すべき上官が既に別方向へ駆けているのを見て、立ち尽くした。
そこへ、さらに悪いことが重なった。
カイルの親衛隊が、朝靄を裂いて近づいてくる。
まだぶつかってもいない。
まだ槍も届いていない。
なのに、その姿を視界に入れた徒歩兵たちが、まるで示し合わせたようにカイルとは逆方向へ走り出した。
彼らが着けているのは、簡易な胸当てと兜ばかりの軽装だ。
盾はある。槍もある。
だが、それを“構える”前に、足が逃げていた。
「待て!止まれ!」
「列を保て!」
「まだ来ていない、まだだ!」
怒号は飛ぶ。
だが怒号そのものが、もう統率の声ではない。
自分を落ち着かせるために喉を震わせているだけの、恐慌の合唱だった。
結果として、王国軍の前衛は奇妙な形に崩れた。
密集して押し合うのではない。
互いに逃げ道を探し、しかし逃げ切るには遅すぎて、中途半端に散る。
甲冑は甲冑で僚兵を置き去りにし、僚兵は僚兵で主人の進路を塞ぎ、徒歩兵は徒歩兵で横へ広がって荷車と伝令線を断ち切っていく。
乱れている。
だが、密集してはいない。
混乱している。
だが、混戦にはなっていない。
☆ ◆ ☆ ◆ ☆
その光景を見たカイルは、内心で舌打ちした。
(まずいな)
崩れてはいる。
恐慌も起きている。
だが、これでは“踏み潰してさらに混ぜる”ための塊がない。
理想は、敵が踏みとどまろうとして密集し、その一角へ親衛隊ごと食い込むことだった。
密集したところへ楔を打ち込み、後続の動きまで巻き込みながら、乱戦を一気に広げる。
そうなれば、撤退する共和国主力にとっては最高の目くらましになる。
だが現実には、敵は崩れながらも、勝手にばらけていた。
右へ逃げる甲冑。
左へ逃げる徒歩兵。
その間で主を見失い、半端に立ち止まる僚兵。
そこへ荷車が引っ掛かり、伝令が怒鳴り、さらに空いた隙間へ別の兵が滑り込む。
散っているせいで、逆に巻き込みにくい。
(混乱しているくせに、混ぜにくい……!)
カイルは歯を食いしばった。
せっかく敵は恐慌に陥っているのに、恐慌の形が悪い。
これでは“乱戦”ではなく、ただの“勝手に崩れる前衛”だ。
それでも止まれない。
ここで足を止めれば、せっかく崩れかけた先頭が持ち直す。
なら、より狭く、より深く食い込み、無理やりでも戦場を一つに縫い留めるしかない。
――いや。
そこまで考えたところで、別の動きが頭をよぎる。
一度、散らす。
親衛隊を小さくほどき、敵の逃げ道へ薄く差し込む。
そのまま敵の恐慌を広げたところで、今度は一気に再集結する。
散会と集結を短い間隔で繰り返せば、敵は“どこが突破口で、どこが壁か”を見失う。
踏み潰す塊がないなら、こちらが塊になったり、ほどけたりを繰り返して、無理やり戦場を混ぜればいい。
(……いけるか?)
まともに仕込んだ案ではない。
もちろん、そんな“プランB”など最初からあったわけでもない。
ただ、今この場で、使えそうな形に見えた。
カイルは剣を抜き放つと、さらに速度を上げた。
「プランBで行くぞ!」
親衛隊には意味が伝わらなくても構わない。
どうせ次に飛ばす命令で形にする。
散ったなら、散った先を踏み潰す。
混ざらないなら、こちらから混ぜに行く。
そうでもしなければ、この恐慌は“使える混乱”にならない。
そして、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。
「……案外、なんとかなるもんだって」
☆ ◆ ☆ ◆ ☆
カイルが最初の命令を飛ばしかけた、その瞬間だった。
空から影が落ちた。
甲冑の一機が、朝靄を裂くように斜め後ろから食い込んでくる。
命婦の甲冑だ。
さらに地上では、四脚の騎装馬型が土を噴き上げながら迫ってくる。
ラヨッシュ。あの騎士団の中で最も速い“地上側の刃”だ。
(ああ、まずい)
今度の“まずい”は、さっきとは違う。
敵前衛の崩れ方ではない。
こちらの手順が、挟み込まれて消える方のまずさだ。
散会は、広がるための動きだ。
だが、命婦と騎装馬に追いすがられている状況で広がれば、その瞬間に一隊ずつ食われる。
集結も同じだ。
集まるための“間”を、あの二機は与えてくれない。
親衛隊の前列が、命婦の斜め撃ちを受け流すためにずれた。
その隙へ、ラヨッシュの騎装馬型が槍を突き立てる。
盾を立てれば吹き飛ばされ、避ければ隊列が裂ける。
(散会も集結も、間に合わない)
カイルは即座に見切った。
思いつきのプランBは、組む前に死んだ。
「散るな!そのまま維持!」
短い命令が飛ぶ。
親衛隊は従った。
さっきまで散るために使うつもりだった速度を、今度は“崩れず前へ出る”ために使う。
計画は捨てる。
だが、勢いは捨てない。
その時だった。
親衛隊の隙間越しに、カイルの目が共和国主力の方へ流れた。
歩兵は正面を向けている。
槍も盾も、王国軍の方へ向けたままだ。
隊列は薄く伸びているが、崩れてはいない。
荷車もまた、乱雑に逃げているのではなく、順番に引き剥がされるように下がっていく。
逃げている。
だが、背は見せていない。
(……もう始めてる)
撤退そのものは、既に始まっていた。
それも、ただの敗走ではない。
迎撃可能な形を保ったままの後退だ。
このまま自分が王国軍の前衛を掻き回し、少しでも時間を稼げば、共和国主力はそのぶんだけきれいに距離を取れる。
逆に、ここで小細工に拘って足を止めれば、後退列の整い方が中途半端になり、追撃の餌になる。
(なら、散会は要らない)
混ぜて広げる必要はない。
必要なのは、王国軍の前衛を“今この場だけ”ぐしゃぐしゃにすることだ。
時間を稼ぐ。
線を引き裂く。
後ろの秩序を守る。
そのために、前を壊す。
カイルは親衛隊の前で、剣をわずかに上げた。
「小細工は……平和は捨てる」
誰に向けた言葉とも知れない。
だが、親衛隊は聞いていた。
「一気通貫で行く!」
麻雀を知らない者には、意味は通らない。
だが、勢いだけは十分だった。
親衛隊の甲冑が、剣と槍を揃える。
散るための隊列ではない。
一本の杭みたいに、王国軍前衛へ向けて先を尖らせる。
その後ろから、命婦の甲冑が追ってくる。
左ではラヨッシュの騎装馬型が、なおも無理な角度で食い下がってくる。
それでも、もう振り返らない。
カイルは前だけを見た。
整然と後退する共和国軍。
まだ整いきらない王国軍前衛。
その真ん中を、ただ一本の線で裂く。
それが今、自分にできる最善だった。




