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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第三期 あけぬなづきの海
36/42

第三十三話 ガリラヤ湖から来た男

 洋館からふらふらと中庭に出ると、まだ朝にはなっていないようだった。あの書架だらけの場所にいるとき、俺の体内時計はいつも狂っている。三日はあの場所にいたような気さえする。だが、空気の湿り具合からして、まだ夜中であるらしい。俺の知っている同じ夜中とは限らないかもしれないが。ふ、と息を吐いて、空気が凍るように寒いことを確かめた。それからまた、今しがた見てきたばかりの茜に関する記憶を頭の中で整理し始める。彼女自身が見てきた世界と、彼女を見てきた別の人間の世界。彼女と、枇杷と、知らないやつ二人──恐らくは、俺の「前任者たち」の記憶たちが交錯して、濁流のように折り重なって俺の頭の中に積み上がっている。俺はその乱雑な積み重ねのひとつひとつを崩して机の上に広げて並べていくように、頭の中で整頓していった。


 部屋に着き、まだまとまりのつかない心でベッドに腰掛けると、自然とため息が溢れた。だって、違いすぎるのだ。俺が今までに構成してきた彼女という人物のイメージと、彼女の内側にある感情の渦というのが、とても同一のものとは思えない。そのふたつが、俺の中で乖離したままなのだ。そうして呆然としたままでいた俺は、市井の言葉を思い出していた。奴は言っていたじゃないか。茜は、「相手を殺したところでなんとも思わない」ような女なのだと。けれど、あれが。涙を零し、狂った獣のような鳴き声の中で呻いている彼女の姿を思い出す。あれが、「なんとも思わない人間」の感情の記憶としてあり得るのだろうか。


「そんなわけがない」


 たったひとりの部屋の中でその否定の文言が俺自身の口から吐き出され、推測が盤石な基盤に立脚した確信へと変わったのがわかった。


 彼女は俺が思っているほど冷徹な女じゃない。彼女とはまだ、対話の余地がある。話すべきことがある。話せばきっとわかることがある。彼女に殺されかけている人間である俺にしかできないことが、俺だからこそできることが、絶対にあるのだ。俺は組み合わせた手で口元を覆い、考える。ふっと目を閉じると、俺が今座っているこのベッドの上でシーツの皺の間になだれ込んだまま泣いていた彼女ことをありありと思い出した。俺は自分が座っているベッドを振り返り、そのままシーツの上に手を滑らせた。彼女は、そうか、ここで、ひとりで。俺はそのとき懸命になって、シーツの上に彼女が落としたはずの涙の跡を探していた。どうしてだろう、あるに違いないと思ったのだ。そんな、いつできたかもわからないものが、今見つかるはずもないのに。それなのに俺の目は、なぜか必死になってそれを見出そうとしていたのだった。


 広げた俺の手のひらがするするとシーツの上を滑り伸びていった先で、俺の視界の中に「見たことのあるもの」が映り込んだ。見たことがある、いや、ずっと見ていた、けれど俺が特別な意味合いを見出していなかった「それ」。俺は心臓をぐっと掴まれるような心地に身を任せ、身を転じると、夢中でベッドの上を這い、半ば転げ落ちるようにして向こう側に足を下ろした。通りに面した窓とベッドの隙間に、じわりとしゃがみ込む。そのまま両手を伸ばす。無音の空気が部屋の中を満たしている。疑わしさと確信が常に入れ替わりながら俺の心臓を責め立てる。


 俺の目に映っているのは、二つ平行に並んだ真鍮の引き手だった。茜と共にこの部屋で寝起きを繰り返す間、ずっと目の端に入っていた、脳のどこかでずっと覚えていた、けれど気にもとめていなかった、黒い箪笥。正確にダークブラウンの木製の箪笥には、茜の持ち物が詰め込まれているのだが、改めてよく見てみれば、引き出しのひとつひとつには控えめながらも真鍮の引き手がふたつずつ付いていて、草木の文様が彫り込まれたそれに、窓から差し込んだ街の明かりが照り映えているのだ。俺はその引き出しのひとつひとつを上から見ていって、その「一番下の段」へと目を落とした。自分の口から漏れる息の音が聞こえる。指先で触れた引き手はその色通りの冷たさを持っていて、俺の指の腹に彫りこまれた精巧な凹凸が引っかかった。胸の中までざわりと粟立つような奇妙な恐怖感が心臓を覆い尽くす。同じ、全く同じだ。口の中でそう言葉を組み上げたとき、俺の口は声ともつかぬ声を漏らしていた。引き手から離した指先が震えているのがわかる。今、俺の目の前にあるのは、間違いなく、記憶の中の茜が手をかけ引き出した、「あの」引き出しに他ならなかった。


 妙な緊迫感に包まれながらも、俺はその真鍮の引き手に両手の指を差し入れ、腕に力を込めて、何か祈るような気持ちでゆっくりと手前に引き寄せる。木と木が擦れる感覚が小刻みな震えとなってに手に伝わってくるのを覚える。かすかに開いた隙間から黒い布地が覗いたとき、俺は胸がつかえるような吐き気のようなものを覚えた。心臓が止まるような気がした。けれど、ぐうっと緊張の高まった心臓の圧迫感に、今度は溶け出すような熱い感覚が続く。それでも俺はそのまま黒いベルベットの布地がびったりと敷かれたその引き出しを開け切ったのだった。


 心臓で息をしているような気分だった。黒く敷き詰められたベルベッドの端が微かにめくれているのを見つけ、俺は肺が締め付けられるような感覚を覚えながら、その、めくれをつまみ上げ、ベルベットの柔らかな布地を剥がした。


「は」


 自分の息を吸う音が痛々しいくらいに空気に擦れて、俺しかいない部屋の中にひりひりと鳴った。特別なことは起こらなかった。ただ、記憶の中で見たのと同じ、想定通りの光景がそこにあるだけだった。


 ベルベットの布の上に横一列に並べられた十三本の鍵が、薄暗い部屋に差し込む夜天光をその身に写しこんで冷たく硬質に輝いている。柔らかな布地の上に丁寧に横たえられたその銀色の道具たちは、目を閉じ無言のままそこで眠っている。ただ、それらの輝きは列の左へと遡るほど滅していて、左端にある鍵、と見られるそれは、赤茶色く錆びて崩れ、その形を失いかけていた。


 その赤錆びた残骸からひとつ、ひとつと目を右へ移していくと、最後に俺の目がとまったのは右端に横たえられた鍵だった。これといって装飾のない無骨な鍵で、それもまた、他の鍵と同様ベルベット地の上に横たわっていて、窓の外から取り込んだ月の光を飲み込んでいる。その銀色の持ち手に微かな凹凸が見える。もっとよく見ようと伸ばした俺の手の中に、それは半ば吸い付くようにして収まった。俺の手のひらの上で目を覚ましたように見えるその鍵に彫り込まれた凹凸は、見たことのある記号の形をしていた。


「四・二・二」


 見慣れたアラビア数字の羅列を口に出した時、俺は、今、己の手の内にあるそれが「自分のもの」であることを知ったのだった。ゆっくりと息を吸い、その鍵の形を確かめるようにして月の光に照らし、くるくると回して見る。俺にも自分の鍵があったのだという驚きが心臓の奥をとくとくと小さく揺らしている。俺の知る限り、ひとでなし共がことごとく持っているらしいこの鍵というものは、俺には与えられていないものだと思っていた。けれど、そうではなかった。茜がずっと俺の代わりにこれを持っていたのだ。


 ここに来たあの日に俺の舌の上から剥がれ落ちたあの鍵が、恐らく今手に持っているこれなのだろう。おぼつかないあの日の視界から抜き出した記憶は、ぼやけていて頼りない。しかし、きっと間違いない。これが、俺の鍵に違いない。


 彼女はどうしてこれを持っているのだろう。どうして、「これら」を後生大事に保管しているのだろう。不気味なほど整然と並べられた鍵たちの姿が、いよいよ意味を持って俺の目に映り出した。なぜ彼女がこれらを大事に持っているかって? そんなの決まっている。俺は、胸ポケットにしまい込んだままのかすみの鍵の重さを確かめた。


 忘れないためだ。自分が殺した人間たちを、忘れないようにするためだ。彼女の目の奥に浮かんでいた橙色の炎が、薄暗い部屋の中で再び燃え出したように思われた。彼女は俺と同じで、自分が殺した人間を忘れないためにこうして鍵を持っている。持ち続けている。自分以外誰も覚えていない人間たちのことを、自分だけは忘れないようにして、罪の記憶として抱え続けている。そうしてぐるぐると巡っていく思考の中に、金色のまなざしがぎらりと蘇った。


「『お前を弔って』……」


 あのときの市井の言葉が、俺の口を通して冬の部屋の中にこぼれ落ちた。そうだ、彼女は。茜は。手の中にある自分の鍵が鈍く輝いている。


 もし俺が死んでも、彼女が俺のことを弔うのだ。口元が小さく息を吸い込み、俺の頭は誰もいない部屋の中央へと振り向けられた。無人のベッドは、敷かれたシーツに皺が寄っていて、俺と茜の匂いを吸い込んでいる。彼女はこの部屋で、ずっと、そうして生きてきた。胸の奥がしめつけられるような痛みに俺は奥歯を噛み、息が詰まるままにうなだれて、俺の記憶の断片が彫り込まれた自分の鍵を握りしめていた。



***



「医者は帰ったよ」


 と枇杷が、戸口に立っている茜に声を投げる。そのまま慎重な足取りで洋間の中央へと進んだ茜に、枇杷はカウチの上に起き上がって向き合った。


「何があったの」


 尋常ならざる雰囲気に茜が問いかけると、枇杷は


「裁判所がまた何か企んでる」


 と短く返す。自分の肘掛け椅子に収まっている真木と椿にも視線をやった後、茜は枇杷に話の続きを促した。


「黒服の猟犬が何か探し物をしているらしくてね。それで僕がやられたんだ。腹の中をぐちゃぐちゃにね」


 眉をしかめた茜に向かって、枇杷の言葉の続きを引き取るようにして、真木が声をあげる。


「枇杷が言うには、裁判所の狙いは俺たち華屋じゃなく、『枇杷が持っているはずのもの』で、しかし枇杷にはそれが何か、見当もつかんらしい」


「とにかくだ」


 真木の言葉を黙って聞いていた枇杷が再び口を開き、茜の目を覗き込む。


「何があるかわからない。茜は、この件が決着するまでは、むやみやたらに外をうろつかないこと。お前はまともに戦えないんだからさ」


「わかった」


 と茜が返すのに頷いて、枇杷は床に転がっていた靴を履いた。


「夕食にしようか。生きてれば腹は減るんだ」


 真木と椿も続けて立ち上がる。


「猟犬が来るのを待ってらんないしね」


 と、椿が、洋間を出て行く茜の背中に続き、真木は部屋の中に残って暖炉の火を消しにかかっていた。廊下に出て、食堂の方へと向かわない茜の背中を見遣り、枇杷は彼女の背中に


「何かあったら言うんだよ」


 と、声を投げると、平常と変わらず表情の薄い茜の顔が彼の方を向いた。


「些細なことでもね。僕らは、『家族』なんだから」


 茜は口を開きかけた。八手が彼女の秘密を知ってしまったことが、真っ先に彼女の頭に浮かび、薄暗い部屋の中で彼女が彼に向かって吐いた言葉の数々が、今になって彼女自身に跳ね返ってくるのだった。けれど、彼女の躊躇もほんの一瞬のことだった。


「そうする」


 茜の物分かりのいい口調が、立ち止まったままその返事を待っていた枇杷と彼女の間にぽかりと浮かび、枇杷はひとつ小さな頷きを返してから食堂へと向かった。枇杷に背を向けて自分の部屋へと向かいながら、彼女は口元を苦々しく歪めていた。


 なぜ言えなかったのだろう。上階へと続く階段を踏みしめながら、彼女は己を罰した。言ってしまえばよかった。そう考える彼女のハイヒールの底の硬さがその足に堪えた。言ってしまえばよかったのだ。八手は、もう私の正体を知っているのだと。そんなの、華屋の全員がわかっていたほうがいい。黙っているままではいけない。なぜなら、我々は「家族」なのだから。それなのに言えなかったのは、うまく立ち回れなかった自分自身が罰されることを恐れたからだ。そして、きっとそれだけではなくて。考えているうちに自分の部屋の前に着き、彼女はドアノブをひねって扉を奥へ押し込み、部屋の中へと踏み込んだ。



***



 閉じていた目を開けて、目の前に横たわった女の子の瞼の形をしばらくじっと見つめていた。春待ちゃんは、ぐっすりと眠っている。私は、彼女を起こさないようにゆっくりと身体を離し、彼女にかかった布団を動かさないようにしながら起き上がった。


 窓の外を振り返る。もうじき人気のなくなるこのあたりの街並みは、いつも通り静かで、穏やかだ。外でやり合っていたらしい二人組は、いつのまにかいなくなっていて、あの恐ろしい音から逃げ延びるようにして春待ちゃんと二人で部屋の中に入ったのが夢の中のことみたい。とにかく、もう安全に違いなかった。


 私はそうっとベッドから降りて、カーテンの間から差し込む月の光の白くて細い明かりを頼りにしてひたひたと部屋の中を進んだ。クローゼットから靴下や、上着や、マフラーなんかを取り出して、春待ちゃんが起きていないか、ときどきベッドのほうを振り返りながら身支度をする。しっかり着込んでから靴を履いて、テーブルの上に置きっぱなしだったランタンを持ち上げると、持ち手のところが、きい、と高い音を立てた。私はびっくりしてまた彼女のほうを振り返ったけど、起きてはいないみたいだ。


「すぐに帰るから」


 私は、彼女に聞こえもしないのにそう囁いて、自分の鍵を持っているのを確かめてから、アパルトマンを出た。



***



 部屋に入った時、茜の目に最初に見えたのは、薄暗い部屋の中にぼうっと浮かび上がるひとつの影だった。明るい廊下から暗い部屋の中に入った彼女は、眩む視界に顔をしかめ、暗闇に目が慣れてくるのを待っていたが、目に入ったその影の中にあった二つの目がぐるりと回って自分のことを捉えたのに気づき、ぎょっとした。部屋の中には、この真冬には似つかわしくないことに、男の汗の饐えた匂いが不気味に漂っている。


「どこに行ってたの」


 影の正体が八手であることに気づいた彼女は、そのまま、ベッドに腰掛けた彼の方に近づいていき、彼の前髪の間に覗く額に、真夏でもあるまいに大粒の汗が滲んでいるのに気づいて歩みを止めた。八手は、血走った目で彼女の顔を見たままだった。返答をよこさない八手に向かって、彼女がもう一度口を開こうとした時、八手が


「座れよ」


 としゃがれた声を出し、茜は当惑した。その、疲れに浸った声の中には妙に芯があって、くたびれた顔には確かに揺るぎない意志の色が見えたからだ。


「座ってくれないか。お願いだから」


 茜は無言のまま眉をひそめ、濁った八手の二つの瞳の中に微かに光が差しているのを見ていた。彼女はそのまま、彼の前を通り過ぎ、光の差す出窓の前へと行って、そこに寄りかかるようにして腰を落ち着け、再び八手の顔を見た。彼にはどこか、長旅をしてきたような風情があった。彼は両目の奥から彼女のことを見つめた。


「君が、あんな食事をしている理由を教えてくれ」


 不意に吐き出された質問に面食らい、茜は喉の奥がつまるように思った。八手が彼女の言葉を待ったままなので、彼女は彼の顔つきを不可解に思いながらも、ひとつ息を吸って、


「合理的だから」


 と、短く答えた。


「時間が勿体ないってわけ?」


 彼女の簡潔すぎる言葉を噛み砕こうとした八手の言葉を受け、茜は、


「……そう」


 と喉の奥から滲み出るような返答をするが、少しの間も置かず、八手は


「違うな」


 と彼女の強張った顔を見た。


「なんで他の奴らと一緒に食べない?」


 喉の奥から押し出された彼の声が強く部屋に通った。


「ここで食べようと下で食べようと同じことだ。そうだろ?」


 そうだろ、と念を押すような八手の声に、茜は、彼に気取られないくらい微かに、唇の内側を噛んだ。彼女は何も言わない。八手はため息をつく。


「……それくらい教えてくれたっていいだろ?」


 彼の下手に出たような疲れ切った声に、茜は右足の位置を変え指の先に力を込める。


「違うからよ」


 ふっと溢れるように出た彼女の言葉は、すぐにその次の言葉を連れてきた。


「私とあんたたちは違うから」


 八手は、彼女が組んだ腕の肘を握りしめるのを見ていた。彼女は、自分の胸の中に浮かんだ輪郭のない感情を掴み取って、なんとか目の前の男を納得させようとする。


「同じものを食べているのに、同じテーブルに座っているのに、私だけ、別のところにいるみたい」


 俯いた彼女は、ダイニングでフォークを握りしめる自分のことを思い出していた。彼女はそのときの自分の体の感覚の全てを取り戻そうとしながら、もはや自分が喋り続けていることを忘れようとしていた。


「近くにいればいるほどに、私とあいつらが、私と、あんたが、違うってことがわかるでしょ」


 彼女の口は、ひとつ、ひとつと途切れながらも言葉の連なりを吐き出していく。彼女のたどたどしい声を、八手が、湿って音もない部屋の全体が、聞いていた。わかるのよ、と彼女の声がまたその口から転がり出た。


「まともにやろうとすればするほどに、自分がまともじゃないってことが……」


 彼女はそこでとうとうはっとして、気の狂ったように喋りすぎた自分を恥じるように口を閉じ、


「もうやめ。こんな話」


 と吐き捨てて、深く息を吸い、吐いて、その胸は己への怒りに燃えた。その怒りさえも馬鹿らしくて、茜はとうとう顔を上げて、彼女の話をずっと聞いていた八手のほうを見遣った。八手はうつむいて、床の上に落ちる茜の影の形を見ていた。口元に手を当てた彼は、疲弊したその表情の内から大きく息を吐いて、彼女の言葉を頭の中で何度も反芻するかのように何度も小さくうなずいている。茜は彼のその様子に堪り兼ねて、出窓を振り返り、留め金に手をかけて、窓から外の空気を取り入れた。彼女はそのまま振り返らず、熱くなりかけた自分の胸の内を平常に戻そうとでもするように凍った冷気を吸い込んだ。振り返らないままの彼女の耳に、そのとき彼の


「もうひとつ、教えてほしい」


 という言葉が滑り込んだ。茜は振り返らなかった。振り返らないまま、彼の言葉をどこか遠くで聞いていた。彼女の背中を見つめたまま、八手は組み合わせた自分の手の内側に、じっとりと汗が滲んでいるのを覚え、己の口が強張っているのに気づいていた。彼の視界の中で、茜の髪がかすかにそよいでいるのが見えた。彼は覚悟を決めた。


「君が果たした『復讐』っていうのは」


 彼がそこまで言った時、彼の言葉を拒むように向けられていた背中が震え、茜が振り返った。彼の視界は彼女の朱色の目を捉えたし、彼女もまた彼の両目を捉えていた。そのとき彼らは、完全に見つめ合っていた。


「一体、何なんだ」


 吹き込んだ突風が窓枠をがたがたと揺らし、風を含んだ踊るカーテンの間で、茜の揺るぎない立ち姿が彼の目にしっかと刻まれるようだった。


「誰に聞いたの」


 八手の言葉を理解したそばから、彼女の腹わたは気味の悪い痛みに侵食され、喉の奥が驚きに震えるまま彼女は声を出した。


「誰にも」


 八手は、できるだけ落ち着いた声で、彼女のことを脅かさないように、そう返答した。くたびれた彼の顔の中でぎらぎら輝く両目に、彼女は自分の背中がますます強張るのを覚えるが、彼はさらに何ともない様子で言葉を続ける。


「俺自身で知ったことだ」


 揺るがない目の奥にある心臓から声を出すように、彼は妙に芯をもった声を出した。


「俺だけの力で」


 彼女は自分の足元がぐらつくような感じを覚え、それが自分の感情の揺らぎから来るものだというのをすぐに理解した。けれど、彼女の理性がその感情を抑え込むよりも一瞬だけ早く、彼女の口が滑った。


「気持ちの悪いことを言わないで。あんたにはわからない。私のことなんて、あんたは何も知らない」


 自分の支離滅裂な言葉が部屋の空気を引き裂くようなヒステリックな声になって飛び出すのを、彼女の理性はむなしくも見つめていた。けれど、彼はそれに理知的に返した。


「知ってるさ、少しは」


 彼は立ち上がりそうになる自分のことを抑え、辛抱強く言葉を続けた。


「話してくれないか。俺の知らない君の苦しみっていうのを……力になれるかもしれないんだ。俺が──」


「話す必要はない」


 ぴしゃりと叩きつけるような言葉を放った彼女の顔は、怒りと恐怖に震えていた。彼女は己の感情を振り払うようにして戸口に向かって歩き出し、努めて彼の声を聞かないようにした。けれど、彼女の耳は通り過ぎた背後の彼の声を聞いていた。


「君の目の奥には今も、あの日の炎が燃え上がったままなんだろ」


 彼女の目の奥に赤い揺らぎが燃え上がり、その顔は反射的にベッドに座ったままの彼の影を振り返った。


「あんたは」


 彼女はその手を握り直し、胸の中に確かに鼓動を打つ己の心臓があることを確かめながら、八手の両目を睨み返した。


「何を知っているの」


 八手は屈めていたその背中を少し伸ばし、ゆっくりと


「君が思う以上に、君のことを」


 と口に出す。茜の慄いた口は、恐怖を越え、ひとりでに笑い出した。


「頭がおかしくなっているのね」


 そうして語気強く罵れば、彼が、彼の心情が倒れるような気がしていた。けれど、


「そうかもしれない」


 と、八手は彼女の言葉を引き受けた。


「今だっておかしいし、昔からきっとおかしかった。けど、本心だ。本心から、君と、もっとちゃんと話をしたいと思ってる。これは間違いない。少なくとも今俺は、そういうつもりで話をしてるんだ」


 彼の言葉がしっかりとした基礎の上にひとつひとつ並べられていくように思った茜は、その、理性的であるという気味の悪さに、ほぼ無意識に首を振った。八手は、それでも彼女の心の揺らぎを真に掴もうとするように、ぎらつく目の内側から話しかけた。


「君は、ひとを殺すのが今でも怖いんだろ。俺のことでさえ、殺し難いと思っている。殺さないですむなら、それがいいって」


「憶測でひとを縛りつけるのが好きなんでしょ」


 たどたどしく転げ出た彼女の声は、すぐにこう続いた。


「じゃあ私も、私が今思ってる通りのことを言ってあげようか」


 八手は、口を引き結んで彼女の言葉を聞いていた。彼女は自分の姿勢の中に一本の軸を通そうとして、心を奮い立たせんとその口の中に嘲笑を含んだ。揺らがない彼の影に向かって、彼女のおどけた唇が開く。


「あんたなんて、早く死ねばいい」


 そう言い切った彼女は、早まった鼓動を押さえつけるように息をついたが、八手は、彼女にとっては恐ろしく不可解なことに、彼女に哀れむような目を向けている。


「俺を殺して、君はその罪の重責に耐えきれるのか」


 部屋の中に彼の声以外の音はない。


「耐えられないくせに。できないくせに。どうせ『また』この部屋で泣くつもりなんだろ」


 彼女は彼の言葉のひとつひとつが彼女自身のことを射抜こうとする鋭さを持っているのに、もう気づいていた。


「君は、冷たい人間じゃない」


 彼がそう言った時、彼女の心は自分の身を守るための反逆心に満ちていた。


「そう思いたいのね」


 恐怖と侮蔑に震えた彼女の声は、不気味な笑みがこびりついたその顔から発されていた。


「冷徹な仮面の下の温情に満ちた素顔っていうのは、みんな大好きだから」


 八手は黙って、再び手を組んで、彼女の棘を持った声音に耳を傾ける。


「でもそれは幻想なのよ」


 そうして言葉を紡ぐうちに、彼女は、自分の心の中に平常の波のない思考が取り戻されていくような気がしていた。


「そうだと思いたくて、あんたが作り上げた美しい私の姿なの」


 自分の口から人間じみた体温を持った息が言葉と一緒に漏れ出るのに気づき、彼女はそこに冷静な己の理性が身体と同調するのを覚えて、視界の中央にいる男に対する勝利を確信した。


「皆んなそう。私の目の中に、私が持っている以上の、私が見せようとしている以上の、贋作の美しさを見つけ出してくる」


 心臓の音が彼女の胸の奥でとくとくといつも通りに時を刻み始めている。


「『芸術家』っていうのは、概してそういうものね」


 それまで口元に笑みを漂わせながら言っていた彼女は、目元に怒りの表情を作り、


「でも私は、あんたに愛される美術品なんかじゃない」


 と、自分の手に目を落としたままの八手に向かって攻撃的な口調を浴びせた。八手はひとつ瞬きをすると、頭を上げそのまま彼女の目を真正面から見た。


「そうだ、君は人間だ」


 茜は、予期せぬ彼の言葉に目を見開いた。彼は彼女の中に生まれたその戸惑いの感情を今度こそ捕まえようとするみたいに身を乗り出し、とうとう立ち上がった。そうして、後ずさろうとして、けれど意地を張って動かなかった彼女に向かって一歩、二歩、と近く。


「俺はやっと今、初めて、君と出会って初めて、人間としての君と話をしたいと思ってるんだ。俺たちきっと、もっと、うまくやれるんだ。そうに違いないんだ。だから」


 彼の目に彼女の傷つけてやろうとするような意地の悪さはひとつもなく、その両目はその声音と全く同じ切実さを持って彼女に向けられていた。彼女は彼のその様子に耐えきれず、恐怖と困惑の入り混じった顔で首を振る。


「そんな目を向けないで」


 彼女は、己の身を庇うようにしてその両手を自分の胸の前で握りしめた。


「あんたごときが」


 再び高まった彼女の心臓の鼓動が、切羽詰まった呼吸を彼女に強いるのだった。窓から差す光の前に立ちはだかっている八手の姿が、彼女にはそれまで以上に大きく見えるのだった。彼女は、純粋に自分の身を、心を守るために声を出した。


「私の人生に入ってこないでよ」


 彼女の声は部屋の隅々、全ての暗がりまで届いて、その余韻は冬の中に悲しげに吸い込まれて消えた。残ったのは、じっとりと汗をかいて肩で息をしているやせっぽちの女と、その前に立ちはだかるひとりの男だった。


「『俺は死なない』って、いつか言ったよな」


 彼の言葉の唐突な初まりに彼女はびくりと肩を揺らしたが、彼の声は落ち着き払っていて、しかしその根底にはどこか突き放すような冷たい響きがある。


「俺は君なんかのために死ぬつもりはない。君を愛するつもりもない。俺が愛しているのは俺自身だけだ。君に出会ってよくわかったよ。俺は、俺のことしか愛していない」


 それまでになく淡々とした彼の口調に、彼女はただ彼の言葉を理解するそれのみで頭がいっぱいになった。


「昔も、今も、ずっとそうだ。そうしてやってきた。俺はずっと、そうやって、それだけで生きてきた。これからもずっとそうだ」


 八手は、彼女の目を見つめながらも、彼女の向こう側に話しかけているような、平たい声を出していた。


「俺は、俺自身のエゴイズムの根深さってものを、俺の人生のために、俺だけのために使い切るんだろうさ」


 彼はその言葉尻でようやく諦めたような笑いを零し、


「だから、心配しなくていい」


 と、その目尻を持ち上げた。茜は、彼の言葉の全てを理解できないままだった。八手は、ほぼ自己満足な口調のまま、茜に向かって言葉を吐いた。


「俺は、君のことを愛したりなんかしないからな」


 まっすぐ立っていただけだった彼の足が再び動いたとき、自分の身体を掴まれると思った茜は思わず身を引いたが、彼の手は彼女の肩に向かって伸びたりはしなかった。彼はそのまま彼女の横を通り過ぎ、廊下へと続く扉を開けて、外へと出て行った。


 部屋にはとうとう、彼女だけになった。ほんの何十秒か前まで繰り広げられていた、斬り合うような言葉の応酬が終わった部屋は、あるべきものが抜け落ちたような空虚を孕んでいるのだった。投げ出されたふたりの言葉の余韻が、確かに熱を持ってまだその部屋の中に漂っているかのようだった。


 残された彼女は何もできないまま、しばらくそこに立ちつくしていた。



***



 部屋を出て、洋館を目指す。中庭に降りた俺は、踏み石の凹凸を自分の足の裏で感じながら、今さっき見た茜の表情や言葉を思い返していた。あれだけ言っても、まだ足りなかった。彼女はそれほど簡単に秘密を明かしたりしない。でも、確かに彼女は動揺していた。やり方は間違ってない。けれど、まだ不十分だ。彼女に口を開かせるのにはまだ情報が足りない。もっと、もっと確定的な、決定的なフレーズを掴むんだ。


 手の中に、鍵の冷たい感触を確かめる。視界の中を通り過ぎていく木々の間に花開いた冬の結晶から、凍るような寒さの中にほのかに蜜の匂いが漂っている。瞬きした俺の瞼の裏側に、ふるえる朱色の瞳が浮かび上がる。


 君がした復讐とは、何だ。

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