第三十二話 完全な存在
落ちた本を拾い上げ、彼女はため息をついた。
「思っていたよりも展開が早かったね」
と、書架の上に座った僕が言うと、彼女は一度こちらを見やってから、悩ましげにその顔を伏せて、
「ええ……」
と小さく返す。彼女はそのまま、倒された書架の周りに散らばった本を拾う作業に戻った。かの猟犬が荒らしていった通路を元に戻すのは、今となっては彼女の仕事だった。けれど彼女は、ため息をこぼしている。ねじ曲がった書架が折り重なった数多の本のそのまた上に覆いかぶさるようにして倒れているのを見、これを自分で直せるだろうか……と眉根を寄せて。
「もう少し引き伸ばせるかと思っていたんだけど」
裁判所の猟犬と言うからには優秀だ、と僕が呑気に喋っている下で、彼女は猟犬に足蹴にされた本の土埃を払い、凹んだその表紙を慈しむように撫でた。
そうだ、実際、僕らが思っているよりもずっと早く、事は起こった。猟犬は早くも一定の真実にたどり着き、その目をぎらぎらと光らせて真の敵を追い込む狩を始めている。そうだ、あの裁判所の猟犬は、ひとつの真実にたどり着いた。けれど、彼女は勘違いをしている。あのページを改竄したのは、何も持たない狂犬じみた彼などではなく、今ここにいる、僕らなのだ。これを読んでいるあなたも知っての通り、彼はそこまでこの森の真理に踏み込んでいないし、ここの本の記述を書き換えるだけの力もない。猟犬の怒りの矛先が向くべきは、本来僕らだ。もっと正確に言えば、目の前で本を拾うことに努めている少女、彼女こそが標的となるべきだろう。
「私たち、間違ったこと、してませんよね」
本を拾い続けながらそう口に出す彼女に、僕は偉大なる救世主たる、筈の、目の前の人物があんまりにも頼りなくって心配になる。僕らの反対や心配を押し切って情報を切り貼りすることを選んだときの、あの使命感に満ちた顔つきや声音ってのは、一体どこにいってしまったんだろう。僕は口の端を噛んでいるのをやめて
「一番矛盾が出にくい方法だった」
と、彼女に返事をしてやる。
「その点については、僕が大いに保証するところだ」
僕は慎重にそう言葉を選んで、腕を組み、星空を見上げる。
「そう、そうですよね」
彼女の不安げな声を聞き流しながら、僕は顎に手を当てた。そう、実際のところ、これが一番矛盾のない方法だった。鍵を持っている彼を、黒衣の猟犬から逃がすために僕らができたこと。それは、猟犬の注意を別のところに向けさせる事だった。彼のことを本の森に招いた彼女は、筆記係の彼に頼んで、迷い込んできた彼のここでの記憶を一切記述しないようにした。彼が何度も青緑色のドアからここに入り込んできたあの筋書きについて、彼の本に一切の記述はなく、ここへの来訪にかかる前後の話についても大きな矛盾を生まない程度に濁して書いた。少し前まではその小細工で猟犬の目を免れていた。けれど、あの猟犬はとうとう失くした鍵を探し始めてしまったのだ。狙いの獲物を探し尽くし、その持ち主を殺し尽くさんばかりの剣幕で。
「あなた、言っていましたよね」
と、彼女の声がするから僕は下に目を向けた。
「『彼女』と渡り合えるのは、『彼』くらいだと……」
彼女の声はやっぱり不安げに小さく震える。彼女の言っている「彼女」と「彼」というのは、かの猟犬と、その猟犬の襲撃を受けたあの透明な雰囲気をした華屋の用心棒のことだ。
「確かにそう言ったね」
と僕が返すと、彼女ははにかんで僕の目を見た。
そうだ、このままでは猟犬の牙が我らが主人公の喉笛に食いつくのも時間の問題だ、と思った僕たちは、彼に向くはずの追っ手の目を無理に別の人物に向けさせた。あるべき場所にあったページを切り離し、名前を書き換え、前後に支障をきたさないよう、最小の手数でもって改竄した。
「そうだよ……猟犬の彼女とまともに戦い、凌駕できる華屋のひとでなしは彼くらいだ。他のひとでなしたちも、一対一でなければあるいは勝てるかもしれない。けれど、保証はできない。といったところだと思う」
以前と寸分違わぬ僕の説明に、彼女は露骨に安心した顔をした。ああ、そうやってなんでも顔に出るところが憎めないんだよなあ、彼女。それで、話を戻すけど、僕らの主人公を守るために猟犬の注意を引きつけ、もっとも被害が少なくなるよう戦力が均衡しており、ページの差し替え程度で矛盾なくストーリーが続くように置き換えの効いた人物、それが、透明な彼だった。だから、僕らは彼を人身御供にした。もっとも、僕らの目論見通り彼はあの猟犬を追い返したわけだから、犠牲にはならなかったんだけど。
「君がさっきから言っていることは、僕から見ても全部正解さ」
僕はそうして彼女を肯定してやる。それから一拍置いて、
「でも」
という僕の声に、彼女は不安げな目を上げた。
「君はなぜそこまで、彼に肩入れする?」
彼女はまともに僕の顔を見て、それから気まずそうに目をそらし
「それは」
と居心地悪そうに肩をすくめるから、僕はその煮え切らない態度に幾分苛立っている自分を見つけてしまった。
「君は彼のことばかりよく見ているね。彼に関する記憶ばかり遡って読む」
苛立った僕の声音が彼女のことを責め立てる。けれど、彼女は、僕らは、今のままではいられない。
「隠したってしょうがないんだ。そもそも、別に後ろめたいことでもない」
彼女はそこで、意外そうな顔をこちらに向ける。
「君が彼に味方をしてあげたいって思うのは、論理的な理由があることじゃない」
そうだろ? と付け足し、僕は書架の上であぐらをかいた。彼女は手に持った本のことを忘れてしまったみたいにして呆然とそこに立っている。
「ただ、純粋に『味方してあげたいから』味方をしている」
彼女の喉が小さく息を吸うのが聞こえる。
「何も持たない彼に、親近感を抱いているから。弱く無力な者に、哀れな弱者に、力を与えてやりたいからだ。そうだよね」
彼女は戸惑うままに小さく口を開け、何も言えないでこちらを見ている。ああ、そういう顔をされると、僕の決心が揺らぐからやめてほしいんだけど。もう! 僕っていっつもこういう役目を割り振られるなあ。そうして思わずため息をつくと、彼女はまだどうしたらいいのかわからないって顔だ。僕は凍りついた空気が鬱陶しくなって、道化師みたいな手つきの右手を振って、
「いいんだ。君の基準で判断すれば」
とおどけた声を出す。
「でも、これだけは言っておくけれど」
という僕の尖った追撃の声に、緩みかけていた彼女の心がまたぴんと張り詰めた。
「一度介入したのなら、最後まで彼のことを導くんだ」
まっすぐに彼女のことを指した僕の指の先を、彼女自身が見つめている。それは、銃口を突きつけられた反逆者の面持ちに似て。
「彼が結末を迎えるまで」
彼女の揺れていた心が、僕の指の照準の先で痛みに捉えられる。
「運命の女神として、君は、最後までその役割を果たせ」
女神は、穏やかな微笑みをたたえるべきその口を、決意に満ちて引き結んだ。
***
明日からどんな顔してカフェに行けばいいのかな。私はそればっかり考えながら帰ってきて、アパルトマンの戸口をくぐって中庭に入った。「また明日」って茜は言ってた。それって、明日も働きに来ていいってことだ。茜は私に「失望して」いながら、それでも私のことを雇い続けるってこと。それってつまり……どういうことなんだろう。私はそこまで考えて、ちょっと泣きそうになった。どうしよう、別のところで働こうかなあ。椿に頼めばなにかお仕事を紹介してくれるのかもしれない。でもあの人がやってるのって大人のお店よね。そうしたら、私にできることなんてないのかも。じゃあやっぱりカフェで働き続けるしかない。でも、茜が謝まらせてくれもしないまま明日もまたあのカフェで働くなんて、やだなあ。私、自分のことを嫌いな人に向かってにこにこするの、駄目なんだ。たぶん出来ないよ。私はしゃがみこんで、そのまま泣き出してしまおうかと思った。けれど、冬の夜は寒いから。それに、階段を上っていった私の部屋では春待ちゃんが私のことを待っているから。
「よし!」
と私は口に出して立ち上がり、涙がうるんでいた目を拭って、皺の寄った上着を着なおし、ポシェットをしっかりとかけて階段を上がり始める。お仕事、早く上がれちゃった! って春待ちゃんに向かって笑顔を作ることを心に決めて。
人気のない階段をぐるぐる上っていって、私は部屋の扉に手をかけた。扉の下から細く明かりが覗いている。何してるかな。この間買ってあげた本を読んでいるのかな。
「ただいま」
という私の声が、開いた扉の向こうに吸い込まれて、ベッドサイドランプの光が見えた。天井の明かりも点いている。ストーブががたがたと音を立てている。ベッドの上の布団がめくれて、枕元には子供向けの冒険小説が開いたまま。そして、ベッドの奥にある出窓のカーテンが揺れたまま。
「春ちゃん……?」
私が踏み込んだ部屋の中からは、誰の声もしなかった。ハイヒールの音が石畳の床にこつんと鳴って、私は玄関の扉を閉めて、その閉まる音が部屋の中に少し反響するのに驚きながら奥のキッチンを覗く。小さなダイニングテーブルには二つの椅子が向き合っている。振り返った先では、ベッドの傍のクローゼットは開いたままで、しんと黙っている。クローゼットの方を向いた私の頭の後ろに、カーテンが翻る音がした。振り返る。聞こえた通りに、カーテンが風に揺れている。風に揺れているのは、窓が、開いているからだ。
気づいた途端に私はぞっとして、走って靴のままベッドに上がり、開け放たれたままの出窓から身を乗り出して、
「春ちゃん!」
と叫んだ。窓の下に下っていくレンガ屋根の赤い色が月の光の下に鈍く塗りつけられていて、私は顔に吹き付ける冬の空気に胸の内まで凍るような気がした。胸が急ぐままハイヒールを足からもぎ取って部屋の中に投げつけ、屋根の上に降りて春待ちゃんの姿を探す。
「は」
「わ、ごめんなさい!」
と頭の後ろから声がしたから私は振り返った。目の入ったのは、まぶしいランタンの光の色だった。その光の向こうから、春待ちゃんがすまなそうな顔で私のことを覗いている。彼女は出窓の上に被さった屋根の上にいたみたいだった。私は彼女の顔を見つめて、しばらくぽかんとしていて、春待ちゃんが動かない私に戸惑って、きい、と音を立てながらランタンを下ろしたときも、私はまだ口を開けたままだった。彼女がおずおずと、
「あの」
と声を出したときに、やっと固まっていた身体が動き出して、私は瓦屋根の傾きの上に膝をついた。
「よか……なんでそんなところにいるのよ……」
と、私の声が頼りなく震えると、春待ちゃんは泣きそうな顔でまたごめんなさいと言った。彼女の手からランタンを受け取って、今度は彼女の身体に手を伸ばす。彼女は屋根に手をかけながら後ろ向きになって上から降りてきて、私がそれを半ば受け止めるような形で支えて下ろしてやる。
「あぶない、でしょ」
と私の声がぎこちなく言うと、彼女は
「うん」
と俯いてしまう。私は屋根に腰掛けて、彼女に隣へ座るように言った。
「なんでこんなことしたの?」
と、私は母さんに言われたのと同じように問いかけてみる。春待ちゃんは、う、と声を詰まらせて黙りこもうとしたけれど、その口を小さく開いて、
「上の方が、よく見えるかな、と思って……」
と言った。そのままもっと顔をうつむかせてしまうから、私はもっと彼女の顔を覗き込まなきゃいけない。
「そっか」
と私は短く返す。ここは掃き溜めの中でも高い場所にあるから景色がいいんだよ、と春待ちゃんに言って、出窓の下に今みたいにして一緒に座ったことがあった。ふたりで星を眺めて、でも寒くって、だからふたりできゃあきゃあ言いながらすぐ部屋の中に戻って、ストーブの火を消して、ふたり同じベッドで眠る。私はそういうのが結構好きだった。春待ちゃんもきっと同じだったと思う。そうやって考えているうちに、隣にいる春待ちゃんの肩が震えているのに気づいた。びっくりしてその肩に触れると、彼女は涙目の真っ赤な顔を上げた。
「ごめんなさい、危ないってわかってたのに」
私が何もできないでいると、彼女は私の顔を見つめたまま、
「亜ちゃんがわたしのこと、守ってくれてるって、だから、この部屋の中にいなきゃいけないんだって」
わたし、わかってるよ、と彼女が言うから、私は、はっとした。そうだ。一日中同じ部屋の中で、暇つぶしは小説くらいで、いつ敵に襲われるかもしれないと思いながらびくびくして、彼女はここにいるんだ。この部屋に春待ちゃんを置いて行って鍵を閉めたら、部屋に入れるのは私だけだ。だから私は、この部屋に春待ちゃんを「閉じ込めて」バイトに行く。でも、閉じ込められている間の彼女のことを、私は考えていなかった。
「ごめんね」
今度は私が謝る番だった。私はそのまま彼女を自分の方に引き寄せて抱きしめる。でも、謝る以上のことはできなかった。だって、彼女をここに置いていかないで、どうすればいいんだろう。バイト先に連れて行って、休憩室に置いてもらおうか。でも、そうしたら今度は休憩室に閉じ込めることになる。じゃあ、カフェのお手伝いでもしてもらう? でも、茜を怒らせたばかりだ……。それじゃ、やっぱり市井や吉見たちに頼もうか。でも、春待ちゃんは市井や吉見たちのことをなんだか怖がっているみたいで、前にそうしようとしたときも上手くいかなかった。私は悩みこんでしまう。そうすると春待ちゃんは私の腕の中から私を見上げ、
「もう、こんなことしない。しないから、許して」
と言って、私の背中に手を回して抱きついた。私はすぐに彼女を抱きしめ返して、喉の奥に溜まった唾を飲み込み、
「もっといい方法を、一緒に考えようか」
と口に出すと、春待ちゃんは私の中で小さく頷いた。私の胸に顔を埋めた彼女は、抱きしめられたまま
「でも」
と言うから、私は彼女から少し身体を離す。
「今日は早く帰ってきてくれて嬉しかったよ」
彼女がそう言って笑うのはやっぱり可愛くて、私もつられて微笑んでしまう。
「何かあったの?」
と彼女が訪ねてくるので、私は
「実はね……」
と喋ろうとして、でも、どこかから不意に聞こえた、ものの壊れる音に心臓が飛び上がり、私は夢中で春待ちゃんを抱き寄せた。
「なに……?」
と屋根の上に立ち上がって周りを見回した時、もう一度同じような音がして、私は屋根瓦の平原の上に投げかけていた視線をぱっと下ろしてしゃがみこみ、春待ちゃんをきつく抱きしめた。私の視界がぐっと下に下がる時に一瞬だけ見えたのは、屋根の上で向かい合う二つのシルエットだった。
***
紅の目が視界の中央で揺れながら瓦屋根の上を後ずさるのを、裁判所の猟犬はじいっと見据え、彼女はその間にも相手に向かって進み、じりじりと相手との距離を詰めようとしていた。仮面のように凝固した顔を持つ黒づくめの男は、先ほどと変わらぬ温度のない紅の目で猟犬のことを見つめ返しているが、裁判所の執行役である華が自分を訪ねて来たことについて、彼が意外そうな様子であることを、華自身も見抜いていた。けれど、どこからどこまでが敵の欺きであるのか測りようもない。己を隠し逃げ去ることに特化した異能を持つ紅の目の男、吉野が相手であるからには、なおのこと。
「あなたたちがこの掃き溜めの中でどんな商売をしようが、私の知ったことではありませんが」
己が手で作り上げた黒い屋根瓦の大輪の中央で、ぐらりとその上体を揺らした華は、その冷徹な声音でその先を続けた。
「私たちを欺くことだけは、許しません」
華の挑みかかるような視線を避けもせずに真っ直ぐ受け止めた吉野は、じりじりと後退を続けながらも、大腿に据え付けたナイフに手を伸ばす。
***
また来てしまった。青緑の扉の前で俺はため息をつき、それと同時に自分のぼろぼろの身体が真冬の夜気に揺すられて、壊れそうに軋むのを覚えていた。丸一日は何も食べていないのか、俺。そう考えるとますます心細いような気になって、頭が重しになってこのままここに倒れちまおうかと考えた。今なら硬い絨毯の上でもぐっすり寝られるだろう。あと、千年くらいは。そしたら、もう……。そんな風に考えて、でも俺は俺自身を奮い立たせるように、右手の中にずっと入ったままの鍵を握り直した。俺の温度が移っていかないみたいに冷たいままの鍵の痛さが、手のひらから全身、頭からつま先まで沁みていって、俺のことを必死に目覚めさせようとしてるみたいだ。きっと、実際にそうなんだろう。
「死ぬなって言うんだろう」
開いた指の隙間から、かすみの鍵はこちらを見つめ返している。そうだ、君だって、最初からいなかったことにされたくなんて、ないもんな。そんなの当たり前だ。だから。
「『みつけ』に行こう」
俺は手の内の鍵で扉を開け、ひねったドアノブを木枠の向こうへと押し込んだ。
誰もいない書架の間を、延々と、けれど目的地がはっきりしたような確信めいた心で進みながら、俺はぼうっと思い出していた。「俺の」本のこと。棚の目立たない位置に収まっていた、小さくて地味で哀れな風貌のあの本。
「四百二十二」
今も目の奥に蘇る、あの数字の列。真横に並べられた三つのアラビラ数字。
「四・二・二」
やっとわかった。いや、本当はわかっていた。ずっと前から知っていたんだ。俺は。
「四時、二十二分」
そうして俺が途切れたように立ち止まったとき、俺の目の前には、そのみすぼらしい本があった。前と同じく、屈まなきゃ見えないような、目立たない場所に。俺の指がその背表紙に刻まれた「四・二・二」に触れる。
「あの夕霞」
喉の奥からはらりと言葉が溢れて、俺は書架の前に膝をつき、ろくな中身のないその本の背表紙に額を合わせた。この本は、俺と同じ温度を持っている。当たり前だ。これは俺なんだから。吐いた息がその背表紙にぶつかり、俺の顔へと戻ってくる。そのとき、聞き覚えのあるあの「かさついた」音がして、俺はぐったりとしたまま振り返った。俺の後ろに落ちた革張りの本が開いていて、そこから飛び上がった蝶たちがひとひら、ふたひらと俺に近づいて、俺の心が決まるのを待っているのだ。ランタンの光の色をその羽に透かしながら、くるり、ひらりと俺の顔に影を落としては、また光を投げかける、美しくておぞましい紙製の怪物たち。
「今日は優しいな」
俺はゆっくりと身体を回し、今度は背中を書架に預けて座り込み、白く黄ばんだ蝶たちの演舞を見上げた。
「いい、抗ったりしないから」
俺のその言葉に、蝶たちはまるで戸惑ったようにぴり、と一瞬空中で止まって見えた。けれど、まもなくその中の一頭が群れの中からふらりと飛び出したかと思うと、ゆるりゆるりと俺の顔の前へとやってきて、ふるり、と俺の鼻の上に留まった。蝶は俺の鼻の上で羽ばたきを繰り返し、俺の両目の上に影を落としては光を与え、また影を落とすのを繰り返した。文字の刻まれた羽の奥から透ける橙の光は、まるで木漏れ日のような温もりを持っているのだった。俺はなんだか泣きそうになって、その正体不明の心の震えに耐えられなくて、そっと目を閉じた。
石畳の上を走る、走る、走り続けて、ぐらりと倒れる。目の前に迫った地面に目を瞑り、それでも左手は握りしめたままだった。手の内側にあるこの「冷たさ」が、「私」にとっての救いだった。
「復讐をしたの」
視界の中央にいる黒髪の少女は、こちらに不気味な、けれど蠱惑的な輝きを持った笑顔をこちらに向けている。
「間違っていたと思う?」
「間違っていたと言って欲しいんだね」
「俺」がそう返すと、少女は露骨に俺のことを睨んだ。
「俺に叱られれば、君だって少しは報いを受けた気になるって」
「黙ってよ」
苛立たしげに上がったその肩が、薄暗い部屋の中で鋭利な形をとった。
「悪い子だ。君は」
彼女はこちらを見遣った。
「そういう、自分を貶めて罪悪の中に浸るっていう性質を持っているところがね」
彼女は眉間に皺を作ってこちらを睨んだ。
「まるでロマン主義小説の主人公だ」
「どういうこと」
幸い彼女に教養はなかった。でも、どういうこと、と言いながら寝台の上にごろりと横になった彼女の顔の中に佇む朱色の目は、俺が今まで出会ってきた高慢ちきで気取り屋で高尚な世界の全てを根本からぶちこわせるほどの可能性を秘めていた。彼女という存在はいつか、完成の時を迎えるだろう。それも、遠くない未来において。
「でもね」
と俺が言うと、彼女はその朱色の瞳の上に一度瞼を下ろし、もう一度こちらを見上げた。
「君の考えは間違っていなかった」
その言葉に、見開かれた彼女の瞼の内側に、その朱色の真円の輪郭が露わになる。彼女は寝台の上に起き上がると、重たい睫毛の下から挑むような目つきで俺のことを見つめ始めた。
「計算は合っている」
シーンが切れる。俺は見慣れた薄暗い寝室で起こった今のシーンの中から一時自我の世界へと顔を出し、自分の思考が働いているのを確認した。今まではこんなことできなかった。ただ、記憶の中の物語に飲まれているだけだった。けれど、俺は今、物語の中の人間とは別に存在している。彼らを「彼ら」と認識することができる。そして、今この瞬間にも俺のことを飲み込もうとしている次のシーンに与えるべき一人称は、「俺」ではなく、きっと、俺が普段あいつの口がそう喋るのをよく耳にするのと同じようにして、「僕」なのだろう。
「僕」が近づいていっても彼女は顔を上げなかった。今もまだその死骸の横に跪いて、横たわった胸の上に涙を落とし続けている。僕は口の中に多分の笑いを含み切ってから、それを彼女に吐きつけた。
「なあ、満足か?」
彼女は振り向いた。つり上がった朱色の目が僕のことを睨んだまま、涙をこぼし続けている。
「正直になって、胸のつかえを吐き出して、自分だけ楽になって!」
彼女は涙の向こうから僕のことを睨んでいる。だから僕は彼女の前にしゃがみ込んで、顔じゅうに脅すような笑みを漂わせてやった。
「そりゃあお前は、まるで罪を清算したみたいに気持ちがいいんだろう」
一言一言がその生意気な顔つきをした娘の胸の内側に染み込んでその隅々まで侵されて抜けなくなるようにと、悪意を込めて突きつける。
「『私はあなたが思ってるような女じゃない』って、正直に懺悔すりゃあなんだって許されるとでも思っているんだろう? ええ?」
僕が彼女の胸ぐらを掴むと、僕の言葉がどれだけ意味を持ってこの娘の中に染み入ったのかがわかった。その唇はわなわなと震え、僕に反抗しようとしながらも、既に屈服を認めていた。
「そんなのじゃお前の罪は贖えない。贖えるような罪じゃない」
僕の口には満面の笑みが溢れ、彼女の胸ぐらを掴む両手には憎しみが篭った。僕は両手をぐっと自分の方に引き寄せて、彼女の身体は着た服にひっぱられるようにして僕の方へと近づいた。
「嘘をつき通せ、最後まで男の前でその仮面を被り続けろ。最後まで、最高の女でいてやるんだ」
彼女の目からは、先ほどの闘志のようなものが消えていた。
「お前の罪は、最後までお前ひとりだけで背負うんだ。誰にも見せたり、渡したりするな。こいつは、お前のために死んだんだ」
僕がそう言いながら彼女を放してやり、死骸に目線をやると、彼女の顔もまたぎこちなくそちらを向いた。
「これからもたくさん、たくさん、お前のために死ぬ」
死骸を振り返った彼女の耳の形が僕にはよく見えた。僕はその耳に自分の耳を合わせるようにして彼女を抱き寄せた。彼女は驚いたようだった。その凍りついた背中に手を回し、僕は彼女の身体に自分の胸板をおしつけた。骨ばったふたつの身体が、埋められない隙間を保ったまま痛みを伴って隣接している。僕は、異物としての自分を保ったまま、妹を抱きしめてやりたかった。
「お前が地獄に落ちても、僕が必ず、その後を追ってやる」
僕がゆっくりとそう言葉を吐くと、彼女の胸がひくり、と息を吸うのがわかった。
「宿命のままに生きるんだ」
彼女は僕を、僕の言葉を拒んだりしなかった。ただ、涙を流す人間の息遣いを僕の頭の後ろで鳴らしながら、じっと僕の言葉を聞いている。僕は目を閉じた。瞼の裏側には、尽きることのない暗闇が広がっている。
「行き着く先は皆同じ」
目の前に倒れたままの男の手を持ち上げる。固まった死骸の手は指を開くのもままならない。けれど「私」はその指の一本をこじ開けて、その指の隙間に、冷たく平たいそれを押し込んで、もう一度その指を畳んだ。
「あなたに」
私は、地獄に落ちるらしいけれど。
「祝福がありますように」
「私のこと、必ず君が殺してくれるって、約束してくれないかなあ」
「私」のその言葉に、あの日の彼女は
「……いいよ」
とだけ答えて、私の顔に両手を添えて、その朱色の目をした美しい相貌を私の方へと近づけた。その首元についた香水が、湿った空気の中にライムの匂いを発散させていた。思い出の中で甘酸っぱい匂いを纏っていたその女は、今もまた、私の視界の中央にいて、私の手を握り、私の顔を、私のことだけを見つめている。
「煙草」
私の眼球だけが動いて、左胸のポケットを指すと、彼女はそこから煙草を取り出して、その一本を私の口に差し出した。私は力の入らない口の端でなんとかそれを咥え、
「火」
と、口の端から消え入りそうな息を漏らした。彼女は煙草と一緒になっていたチタンのジッポの蓋を開け、橙の炎を私の口元に持ってくる。ゆれる橙の色が、ジッポの側面に彫り込まれた優美な蓮の文様たちを、私の視界にてらてらと写しこんで映えた。間も無く、火のついた煙草が、芳醇な香りを私の口の中に送り出した。心地がいい。
目の前の彼女は、相変わらず私のことだけを見つめ続けている。彼女は、あの日の約束を果たした。私はきちんと、彼女のために死ぬことができた。私の心の内など知りようもないはずの冷徹な朱色の目が、私のことを今、生の向こう側へ最後の一押しをしようとしていた。彼女は美しい瞳の向こうから私のことを見つめ、滑らかな形を持ったその両手が私の手に添えられている。
「いい、眺めだねえ」
ああ、こんなときにも軽口が出るなんて、私ってどうしようもなく、「そういう」人間なんだな。彼女の視線がそのとき、一瞬だけ切れた。彼女は私の顔から私の身体へと目線を移したのだ。そのとき、私の口の端からとうとう煙草が落ちた。視界の外側から立ち上る細い煙の向こうから、彼女はもう一度私のことを見た。何者にも惑わされない心のない精巧な顔つきが、やはりもう一度私に向かって向けられていた。視界が定まらなくなっていく。それでもまだ、彼女の手の温度が確かに私に伝わっている。もしも私にまだ満足な身体が残っていたなら、命が残っていたなら、彼女の前で笑ってやりたかった。なんだ、なんだ、私は勘違いをしていたんだねって、そう言って、彼女が許してくれるなら謝ってしまいたかった。
ごめん、私、私、ずっと知らなかったんだよ。まさか、君が、君が。
「おやすみ」
彼女の声がする。その手の温もりさえも遠のいていく。私は、伝えられなかった言葉を、動かない舌と息を吸うことのない肺の間で押しつぶした。
まさか君が、私のために泣いてくれるなんてね。
誰もいない真っ暗闇の朝の部屋で、「私」は一番下の引き出しに両手をかける。木の面と面を擦り合わせながらまっすぐに引かれたその引き出しの中には、黒いベルベッドの布が一面詰め込まれている。私は布を剥がし、その下に一列に並べられた冷たい金属片のひとつひとつに目をやって、一番右端にある、最も新しい、錆びていない一本を手に取った。それを両手に持ち、そっと額に充てがうと、薄れ始めていた昨日の記憶が鮮やかに蘇った。あのひとの目の中に映った炎の揺らめきが、今も触れられそうなほど近くに見える。けれど、それはただの記憶なのだった。
私、最後まで、あのひとの最高の女でいられたのかな。それに応える声はなく、しんと静まり返った部屋の中にいるのは私ひとりだった。私はそれを元の位置に戻し、再び柔らかな布をかけてから、引き出しを奥へと押し込んだ。この部屋には誰もいない。
もういい、と胸の中で確かに言葉にしたときには、目の奥で耐えていた涙が頬の上へと溢れ出していた。私はそのままベッドの上に倒れこんで、目の奥に浮かび上がる橙色の炎の揺らめきに身を委ねる。涙に溺れる狂った鳴き声の内側で、私の理性的な声は遠くに向かって呼びかけていた。どうしてあなたは、私を悪人にした時、心まで奪ってくれなかったのですか。耳障りな自分の声が他の誰にも届かない寝室の中、目の奥には、煙草を落としたその口で私に祝福を与える微笑みがぼうっと浮かんだまま消えなかった。
「違う」
俺はとうとう覚醒し、青緑色の扉が月の白い光の下に浮かび上がって見えているのに気がついた。「彼女」の他に知ってる奴がひとり。知らない奴がふたり。そいつらの記憶に彩られた、ぶつ切りになった彼女の物語。俺が見慣れたあの朱色に貫かれた、感情の記録たち。不連続な記憶の海からやっと出てきた俺の脳内は、ひとつの感情、ひとつの判断だけで埋め尽くされていた。違う。ちがう。聞いていたことと違うじゃないか。凍えるような師走の空気の中に、俺の血で満ちた身体が、廊下に座り込んだままでいる。息を吸う。頼りなく弱り切った身体が震えている。俺の口の中で、音にならない言葉が組み上げられていく。吐く息の全てが、震える。彼女は。あの目の色を思い浮かべる。
彼女にはまだ、人のために流す涙が──震える心が、残っている。




